ほんとにっき

身辺雑記、本の紹介、日々の徒然、サッカー、映画など。。

投げられても、踏まれても

2014-03-30 10:06:03 | Weblog
 ボブディランが来日するそうで、各地のライブハウスをめぐる。札幌にも来る。
どうだろう?行かないのか自分。
 といっても現時点でそんなこと言っても手遅れか。もう、東京に来てるのだろう。

 それほど熱心なファンというわけでもない。ベスト盤を少し聴いてるくらい。
どこか存在自体が神格化されているきらいはある。自分が思っているだけか。
 たとえば、村上春樹の「世界の終り~」では非常に印象的に曲が使われてるし、
映画「アイデン&ティティ」では劇中、登場!?してもいる。

 その人と曲よりも、そのファンが語るあれやこれやに影響されているかもしれない。
歌を聴きこむよりも。

 一人の人間であること。それを生きること。下を向かないこと。
なんかそういうことを声を聴くたびに思う。
 励まされるというか。そういう時は凄くそばに感じるんだ。
 涙を流したりはしないけどね。

 後悔するだろうとは思う。だからこそ、これを書いている。
実際目にするまで信じられない?実在していること。

 歌うことはできるんだ。彼の歌を。いつしか自分の歌になっている。
転がる石のように。




君の幻ぼくにはリァリテリー

2014-03-02 10:39:23 | Weblog
自分の信じたことをする。
他人の評価など気にしない。
生きたと感じたい。それは自分だけにしかわからない。

調和された世界がいい。
具体的には?とかわからない。
犯罪がなくなれば?とかそういう単純な話ではない気もするが、
半分は当たっている気がする。

後ろから刺されたくないだけ、突っ込んでくる車に踏みにじられたくないだけ。
安心安全、結構。何と引き換えに?

何だろう。ただの気分の問題か?
結局人間の内面など、みな同じようなものだと。
大きな大きな物語をきょうどうで紡いでるだけ、か。

昨日、tvで何も出来ないことを自信に出来ればそれが本当のことと。
でもいつも気にするんだ。今だって。呪縛のように。
どう見えるどう見えるどう見える。

正面から見てくれ。

とろとろ

2014-02-16 10:42:20 | Weblog
  なんだろう?自分の言葉というか心が見定められない。
入ってくるのはノイズばかりで、それを頭の中でなんとか統制を取っている。
 今と、接点がないようだ。記憶だけが膨張していく。
さも、ほんとにあったことみたいに。厄介だね。涙だけが研ぎ澄まされて
美化されていく。
 あのベンチが、去っていく人が、分かり合っていたと少なくても気を遣わなくてもよい空気が
愛しくなる。時々。
 別に悲しいことがあったわけではないし、落ち込んでもない。

  交わされなかった会話はそのままだ。後悔だけが堆積していく。
忘れることだけが特効薬だね。
 そして、今日を何とか生きること。
一転、快楽だけを求めて生きている。欲望だけを自分の肉体だけを媒介に。

  何もかも遮断していきたい。健康的な生活があればいい。時々、ラジオで流れる音楽があればいい。
暖かい布団が、熟睡があれば、、、もう既に幸せなのか。

  ときめきたいとも思っているんだ。胸のざわめき。
夜の街。夕方ネオン。喧噪。隣にいる、、君、、!!?
少しイメージに寄り過ぎているな。妄想だ。他人を自分の人生に登場させるのはまだ時じゃない。

  そういって何年が経つ?

まあ、ぼちぼちやってこう。悲しき着地点。


息をとめて

2013-12-28 08:31:36 | Weblog
 どう生きるかとか、何が正しいとか、いかにも思春期的な悩みだけど
そこで右往左往している。大義のため美学のために生きようとするのではなく
あくまで今の一瞬一瞬の選択の積み重ねが人生というもの。一般論だ。

 自分の傾向として、抽象的なことであーでもないこーでもないともやもやしているけど
具体的なもので世界は充ち満ちている。世界はものだ。とりあえずリアルだ。 


 一生こうして愚にもつかないこと言って、人生を外側から眺めてるのも芸の内だな。
「自分」というのをどう定義するのか。特に、こうして好き勝手言えるし画面の前では
自分の身分?性別?歳?その他諸々を、偽ってというかそもそもなきこととして振る舞える。
全てがフラットになって、大きなものに飲み込まれていく。
 お互いに横たわる差異は摩擦を生むけど、本当に相互理解を望むなら避けがたいこと。

 相互理解、まるでバカみたいな響きだけど。

 自分は色々に触れていたい。人も物も。自閉の時代は終わった。そう願う。
けど同時に誰も見てないところで、深く深く潜っていたい。
何処までいけそうか。砂の上は退屈が並んでいる。淀んだ海だ。


2013の怠惰な日々、それこそが

2013-12-21 07:35:48 | Weblog
 いろいろなことを先送りにしている気がする。
ここで恨み節を言ってもしょうがないけど。
やるべきことはない。生存すること以外。そう望むこと以外。
後は自由に。どう生きてもいい。楽しめばいい。笑えばいい。

 けど、生存することが、ただ、それだけのことが重くのしかかる。
明日も生きることで今日がいかに摩耗していくか。
何も考えられなくなる。それがこわい。

 大きな意志にそって日々生活している。と言いたい。
ただ、その場限りの快楽に身を委ねているわけではなく。

 時々、自分は今の生活を続けててどうなる?と疑念が頭をもたげるけど。

 窪地で息をしているようなものだ。
ネットの世界も開かれていて何でも共有できるようだ。
けど僕は以前の匿名のじめじめした社会からはぐれた
ひきこもり部屋でぶつぶつ頭の中をこぼしている。

 人と関わること。人のことをまるで自分のことのように思うこと。
それが想像力だ。

 そしてあらゆる一瞬を、日常に堕する前に、その唯一性を蔑ろにしないこと。
いや、違うな、こうやって恐らく一年後も続いてゆく日常を慈しむと共に
それでも、この今と繋がろうとする 何も先送りさせはしない。

 要は今年もありがとうっていいたい。誰に行っていいか分からないから
あなたにいうよ。