はじめに、日本のネットでの「基地外=気違い」「珍走団=暴走族」「ドキュンやら氏ね・・・・・」と
最低な言葉が増加してます、しかもネット上だけでなく日常会話にもテレビでもと本当に低レベル化しています・・・
しかし一つだけ 『マスゴミ!!!』マスメディアは塵!これは実に的を得たピッタリな言葉と思い使用しています。
さて、柔道を指導し未だ数十年。
指導も修練を認識しない者が多過ぎ本当に嫌気がさします。
また、社会生活全てが柔道=武道の修練と弟子や仲間・柔道を修練していない人達にも常々話をしています。
しかし、柔道専門と謳うような掲示板にこの事を書き込むと
『罵声・非難・中傷・難癖・・・・』
と言うのが10年以上前から当たり前の様に現在も続いています。
では柔道とは皆さんや現在の柔道家と称する困ったもの達が良く口にする
『柔道は組んでなんぼ』
競技柔道・スポーツ・格闘技なども同様に絶句・・・・
【武術から言うても、いつ相手が蹴って来ても、突いて来ても、身体が自由且つ軽快・俊敏に働くということでなければならぬ。
講道館では乱取をする際、襟を掴み袖を捕らえて稽古をするがこれは初心者を導くに必要なので、之を最後まで用うべき形と言うものでは無い。
仮に袖を捕り襟を握っても、極めて軽く握り、之に力を入れてはいかぬ。
しからざれば、急速に身体をかわすことが出来ない、以上の注意を着眼して稽古するならんば、立っている場合に、
今日往々にして見えるが如き、無闇に力を入れ捩くり合うということがなくなって、
ボクシングをやるものの姿勢などに類した一種の姿勢が乱取の姿勢になり得るのである。
西洋の借力姿勢は、先方で当身をせぬということが予め決まっているから、あのような姿勢をするけれども、
若しも当身を予測するならばボクシングの様に離れていなければならぬのではない。
或いは接近して着物をつかみ、手を捕らえ、または首をとらえる、の場合においても、
相手が突いて来たり、蹴って来たときに応じ得る身構えして接近せねばならぬ。
其接近するに当たり、どういう風にするかと言うに、或いは相手の右の手首なり袖なりを引っ張る。
自分は相手の右側に身を進める。
すると、向こうの右手は取られて居るから、攻撃が出来ない。
左手はは自由であるが、距離が遠いから危険が少ない。
左の足も同様である。
また右の足は接近しすぎて攻撃には不便である。
こういう工夫に考えて接近しなければならないものである。無闇に接近してはならないのである】
これが本来の国民体育を唱えていた日本傳講道館柔道 なのです。
嘉納治五郎は晩年、
予想以上に世界への普及が早かったが、
逆に広まりが早過ぎ 『真の柔道と違う・・・・』と嘆いた手記もありますが書物の題名を忘れてしまいました。
最低な言葉が増加してます、しかもネット上だけでなく日常会話にもテレビでもと本当に低レベル化しています・・・
しかし一つだけ 『マスゴミ!!!』マスメディアは塵!これは実に的を得たピッタリな言葉と思い使用しています。
さて、柔道を指導し未だ数十年。
指導も修練を認識しない者が多過ぎ本当に嫌気がさします。
また、社会生活全てが柔道=武道の修練と弟子や仲間・柔道を修練していない人達にも常々話をしています。
しかし、柔道専門と謳うような掲示板にこの事を書き込むと
『罵声・非難・中傷・難癖・・・・』
と言うのが10年以上前から当たり前の様に現在も続いています。
では柔道とは皆さんや現在の柔道家と称する困ったもの達が良く口にする
『柔道は組んでなんぼ』
競技柔道・スポーツ・格闘技なども同様に絶句・・・・
【武術から言うても、いつ相手が蹴って来ても、突いて来ても、身体が自由且つ軽快・俊敏に働くということでなければならぬ。
講道館では乱取をする際、襟を掴み袖を捕らえて稽古をするがこれは初心者を導くに必要なので、之を最後まで用うべき形と言うものでは無い。
仮に袖を捕り襟を握っても、極めて軽く握り、之に力を入れてはいかぬ。
しからざれば、急速に身体をかわすことが出来ない、以上の注意を着眼して稽古するならんば、立っている場合に、
今日往々にして見えるが如き、無闇に力を入れ捩くり合うということがなくなって、
ボクシングをやるものの姿勢などに類した一種の姿勢が乱取の姿勢になり得るのである。
西洋の借力姿勢は、先方で当身をせぬということが予め決まっているから、あのような姿勢をするけれども、
若しも当身を予測するならばボクシングの様に離れていなければならぬのではない。
或いは接近して着物をつかみ、手を捕らえ、または首をとらえる、の場合においても、
相手が突いて来たり、蹴って来たときに応じ得る身構えして接近せねばならぬ。
其接近するに当たり、どういう風にするかと言うに、或いは相手の右の手首なり袖なりを引っ張る。
自分は相手の右側に身を進める。
すると、向こうの右手は取られて居るから、攻撃が出来ない。
左手はは自由であるが、距離が遠いから危険が少ない。
左の足も同様である。
また右の足は接近しすぎて攻撃には不便である。
こういう工夫に考えて接近しなければならないものである。無闇に接近してはならないのである】
これが本来の国民体育を唱えていた日本傳講道館柔道 なのです。
嘉納治五郎は晩年、
予想以上に世界への普及が早かったが、
逆に広まりが早過ぎ 『真の柔道と違う・・・・』と嘆いた手記もありますが書物の題名を忘れてしまいました。