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萩本家・母は100歳のお嬢さま―欽ちゃん兄弟を育てたトミの筋書きのないコント

2008年01月04日 | 本・雑誌・漫画
萩本家・母は100歳のお嬢さま―欽ちゃん兄弟を育てたトミの筋書きのないコント
萩本 悦久
第三文明社

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昔は「コント55号」の「笑い」が嫌いだったが、最近、欽ちゃんが好きになって来た。何故だろう。その欽ちゃんを育てたお母さんの「笑い」はなんだったのだろう。


萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年5月7日 - )は、日本のコメディアンである。日本野球連盟茨城ゴールデンゴールズ監督、司会者、舞台演出家としても活動している。

東京都台東区出身。身長162cm、体重65kg。駒込高等学校卒業。血液型A型。浅井企画所属。大衆からはもとより、芸能界でも先輩・後輩問わず「欽ちゃん」の愛称で呼ばれる。その他の愛称は「萩モー」「萩」など。また、彼の番組や舞台から育ったいわゆる欽ちゃんファミリーには「大将」と呼ばせている。ゴールデンゴールズの選手からは「欽督」と呼ばれている。

1970年代、1980年代に、「なんでそーなるの!」というギャグや、「欽ちゃん走り」と言われる独特の走り方(原点は師匠の東八郎)など体を使った笑い、さらに素人および素人っぽさを残す才能を開花させるなど活躍した。「どっちらけ」、「バンザーイなしよ」等今も語り継がれるギャグも多い。現在ごく普通に使われる「ウケる」(ややウケ、バカウケ等)という言葉も、最初は『欽ちゃんのドンといってみよう!!』から広まったと言われている(芸人言葉を一般にも広めた)。「天然」「天然ボケ」を初めて使ったのも彼である(ジミー大西に対して。2007年10月24日「明石家さんちゃんねる」内)。


来歴

コント55号以前
幼い頃から裕福な家庭で育っていたが、父親の事業の失敗で極貧生活を強いられる。

極貧の生活を抜け出したい萩本は、映画で“面白い人が面白いことをしてお金を貰っている姿”を見たことがきっかけで中学卒業と共に芸人を目指す。浅草を代表する喜劇役者・大宮敏充の元へ弟子入りを請うが、「せめて高校を出てからおいで」と断られる。
高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場(東洋興業経営)の仲介で再度入門を請うべく大宮が常打ちにしていた浅草松竹演芸場へと赴くが、「だめだったらウチにおいで」という言葉をきいた事で寸前で入門することを取りやめ、その足で同じ近隣の東洋劇場に入団。研究生としてコメディアンの卵となる。

東洋劇場では、先輩芸人である池信一や石田英二、そして東八郎から数多くの指導を受ける。また、彼等の大師匠筋である浅草の首領こと深見千三郎(ビートたけしの師匠)からも薫陶を受け、大いに可愛がられる(もっとも、テレビ進出後に世間へイメージが良くないと判断し、浅草ストリップ劇場修行の過去を隠蔽し、全く浅草を避けるような行動に走る萩本を見て、深見は『萩本の野郎恩を忘れやがって』と萩本に怒りをぶつけていた)。

入団当時、演出家から「君は才能がないからやめたほうがいい。」と言われて落ち込み諦めようとした際、池が演出家を説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっと居ていいよ。」と萩本を引き止めた。その後、その演出家から「萩本は才能がない。しかし、これほどいい返事をする若者はいない。あいつの“はい”は気持ちがいい。“はい”だけで置いてやってくれ。」と池が言っていたことを知らされる。さらに、その演出家から「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいる。お前は成功するから頑張れ。」と言われ奮起。その後、誰も居ない劇場早朝に大声を出す練習をしたり、先輩芸人の真似を何度も繰り返すなど才能を努力で補うために必死になった。

その後、父親の家が火災になり、萩本は父親を助けるためにコメディアンを辞めようとしたこともあった。しかし、それを聞いた池は、劇場の関係者からカンパを募り約60万円を萩本に渡した。これには、萩本も感極まって号泣し、コメディアンを続けていくことを決意した。

