羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

固定観念・先入観に縛られていた私・・・・リセットされたみたい

2018年12月12日 04時12分33秒 | Weblog

・・・墓じまい、合同墓地、樹木葬、・・・・檀家さんが減って、まして法事を行う家が少なくなった実情は、都心部だって同様だ。

法事を行う古い木造の本堂にも昇降機をつけ、畳の部屋まで車椅子OK。

会食する会館は、以前あった一部屋を車椅子と介助者が二人が入れるトイレに改装してあった。

選んだ料理は見た目に綺麗で、お年寄りに食べやすいように一口サイズ。

その代わり食器にも材料にも、バラエティーを持たせて、手のこんだ細工がなされていた。

現代に合わせて、高齢化対応をする時代になっていた。

 

今回の法事は、9月半ばからぼちぼち準備を始めた。

介護タクシー、一時間対応の介護サービス予約から始まって、お寺にお供えする物を宅配で前日着で届ける手配。

当日は母の世話を中心にできる体制を整えることにした。

服装は、まず、車椅子でも窮屈でなく、法事の間、食事を取りやすいように工夫。

高価なものでなくても、全てを黒で失礼にならないニットに加えてシャレな小物を用意。

着替えをして、薄化粧をすると見違える表情を見せてくれた。

施設の方々に「マダム」と褒められて出発。

・・ってなわけで、迫ってからの二週間は、普段とは全く違う頭を使っている毎日だった私。

お疲れー、かと思いきや、楽しかったのだ。

面倒だからやめておこう、という選択もあった。

でもそれをしなかったことで、世の中の変化が急速に起こったことを体感することができた。

あれだけ固定観念や先入観を捨てよう、と野口体操でアナウンスしておきながら、私自身が昔のままの思い込みを背負っていたのだ。

社会のサービスというものが、どんどん質を変えて柔軟になっている。

母を法事に連れ出そう。

思い立った当初こそ、自分一人では無謀かと案じて始めたが、終わってみれば視界がひらけた。

戸は叩いてみよう。

扉は開けて入ってみよう。

道には一歩踏み出して、歩き出してみよう。

人様には助けてもらおう。

全ての始まりは、昨年、母を施設にお任せできたことから始まった。

一人で抱え込まないことは大事だった!

今回、70代・80代の後期高齢の親戚の人たちが、93歳の母を見る目が変わった。

歳を取っても多少の認知があっても、彼女を囲んで楽しかった、と口々に言ってくれた。

自分たちの目の前に迫っている不安ある未来を変えることができる、とも言ってもらえた。

予想もしない結果だった。

万々歳!

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今を生きる者を生かしてくれる法要・・・・

2018年12月10日 15時11分58秒 | Weblog

昨日、父の十七回忌法要を無事に終えた。

主役は父であったのだが、全体を通して母の存在がひときわ大きかった。

終わってみると「93歳 母の元気を祝う会!」となった。

本堂でのお焼香もしっかり行い、お墓参りも寒がることもなくみんなと一緒に手を合わせていた。

会食の段になると、「おいしいわー」を連発。

ほとんど完食であった。お箸を器用に使って、残された歯でしっかり噛んで、嚥下の際にも危なげない。

終盤になって、甥っ子たちに囲まれて、大きな声で会話し笑いをとっていた。

思えば、参加してくださった皆さんは70歳代で、80歳に手がとどく方もいる。

私としては半ば冗談で、母の“生前葬”を兼ねるような気分で準備していていたが、とんでもなかった。

結果として“元気な母を祝う会”となった。

生きている者は強いなー。

生きているということは、こういうことなのだ!

