100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

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VOL4 下閉伊郡物産館兼公会堂(下閉伊郡宮古町)

2013-08-29 17:59:17 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

下閉伊郡物産館兼公会堂(後の宮古町役場⇒宮古市役所)

この写真の建物は、明治44年(1911年)に、当時新川町にあった運河を埋め立てて造成した一角(現在宮古市役所本庁舎が建つ場所)に、「下閉伊郡物産館兼公会堂」として建築されたものです。即ち翌年に開催される「岩手県沿海四郡聯合物産共進会」(明治の三陸博覧会)のパビリオンとなったものです。明治の田舎町の公会堂としてはとてもモダンな建物と思えます。記録には工事請負費5,486円47銭、設計監督費250円、雑費190円、総工費5,926円47銭とあり、郡支出金4,590円、寄付金1,336円47銭で作られたそうです。現在の金額に換算する如何ほどでしょうか。当時は宮古地域には公的な集会施設がなかったので、様々な行事の会場として頻繁に使用されたようです。

その後大正14年に郡から宮古町に払い下られて宮古町有施設となり、町立の商業専修学校や愛宕小学校の仮校舎になるなどの変遷を経て、昭和13年に宮古町役場になり、昭和16年市制を施行した宮古市役所の最初の看板が掲げられました。
この庁舎は太平洋戦争の戦火やアイオン台風等の災害をくぐり抜けてきましたが、昭和42年(1967年)に隣家の出火で焼け姿を消してしまいました。もし今残っていれば明治の宮古を伝える歴史的建造物として宮古市のシンボルとなったことは間違いなく残念です。この火災は私が中学3年の時で、脳裏に強く焼き付いています。新市庁舎は、当然の如くこの跡地に再建が決まり、昭和46年3月に着工し翌47年(1972年)6月に完成し、現在も宮古市の本庁舎として機能しています。

平成23年3月11日、この庁舎の窓から撮影された撮影されたビデオ映像が、日本全国はおろか世界各地に放送されました。あの東日本大震災による大津波の映像です。庁舎横の国道沿いの堤防を真っ黒い津波が乗り越えて建物や自動車を押し潰していく光景は決して忘れることはできません。宮古市庁舎を襲った津波は庁舎1階床面から3.4mの高さに達し、1階は壊滅的な被害を受け機能を停止しましたが、幸いなことに2階より上は被害が軽微で、その後宮古市の震災復旧復興の拠点としてフル活動し市民生活を支え続け、1年余で復旧工事は完了し今に至っています。
そして震災後2年半を経過した昨今、今度は市役所庁舎の移転構想が浮上してきました。大津波に耐えた庁舎本体でしたが、40年前以上の建築設計で老朽化が著しくかつ耐震構造は基準に達していないので、建て替えが必要なので、JR宮古駅裏のJR敷地を移転候補地としているそうです。
はたして新市庁舎はどこに建てられて、行政のみならず地域コミュニティの拠点として、震災後の宮古の復興を推進していくのでしょうか。

これまで宮古の街は、時代と共に広がり、町の中心は西へ西へと移動してきました。この写真帳が発刊された今から100年前の明治末は、警察署・税務署・裁判所等の行政機関の庁舎は殆どが隣りの鍬ケ崎町に近い愛宕地区に集積し、一方商業は本町通り・新町通り(現在の東西を貫く中央通り商店街ではなく、南北を走る通り)が中心で、今の宮古駅や末広町商店街周辺は全て田圃でした。この郡役所は正に中間地点に位置し、名実共に宮古の拠点として当地域を支えていたのです。
その後行政官署も西へ移転していったのですが、唯一ここだけは、主や建物が代わりながらも同じ処で地方行政を支えてきました。

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