東洋劇場で上達した頃、同系列の浅草フランス座へ出向。ストリップの幕間コントで更に腕を磨く。ここで漫才師崩れの専属コメディアン・安藤ロール(のちの坂上二郎)と知り合う。しかし、当時は共演というよりはむしろ競演で、お互いに自分だけがウケようと衝突していたとの事である。彼の坂上に対する印象は「一緒にやったら食われるから嫌い」というものだったそうだ。

その後萩本は東洋興業を辞め、いくつかのコントグループを経て浅草松竹演芸場で劇団浅草新喜劇を旗揚げして座長公演を行う。同時期に、放送作家のはかま満緒に師事してお笑い作りに本格的に取り組む。ここで、後年コント55号の殆どの台本を手掛けた岩城未知男と知り合う。さらに、はかまのツテで、TBSのプロデューサー・向井爽也や芸能マネージャー・浅井良二(浅井企画代表)と知り合い、本格的にタレント活動を開始。向井の手掛ける公開コメディー番組『じんたかパンチ』のコマーシャルに起用される。しかし、ここで緊張したのか気負ったのか、萩本は異例ともいえる21回ものNGを連発し、降板を余儀なくされる。

失意の萩本は、テレビ進出を諦め生涯舞台役者で生きていくことを決意。浅草新喜劇も解散して、熱海つるやホテルの営業で再起を期していた。ここでたまたま考案した一人コント「机」が、後年日本中を席捲したコント55号の端緒となるのである。

また、後に『快獣ブースカ』で脚本家デビューすることになる市川森一と、はかま満緒師事時代に友人であった。市川は後年、日本テレビの開局40周年スペシャルドラマ『ゴールデンボーイズ』で、若かりし頃の萩本(演者は小堺一機)の、これらのエピソードを描いている。


コント55号
坂上二郎から誘われる形で、一回の舞台契約だけで、1966年、「コント55号」を結成した(しばらくは、その都度の契約だったが、気づいたらコンビになっていたそうだ)。

前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送『お昼のゴールデンショー』(1968年~1971年)で人気に火がついた。以降、『コント55号の世界は笑う』(フジ)、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』『コント55号のなんでそうなるの?』(ともに日本テレビ)、『チータ55号』『みんなで出よう!55号決定版』(TBSテレビ)、『ウォー!コント55号!!』『コント55号!!笑ってたまるか!?』(NETテレビ・現在のテレビ朝日)など、テレビを席巻した。その後もコンビとしての活動は続いたが、1975年に始まり、久米宏司会で大人気となった『ぴったし カン・カン』(TBSテレビ)ではグループリーダー役など、昔のコンビ芸とは違い、次第に個々の活動に入っていった。


視聴率100%男
1972年から始まったニッポン放送のラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!!』には単独で出演。聴取者からのハガキ投稿が基本の番組で人気が上昇し、1975年には土曜の夜に公開放送で行われた『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジ)として、テレビ番組化された。当時同局で司会を担当していた『オールスター家族対抗歌合戦』(1972年~1986年、ただし萩本は1984年6月限りで司会を降板)や、『スター誕生!』(日本テレビ)において編み出したともいわれる、ゲストの家族や素人出演者へのツッコミぶりは、「欽ドン!」では素人主体で結成された「欽ドン劇団」や、ロケ先で道行く人々をも巻き込み大きく開花し、のちの番組においても一連の素人扱いぶりは天才的な至芸を極めた。

また、この番組のオファーがあった際に「僕は司会ができないから、ちゃんと司会ができる女の子をつけてほしい」と希望した。これが現在のアシスタントの走りといわれる。

以降、間を置いて1981年には月曜9時に『欽ドン!良い子悪い子普通の子』シリーズ(フジ)が開始。1976年から始まっていたホームコメディ『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(欽どこ)(朝日)、1982年に始まった『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS)と高視聴率番組が続き、各番組の合計した視聴率の数字から「100%男」の異名を取った。これらの番組から人気芸能人が生まれ、彼らは「欽ちゃんファミリー」として巣立った。

萩本は素人をお笑いタレント化するのが非常に上手かっただけではなく、意外な有名人のお笑いの才能を引き出すことにも長けていた。前川清(歌手、元々はクールな二枚目キャラ)、内山田洋とクール・ファイブ(ムード歌謡グループ)、中原理恵(若手歌謡曲歌手)、真屋順子(元は正統派の舞台女優)、志賀勝(悪役俳優)など、それまでお笑いに縁がなかった面々を自分の世界に引き込み、新たな才能を育てたと言える。