実は、日曜クラスの方にアドヴァイスをもらった。

お言葉に従って、一時間から利用可の外出介護サービスを頼んだことは正解だったことを特筆しておきたい。

車椅子での移動、車椅子から昇降機への乗り換え、食事やトイレの世話など、全てをこなしてくれた。

介護資格を持つ男性スタッフの方にすっかり世話になって、母は終始ご機嫌だった。

こうしたサービスを受けることは、母だけでなく親戚の方々にも、安心感という「おもてなし」となった。

老老介護も当たり前の高齢化時代に、新たなニーズが社会のあり方を変えていくことを実感した。

思いがけず主役となった母は、介護タクシーの車中から、介護の方はもちろん、親戚の皆さんに、両手を大きくふって、にこやかな笑顔でお別れしていた。

「お母さんをよろしく!」

父が私に託した最後の願いを、こうした形で果たせたことに安堵することができたことは、幸せこの上ない。

「お帰りなさい」とロビーで母に声をかけて、迎えてくれた施設の方々に「ただいま」とはっきり挨拶。

「いかがでしたか」

「とっても、楽しかった! 今度は遠くに出かけたい」と曰う。

こんな風に生きている者を生かしてくれたのは、父だった。

十七回忌法要は、母にとっても私たちにとっても、格別に意味深い行事となった。

ありがとうございます。
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法事の準備につれて思い出された人生最後の“MINI COOPER”

2018年12月07日 09時28分39秒 | Weblog

法事の準備が終わったような終わらないような、準備するものが次々と出てくる。

寺の住職さんと話をした。

供花は寺にお願いし、お菓子と果物は前日に宅配で届ける算段をつけた。

「できれば供養する方の写真をお持ちください」の一言で、仕舞ってあった父の写真を取り出した。

フォトフレームの立て掛ける部分の一部が破損していて、私には直すことができそうにない。

そこで、昨夕、銀座までは出かける時間が取れないので、新宿・小田急デパートの伊東屋で、銀製のものを用意した。

新しい写真立てに古い写真が合うだろうか、と一抹の不安を感じながら帰宅した。

着替えもせずに、すぐさま写真を入れ替えた。

「父が生き返った!」

イギリス製のフォトフレームが、表情を明るくしてくれた。

「新しくして、正解だった!」

しばし眺めているうちに、父の車の思い出が蘇ってきた。

幼い頃から私は父が運転する車の助手席に腰掛けて、「そこの角を右、3つめを左」などと、地図を膝の乗せてナビを引き受けた生意気な子供だった。

記憶に残っているいちばん古い車は、日産の大衆車ダットサンであった。

この車の方向指示器(確かアポロといったような)は、真っ赤で可愛らしかった。

そして出す時・仕舞う時に、カタッ・コトッという音がしていた。

長距離のお出かけには、まず、エンジンの音を聞く。

そしてバンバーを開けてエンジンやブレーキの点検を行ってオイルをさしたり、時には近くの自動車整備工場によって更なる点検をたのむ。

当時の車は運転する人間が深く関わって、手入れをするのが当然の乗物だった。

ドライバーにとっては、そのことが嬉しくて仕方がないのである。

その父が70代後半で自動車免許を自主返納するまで、最後に乗りたくて乗ったのが「ローバー MINI COOPER」マニュアル車だった。

色は派手でもなく地味でなく、イギリスでしか出せないとおぼしきグリーンと白のツートンカラーだ。

乗り心地はと言えば、車高が低いためにスポーツカーのようなスピード感が得られた。

あたかも素足で走るような感じとでも言おうか。道路との密着感はスリルをすら感じさせてくれた。

こうして新しいフォトフレームにおさまった写真を見ながら、車種は何台か変わっても最後のMINI COOPERにご機嫌であった父を思い出した。なんとイキイキした思い出だろうか。

