高句麗の美意識息づく平壌の街並み/喜多恵美子
中間色多様、造形の繊細さや優美さと共鳴
2017年8月に訪朝した際、観覧の機会に恵まれた朝鮮美術博物館は、金日成広場に面した石造のたいへん重厚で広大な建造物である。その中には1号室から24号室までの展示室を備え、所蔵作品も高句麗時代から解放後の近現代美術まで網羅しており、膨大である。
筆者は、朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)発行の「朝鮮美術史」や美術博物館の図録を通してある程度、朝鮮の美術史観を学ぶ努力をしてきたものの、やはり作品の実見はすべてを凌駕する。今回の観覧に際しては、実作がどのように展示され、どのように区分され、どのような作品が重視されているかをこの目で確認できたことがなによりもありがたかった。
印象的な壁画の実寸模写
今回の観覧で印象に残ったのは、やはり高句麗の古墳壁画の実寸模写である。高句麗古墳壁画の模写としては、日本では植民地時代に東京美術学校教授である小場恒吉が江西大墓の四神図を描いたものがよく知られている。この模写は東京大学付属博物館ならびに大韓民国の国立中央博物館に分散して所蔵されている。以前、東京の朝鮮大学校附属の歴史博物館を訪問した際、江西大墓以外の著名な古墳壁画の模写がいくつもあることに感銘を受けたが、平壌の美術博物館では当然ながらこの朝鮮大学校附属歴史博物館を凌駕する量の壁画の模写を見ることができた。これらの模写が朝鮮近代美術において重要画家である鄭玄雄らの手によるものであったことも作品を見るうえでもうひとつの大きなポイントとなった。
安堅、鄭敾、金弘道といった朝鮮時代を代表する画家の作品中、共和国所蔵になる貴重な遺物を実見できたことも大変よかった。作品保護の目的だと思うが、実作ではなく模写が展示されていることが結構あったので、その点、注意しながら観覧した。
筆者の専門は近現代であるため、開港期以降の作品に対して大いに期待していたが、意外にも開港期から解放前後の作品は展示されておらず、展示室の後半部分においては1960年以降の作品が主流となっていた。美術分野においては、金瑢俊、吉鎮燮、金周経をはじめとする、実力派の画家が越北したことで知られているし、そもそも東京美術学校への初期留学生である金観鎬や金瓚永らは平壌出身であり、帰国後、平壌での美術教育に携わっているため、平壌という土地柄はもともと朝鮮近代美術において非常に大きな意味をもっているのである。
とはいうものの、1960年代以降の作品は、これはこれで素晴らしいものであり、図録ではなじみ深いものであった作品を朝鮮美術博物館という重厚な空間で見ることができたのは本当に喜ばしいことであった。1960年代以降に描かれた朝鮮絵画には金日成主席の指導が入っており、明るい大画面の「朝鮮画」に重点が置かれている。これはいわゆる朝鮮時代の文人画や彩色画とも、韓国の「韓国画」ともまったく異なる、朝鮮独自の絵画様式となっている。輪郭線を描かない没骨法と陰影法により、一見油彩画のようにも見える作品は、油彩画にはない透明感と軽快な色彩が特徴的であり、巨大な画面に群像が配されることが多い。政治的内容を扱った絵画は「プロパガンダ美術」として、日本では「正統な美術品」としては扱わないのが一般的であるが、これは西洋近代的な意味での美術史学の限界を意味してもいる。朝鮮民族の国である韓国の美術史では、これがまた日本と異なり政治と美術との関係性については肯定的に解釈されることが少なくないので興味深い。80年代の民主化闘争の折に盛んに制作された民衆美術がそのよい例である。民衆美術は韓国の現代美術史で重要な位置を占めている。
筆者は韓国に五年ほど留学していたため、朝鮮民族の造形感覚や色彩感覚にたいしてある程度、これといった認識をもっていたつもりであった。しかしながら、朝鮮はそうした感覚と重なる部分があるものの、まったく異なる点も少なくなかった。まず、ビルの建て方や外装においてはソウルでよくみた建物に近いものがあり、緑色に塗られたビルについては懐かしいとすら思ってしまうほどであった。
かと思えば、建物の建材の造作や装飾の繊細で流麗な様子は、韓国のものとはまったく違い、例えるとフランスの意匠を思い起こさせるところがあった。それは、突き詰めると高句麗の金銅製冠飾などに見られる繊細でのびやかな線の造形にいきつく。これは韓国の造形感覚がときに無骨なまでに素朴なのとはきわめて対照的である。筆者は大学の朝鮮美術史の授業のなかで三国時代の金冠を比較してみせることがあるが、まさに高句麗の繊細で優美な造形と高句麗の美意識を引き継いだ百済のやや素朴で愛らしいデザイン、さらには新羅の勇壮で男性的な造形を並置したときに見られる埋めがたいギャップが平壌とソウルの造形物の間に見出すことができるのである。
温かな感情いきかう
また、色彩も朝鮮民族は原色を好むとされるが、朝鮮ではむしろ中間色が多用されており、それが造型の繊細さや優美さとうまく共鳴しているのである。朝鮮は明らかに高句麗の末裔なのだと再認識した次第である。
バスでの移動中、たまに裏通りを通る時があったが、素朴なアパートの窓々にゼラニウムのような植木鉢がちまちまと並べられているのを見た。植物というのは手をかけてやらないとすぐに枯れてしまうものだ。そうした窓辺がいくつも開け放たれており、そのひとつからのんびりと外を眺めるおじいさんがいて、その下には遊びはしゃぐ子どもたちの姿があった。こまやかな感情のいきかう温かな空間がここにはあるのだなと感じることができた瞬間であった。
(きだえみこ、大谷大学教員)