その反面、萩本は自分の番組内で人気と知名度が高まった面々を、あっさりと切り捨てることも多い。萩本の番組に出演したことで強い色が付いてしまった結果、その後の俳優やタレントとしての活動に制約が生じ、完全に低迷してしまう例も多く見られた。彼らが人気と知名度を獲得したのは、多くには萩本の力によるものであるにも関わらず、自分の実力を過信してしまう例もあったと言われる。萩本が認める「唯一の弟子」である斉藤清六も、「欽どこ」出演により一時は人気を博したものの、近年テレビへの出演が少なくなっている。

一連の企画・主演バラエティ番組以外でも、1971年開始の『スター誕生!』(日本テレビ)を皮切りに、先述の『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ)では司会者として、また、1978年から現在も続いている『24時間テレビ』(日本テレビ系)と1975年に始まった『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』(ニッポン放送)では初期にメインパーソナリティを勤め、番組の顔ともなった。

1985年3月、充電と称して当時のレギュラー番組をすべて打ち切り、半年間ほど休養する。理由について本人は「『100%男』と言われるまでに至った人気を維持していく事に自信がもてなくなった」と説明、また当時人気のあった『オレたちひょうきん族』などの一連のアドリブ主導のテレビ番組が嫌になったとも言われる。本人は大のアドリブ嫌いで、コント55号のコントでもアドリブを連発する坂上二郎に対し、舞台裏では「二郎さんが台本通りやってくれない」と毎回楽屋で泣いていたという逸話がある。しかし一方では齋藤太朗(日本テレビディレクター)の「台本どおりのコントをやって欲しい」との要求に対し「演者には演者としてのプライドがある」と反発し、舞台ではアドリブを連発していたとのエピソードもあり、決してアドリブを全否定していたわけではないようだ。また視聴率が下降気味であることを指摘されるようになり嫌気が差したとも本人は後に述べている。


休養後
休養復帰後、テレビに復帰するも次々と番組打ち切りの憂き目に遭い、またこの頃80年代前半にはビートたけし・タモリらと共に「お笑いBIG3」とされてきたが、その「BIG3」の座も明石家さんまに明け渡すなど人気においても以前ほどの勢いはなくなった。しかしながら今でも『欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞』(日本テレビ)の司会などでテレビに登場していることもあり、彼の顔を知らない人はまず少ない。彼の番組や舞台をきっかけに活動の域を広げた関根勤、小堺一機、はしのえみ、柳葉敏郎、勝俣州和らは現在もテレビやラジオ、舞台で活動を続け、また君塚良一、大岩賞介といった脚本家を育成させる等、芸能界、放送界における彼の影響力は強い。当時、東京では無名に近かったダウンタウンを自らの番組に出演させて、東京進出のきっかけを作っている。笑いの方向性では対極とも言えるダウンタウンだが、彼らは義理を非常に重んじる面もあり、萩本には他の先輩芸人とは別格の念を持っておりラジオ番組のネタで萩本を揶揄するネタが来たときも「萩本さんの悪口言わんといてくれよ(浜田)」と言っていた。松本は著書で、あの時期のダウンタウンに好き勝手やらせて(他のタレントには細かくダメ出しをしていたのに)OKを出していた大将はやっぱりすごい、と評している。

また同時期にジミー大西の才能を見いだし10年に1度の天才芸人を発見したと喜ぶが2人きりで楽屋に入り出て来た後「天然だったんだね…」と一言残し落胆するが、この言葉が天然ボケの言葉を定着させることとなる。1998年には長野オリンピックの閉会式司会を担当。また、1990年代以降、前川清や自らが主催する欽ちゃん劇団の舞台などで演出家としても活動している。

音曲に合わせ踊りながらじゃんけんをして、負けた者が服を脱いでいく野球拳は、『裏番組をブッ飛ばせ!』で使ってから世間に広まった。ただし本人は当時はこの役を相当嫌っていたようである。理由は汚れ役であることと、野球拳が主体となり自分たちのコントが2次的な存在になることへの嫌悪感があった。その後の芸風がそこからかけ離れているのはこの苦悩と思われる。ただし2005年の野球拳発祥の地松山での祭りでは、野球拳(本来の野球拳は服を脱がない)で出演した。この際野球拳について35年ぶりに謝罪し話題を呼んだ。時間がこの苦悩を解決したのであろう。また、じゃんけんの「あっち向いてホイ」は『スター誕生!』の欽ちゃんコーナーで放送されたのをきっかけに全国に広まったものである。