いつまでも思い出に浸ってはいられない、とメモを1つずつチェックしながら、忘れ物はないかと念には念をいれた昨日のこと。

今日の午後には、当日、母に着てもらう服を揃えて施設に届ける約束をしている。

確認の電話も入ってくる予定もある。。。。

色々ありますわねー。

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師走に、人の命の行方を思う・・・

2018年12月03日 19時52分20秒 | Weblog

12月9日に父の十七回忌法要をするために、早々と9月から始めた。準備はほぼ終わっている。

あとは、当日の段取りを最終的に詰めるために、明日は寺に打ち合わせに行くことになった。

寺は車椅子も可能なので、施主である母を連れて行く手はずも整えた。

そこで普段からご無沙汰の従姉妹に第一報を入れたのは、9月末のことだった。

その時、電話を取ったのが彼女の連れ合いの方だ。

正式なお知らせ手紙を出して、3日後に確認電話を入れたところ、お連れ合いの方が亡くなったのだと聞いた。

膵臓癌を患っていて、私が話をして2ヶ月ほどだったという。

最後に話を交わした時の元気さからは全く想像もつかない。

80歳を過ぎているのだが、しっかりした受け答えで、ただ驚くばかりである。

ごく内輪で葬儀をすませたとのこと。

そしてもう一人。

母の仲良し三人組の一人から6月に電話をもらった。

隣街に住んでいて、散歩がてら我が家を訪ねたけれど留守だったという。

ところが11月になった先日、喪中の手紙が届いた。

電話をもらって一ヶ月後の7月に亡くなったのだという。

すぐさま電話をすると、一人娘さんが出て「ピンピンコロリだったんです」とおっしゃる。

夕方、帰宅してお母さんが亡くなっているのを発見したのだという。

これといった病気はなく、買い物から帰ってきて、部屋に入って息を引き取ったらしい。

結局、直接の死因はわからなかったらしい。

その後、10月には三人組のもう一人のお友達も亡くなった、と聞いた。

同級生だから二人とも93歳の大往生である。

一人はこちらから、もう一人は先方からの電話で話をした二人が、会話して間もなく亡くなるとは、信じられない思いである。

母には、まだ話していない。

なかなか話し出せないのである。

「二人とも元気だったのに」という思いと、亡くなる二ヶ月前と一ヶ月前に、母に代わって私が話をする巡り合わせの不思議さをいまだに受け止められずにいる。

今回の法事では、父の回向だけでなく、母にとっては姪っ子の連れ合いの方、仲のよかったお友達二人、三人のご冥福を祈ってこようと思っている。

狐につままれたような気分でもあるけれど、十三回忌ができすに過ぎて、今年になって父の十七回忌法要をおもいたったのも何かの縁に違いない。

先月からこのかた、灌仏会の日に生まれた私には前世からの何らかのお役目があるのかもしれない・・・・と思っているうちに師走を迎えてしまった。

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カルメラつくり

2018年11月10日 07時22分35秒 | Weblog

会報『早蕨 SAWARABI』Vol.4は、お一人からの校正返事を待つのみとなった。

今回の「野口三千三伝」では、先生のお兄さんが作ってくれたカルメラ焼きの話から始めた。

今夏、原稿を書くにあたって、私も実際に作ってみた。

難しく失敗を繰り返し、たった一個だけうまく焼けたところで止めることとした。

材料:

* 砂糖大さじ 2 * 水 15ml  *  重曹 適量

作り方:

お玉に砂糖+水を入れて、火にかける。(炭火ならもっとよし)

きつね色になったら日から話す

泡が少し収まったところで重曹を投入。

火から少し話したところで、泡を潰す感じで100回くらいかき混ぜると一気に膨らむ。

固まったらお玉の底を再び火に炙ると丸い形のカルメラがすっと剥がれる

冷ましてから食す。

全行程を通して、単純であるゆえの難しさがつきまとう。

特に、言ってみれば、割り箸の先にほんの少しつける重曹の量と、入れるタイミング、かき混ぜる回数である。

いたってシンプルな材料からなるカルメラは、砂糖の甘さに加えて重曹のかすかな味が、人生のほろ苦さを感じさせてくれる。

大人になった三千三少年は、池袋の駅ナカで売られていたカルメラをほうばって、何を感じていたのだろう?

私もご相伴にあずかったことがあった。

お兄さんの話を伺いながら・・・・

懐かし!

