ゲルランゲがおそうじを覚えた理由は、
大人の言うとおりの恐ろしい体験をして懲りたからではありません。
また、次にも大人の言うことを聞かなかったために、
怖い目に合うのを恐れたからでもありません。
自分の考えは子どもっぽくて間違っていて、大人の言うことが正しいんだと悟った
からでも、自分の言動や性格について反省したからでもありません。
恐ろしい体験をして、言うことを聞かないゲルランゲが優等生のゲルランゲに変わった
わけでもありません。
それなら理由は何かというと、
ゲルランゲは、冒険と体験を通して、ゲルランゲという個性のまんま
成長したからなのでしょう。
強情っ張りのゲルランゲは強情っ張りの性格のまんま、
おそうじごときで意地を張らなくてもいいほど、
そして家族の深い愛情を理解するほど大人になったのでしょうし、
「おばあさんを喜ばせたい」という素直な感情が
ゲルランゲの心の変容の後押しをしたのでしょう。
そうしたゲルランゲの姿は、教室で見る子どもたちの姿と重なります。
子どもが本当の意味で成長するのは、その子の悪いところも含めて
しっかりとその子自身の個性で生きたあとだし、
それは待つことと見守ることを含めた愛情という土壌でだけ成り立つことなのです。
子どもの心は大人が与えたがる道徳教育とは別の筋道を通って
人としての資質を身につけていきますから。
息子は、ゲルランゲの童話を読んでから、面白そうに笑ってこんなことを言いました。
息子 「ゲルランゲは作家っていうすでに大人になっている人とは別の
ひとつの人格を持った子どもとして活躍しているね。
少し話が逸れるけど、
小説が作家の妄想であったとしても、キャラも妄想であっちゃいけない、
空想の世界で作家は主人公になっちゃいけない、って意見をどこかで読んだことが
あるんだ。人間って、100%自分がイメージできるものは、不思議と面白いと思わ
ないもんだよね。
物語のリアリティーは、作者がやりたいことをやるっていう願望充足とは別に
自動的に作りあげられていくところがあるよね。物語自体の持つ意志のようなものがさ。
それに添っているかどうかが、
子どもの心に忠実かどうかに対になっているように思うよ」
わたし 「物語自体が自動的に展開していくって話……同じようなことを、
ゲド戦記の作家のそんな言葉を目にしたことがあるわ。」
息子 「へぇ、そうなんだ。ぼくは、物語は、実験に近いような面があると思うんだ。
試してみてはじめて、何かを見つけたり、何かが生まれたり、次の展開につながったりするよう
な部分があるってことだけど。
お母さんが教室の子たちとティッシュ箱でする工作にしても、
一番初めに、自分の思いを完璧にイメージできてしまったら、
作る意味が半減するんじゃない?
なぜ作るのかといえば、そこにある実験的な要素のおかげで、
偶然、新しいものを発見することができるからだよね。
設計図を描くのにしても、
イメージしたものをわざわざ描く理由は、ただ頭の中にあるものを紙に写しだすため
だけじゃなくて、描くうちにイメージした時点では気づいていなかったものを発見する
からだし、描くうちに、自分の見え方そのものが変わっていくからじゃない?
子ども向けのアニメを作る上で、そうした偶発的に作る過程で起こることを
大事にしないで、最初に設定したテーマの中で、作り手の主張したいもののために
キャラクターたちを都合よく動かしてしまったら、
子どもの心から遠いものになるんじゃないかな?」