「欽ドン!」「良い子、悪い子、普通の子」「欽ちゃん劇団」など、彼の発案による冗談やネタは数多い。 


欽ちゃん球団
高校時代は野球部に籍を置くいわゆる高校球児だった。そのためか、近年の野球人気の凋落を危ぶみ、野球はもっと楽しいスポーツだと2004年12月26日に2005年度からの日本野球連盟加盟を目指し、関東を本拠(後に茨城県桜川村=2005年3月22日に平成の大合併に伴い稲敷市になる=を本拠地に制定)とした社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成した。萩本は、独自のマイクパフォーマンスや女子選手・元プロ野球選手・お笑い芸人などの参入など、前例のないチーム作りを推進し、茨城GGをアマチュア野球随一の人気チームへと成長させた。これにより、森田健作や山本譲二、森口博子ら著名人が監督となってクラブチームを設立する事例が続出し、野球人気の回復に大きな功績を残した。

しかし、2006年7月19日に遠征先の北海道で、所属選手で元極楽とんぼの山本圭一の17歳女性への性的暴行疑惑および吉本興業解雇という一連の事件が起こった翌朝、集まった報道陣の前で「事が事だけに山本だけが責められる問題ではない。野球を始めたのは僕なので、大好きな野球だけど辞めることにしました。ごめんなさい」と涙ながらにゴールデンゴールズ球団を解散することを発表した。

しかしこの解散発表が様々な波及を呼び、地元市民による存続署名活動が展開されたことや各メディアのアンケートなどで存続要望が高かったことなどもあり、7月22日新潟県でのセガサミーとの試合の前に球場で解散の撤回を発表した。撤回は各メディアやアンケートでも支持を集めたが、自分の感情に任せて安易な解散宣言をしたり、球団存続の要望が出るとすぐに撤回するなど事件にかかわってない所属選手を振り回すことになり、一部の現役スポーツ選手などから苦言を呈された。さらに、この騒動のため萩本自身が監督責任を自ら取るということはなく指導者としての資質を問われるという面もあった。さらに、山本以外の選手も事件に関わっていたことに対する謝罪は一切なかった。

当初解散発言の際「山本氏に何か一言」と求められ、山本に対しカメラの前で「球団なくなっちゃったよ!」と厳しい発言をしていたが、解散を撤回した際には「背番号をとったユニフォームを着てお客さんのいない夜に普通の山本で遊びにおいでよ!」と温かい言葉を送った。なお、アマチュア野球の連盟に解散の意思を伝えたのは「野球やめます」発言の8時間前である。

また、『ワイド!スクランブル』のインタビューで、問題が解決したら、背番号0のボール拾いからやり直しさせる、と更生を兼ねてチームに復帰させることを示唆している。だが、その一方で、チームの大幅なリストラを提示し、山本の復帰は無いと発言するなど、流動的である。山本が2007年1月に日向のキャンプに訪れた時に萩本に謝罪し、見学していたファンからは山本に対して「山本がんばれよ!」等の声が上がった。しかし、彼は山本を未だに許さない態度を示すコメントを述べた(その際に、山本に対しアドバイスもした)。

チーム内では選手、コーチともに萩本を監督とは言わず「欽一監督」を略して「欽督(きんとく)」と呼んでいる。また練習試合では自らハンドマイクを片手に試合の解説や選手の激励を行い、観衆の共感を浴びている。また、宮崎県においても、姉妹チームの宮崎ゴールデンゴールズを結成。


その他

チャップリンとの面会
萩本は1971年1月にフジテレビの番組企画で、当時スイスに隠棲していたチャップリンに面会している。これはその頃萩本が「尊敬するコメディアン」としてチャップリンの名を挙げていたことから始まったものであった。実のところ、萩本は「世界で一番有名な人だから」という程度の意識で彼の名を出していたに過ぎず、このときはチャップリン映画も2本しか見たことがなかったという。

