100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

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VOL82  明治の三陸の産業6 「三陸各地の桑園」 ①~⑦(九戸郡・下閉伊郡・上閉伊郡)

2015-06-05 09:42:27 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「三陸各地の桑園」①~⑦

(①上閉伊郡綾織村/現遠野市、②下閉伊郡岩泉村/現岩泉町、③同郡刈屋村/現宮古市、④同郡茂市村/現宮古市、⑤⑥九戸郡大野村/現広野町、⑦下閉伊郡小川村/現岩泉町

「蚕」から「繭」そして「絹」への道Ⅰ(桑の栽培)

絹(生糸)は、蚕(カイコガの幼虫)がサナギになる際に吐き出された糸で作られた袋状の構造(これが「繭」)から作られます。この蚕を飼育する過程が養蚕で、その技術は弥生時代に稲作と共に中国から伝えられたと云われています。蚕は家畜化された昆虫で、野生回帰能力を失い、野生には生息しないし、人間の手がなければ生育することはできません。桑の葉は蚕の唯一の飼料で、養蚕は桑の栽培から始まります。

 さて養蚕が本格的に三陸地域で奨励されたのは、明治中期以降で本写真帖には前回の葛巻村の三浦農場の桑園の他に、7カ所の桑園・桑木の写真が掲載されていますので一挙に紹介します。大部分が若木で、その頃盛んに桑の植樹が行われたことが伺い知れます。また産業系の写真では一番多い掲載数で、当時の三陸の産業に占める養蚕の重要度が分かります。

※訂正 上記に写真の桑を若木と記しましたが、どうも私の勘違いと思われます。実は養蚕は年3回以上行われ、そのために蚕が育つ春から秋までの間は、常に管理され収穫していたようです。したがって桑は決して大きく育つことはなく、若木に見えたのは収穫後の桑木なようです。ご指摘を受ける前に、敢えて間違った記述を残し、知ったかぶりを訂正します。(2015/6/5)

 

 

①速成桑園(上閉伊郡綾織村)                    桑園遠景(下閉伊郡岩泉村)

  

③桑園(下閉伊郡刈屋村/藤原多見太氏所有)         ④桑園(下閉伊郡茂市村/野内佐助氏所有)

  

⑤桑園(九戸郡大野村/長内武一郎氏所有)         ⑥桑園(九戸郡大野村/野田三郎氏所有)

 ⑦大桑木(下閉伊郡小川村字石畑/南澤伊平氏所有)

 

 

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