100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

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VOL25 明治の学校3 「宮古尋常高等小學校」(下閉伊郡宮古町)

2014-07-17 12:55:44 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

  「宮古尋常高等小學校」(下閉伊郡宮古町)

(現宮古市立宮古小学校)

 私自身が40数年前に卒業した小学校ですが、この写真を最初に見たときはどこかわかりませんでした。写真は現在のつちや本舗さんあたりから東に向いて撮影されています。(VOL7掲載の下写真の逆方向、校舎は右手山際に隠れた処)

 宮古小学校の校地は、現在も写真当時と同じ場所に在りますが、狭かった敷地は大きく拡がり手前の田圃は校庭となっています。勿論校舎も下記のとおり何度も建て替えられて、

 明治6年(1873年)に写真左奥の山手にある常安寺一室を仮教室として創立し(生徒数20名)、翌明治7年に現校地に移転しています。写真の校舎は明治28年(1895年)に落成(14教室、建坪409坪)したものです。その後生徒の増加に伴い、講堂兼雨天体操場新築(150坪、大正6年)、校地の拡張と校舎の増設(大正11年)、同新校舎火災消失・再築(昭和24~26年)、旧体育館竣工(482坪、昭和35年)、現東校舎新築(昭和41年)、現西校舎新築(昭和53年)、現体育館竣工(平成15年)と続いて現在に至っています。

 写真の明治の校舎は昭和24年の火災で焼け残り、私はこの校舎で学んでいます。薄暗くて長い廊下、踏板がすり減った階段、黒光りする手摺等がおぼろげに思い出されます。下の写真は私の在校当時ものです。中央の玄関は余り記憶にないのですが、明治の本写真と同じ形状なことがわかります。実は講堂も入学時は残っていて、その後旧体育館ができ、次にプールと新校舎建設のためにこの校舎が取り壊しになり、一時体育館を薄いベニヤ板で間仕切りして授業をしていました。

 現在宮古小学校の児童数は260名前後ですが、校歌に謳われているように20名から始まり、明治16年には464名、写真の当時は既に高等科を併設(明治35年)していますので1000名前後、昭和10年には一時愛宕小の併置もあり2344名、戦後になると昭和22年は1863名、昭和33年には2027名が在校しています。私の時はベビーブームが過ぎた後でしたが、それでも1学級50名前後で1学年6学級で全校で入学時で1800名、卒業時でも1500名以上はいた記憶があります。それが今では1学年分もいないのですから……。

  なお宮古小学校のことについては、「まぼろし小学校~1960年代の宮古小学校~」というHPを見つけました。

http://www.geocities.jp/jinysd02/syougakkou.html

どうやら私の2.3学年下のようですが、当時のエピソードが事細かく楽しく綴られています。

 

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