その頃、チャップリンは誰にも面会しないと言われており、企画した側も実現するかどうか危ぶんでいたが、萩本はむしろそういう相手だからこそ会ってくれるだろうとスイスに出かけていった。萩本に与えられたスケジュールは4日間。初日は、予想通り警護の人間から「チャップリンはいないから会えない」と謝絶を受ける。翌日、車で帰宅するチャップリンと窓越しの対面を果たすが、邸内にはやはり入れなかった。3日目には、かつてチャップリンの運転手を務めた高野虎市のアドバイス(「女性なら会うだろう」「日本人が好き」というもの)に基づき、土産の博多人形を携えていくが、マネージャーから「預かりはするが、日本からの客人が置いていったとだけ伝える」という冷たい対応を受ける。そして最終日、せめて敬意を持っているという気持ちだけでも伝えたいと粘ったものの、マネージャーはやはり会わせないという返答であった。萩本が怒りと失望から、日本語で「あの(ヒューマニズムにあふれた)映画は嘘だ」などと大声で叫んでいると、それを聞いたチャップリン本人が「何事か」と出てきて暖かく迎え入れた(萩本によると、いろいろとたかりに来るような訪問者がいたため、マネージャーが来客を会わせないようにしていたという)。

この面会以後萩本はチャップリンに対して心からの敬意を抱くようになり、作品も全てきちんと見ることとなった。1977年12月、ニッポン放送『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』の生出演中にチャップリンの訃報を伝えられると、萩本は思わず泣き出した。


結婚報道と家族
テレビの「欽ドン!」のヒットで時代の寵児となっていた頃に結婚を発表したが、相手の名前などの詳しい情報は伏せるようマスコミに要望を出した。これは相手が、浅草での駆け出し芸人時代に知り合ったショーダンサーだったからである(自伝によると、報道自粛を伝えた際にはマスコミ関係者からは抗議されることもなく、皆事情を知っていたため拍手を受けたとのこと)。また、妻との間に3人の息子がおり、一般人という理由で長らく公表されなかったが、2007年に刊行された自伝『なんでそーなるの!』(日本文芸社 ISBN 978-4537254686)において実名入りで紹介された。


その他
大手テレビ制作会社「テレビマンユニオン」の大株主として上位10位内に名を連ねている。これは、日本初の独立系プロダクションとして同社が創立された際、同じ表現者として彼らの志に共鳴した萩本が出資を申し出たことによるものである。
かつては野球以外にも、競馬の馬主として小倉記念を優勝したアンブラスモア(萩本企画名義)、ビヨルリンク、1977年日本ダービーにも出走したことがあるパリアッチなどを所有していた。
趣味では将棋をたしなんでいて、日本将棋連盟は萩本に対して段を免状した。2006年正月に放送された番組で、森内俊之九段と組み、ペア対局で勝利した。一時期高校竜王戦(読売新聞社主催)の前夜祭の司会も務めた。
弟子入りを志願する者が来ると、まずは食事に連れて行く。箸の持ち方を見るためである。これは「正しい箸の持ち方をしていることは親の躾(しつけ)を素直に受け入れている証拠であり、その素直さが成長には不可欠である」と本人は言う。
アイスクリームが大の苦手。昔、喫茶店でアルバイトをしていた頃、売れ残ったアイスクリーム数個を食べさせられ、それ以来食べられなくなった。
自身の著書の中で「ミニスカートが嫌いだ」と記している。そのため萩本の番組の女性レギュラー出演者には「ミニスカートをはかないでほしい」と要請していた。
2007年8月18日〜19日に放送された『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のチャリティーマラソンランナーになった。66歳という年齢等を考慮して、24時間あれば、普通の人なら歩いてでも完走できる走行距離を70kmとした。残り900m余りを残したまま放送時間内(20時52分30秒)でのゴールはできなかったが、後番組の生放送『行列のできる法律相談所』内にてゴールした。同番組内でのゴール時の瞬間最高視聴率は42.9%を、平均視聴率は35%超を記録した。台本が好きな彼にとっては、台本どおりに時間内の完走が出来なくて悔しがっていた。所属事務所によると次の日は午前9時半に起床し、いたって元気な様子で食事も通常通りとったという。驚異的な視聴率については、自宅に届いた関係者からのお祝いの花で知ったといい、「完走できたこととひとくくりで喜んでいると思います」と代弁した。

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