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繰り言・・・荷風散人の目で東京を歩くと・・・

2018年11月09日 07時00分40秒 | Weblog

日和下駄をつっかけて、自由気ままに東京を歩く荷風散人の目を携えて、歩いていると『冷笑』の意味が何とはなしにわかるような気がしてくる。

1905(明治38)年に渡米し、一時、華盛頓・ワシントンDCにも滞在したが、紐育・ニューヨークを中心に1907(明治40)年まで暮らした荷風は、この年に仏蘭西に居を移し翌年の1908(明治41)年7月に帰朝した。

その後は作家として、「あめりか物語」「ふらんす物語」ほか海外体験を描き、じかに欧米を見たその目で東京の町を散策し、日本の近代化文化を冷ややかに眺めた作品を残している。

明治45年の期間では、明治政府は盤石とは言えない。

まして、大正期に入ってから、君主を支えることに頭を悩ませたはずである。

そのままでは国は危うい。

帰朝した明治末期から大正にかけて、荷風さんに見える東京の町は、何ともはや“ 張りぼて”に過ぎないと映っても不思議はない。

なぜに、政府は絵画館に展示するプロパガンダ絵画制作に、あれほどの情熱を傾けたのか、傾けざるを得なかったのか。

荷風さんは知っていた!

幼少の頃、アヘンでやられた上海を知っていただけに複雑な思いで、張りぼて近代文化を眺めていたに相違ない。

 

1909(明治42)年に、なぜゆえに、当時の日本近代建築の雄として東宮御所(現在の迎賓館)を完成させたのか、させなければならなかったのか。

荷風さんはわかっていた!

だから、“張りぼて文化”の東京を「冷笑」することで、作家として立って行くしかないと、覚悟を決めた。

いや、江戸期の文化がどれほど成熟し、どれほど内容の深いものであったのか、荷風さんは知っていたのだ。

私は、これまで見てきた東京の近代を思い出す。

昭和30年代始めの赤坂離宮は、全くもって荒れ放題であった。誰も気にも留めないし、目にとめない無残な状態だったことを思い出す。

止めていられなかった。復興に全精力を傾けていくしかない敗戦後であったから。

 

そして、今、2回目のオリンピック2020に向けて、急速に変化してゆく東京の街に埋れてしまいそうな近代の東京を見ていると、荷風さんの嘆息が聞こえてくる。

江戸が壊され、ピッカピカの近代が、それこそ突貫工事で造られていく。その姿に、懐かしさ以上の感慨を持って、江戸回帰したくなる心情もわからなくもない。

『断腸亭日乗』を綴り、それを後世に残したことが、荷風さんのいちばんの仕事だったのかも知れず。

 

昨日、赤坂見附から三宅坂方面を見上げて、思った。

「外からは攻めにくよなー」

この勾配では馬は登れない。歩兵は石を投げられるだけで弁慶濠に墜落してしまう。

 

昨日、喰違見附を歩いて通って、思った。

「外からは攻めにくよなー」

入り組んで狭いところを馬はもちろん、歩兵ですら武器を持ったら二列にも並べない。

 

昨日、歩き始めに三宅坂から桜田門方面をまず、拝ませてもらって、思った。

制度疲労を起こし、汚職がはびこったとしても、江戸の人々にとっては、まさか徳川の千代田の城が落ちるとは信じられなかったに違いない。

黒船の恐怖だけで、幕府が崩壊するとは、江戸の人々にとっては、信じがたいことだったに違いない。

人智を超えた、なにがしかの力が働いに違いない、と・・・

 

おっと、繰り言はこのくらいにして、本日の仕事にかかりましょう。

でも、もうしばらく荷風さんに寄り添ってもらって、変貌を遂げる東京の街を歩いてみたい、と密かに思っている・・・ 

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三宅坂から赤坂見附、迎賓館まで散策

2018年11月08日 13時51分37秒 | Weblog

本日、三宅坂から国道246、青山通りを歩いた。

これまでに渋谷からは青山一丁目そこから表参道への道。

また、赤坂見附から青山二丁目へ、右折して明治神宮外苑への道。絵画館見学も行なった。

今朝は、三宅坂の勾配がどの程度なのかを体感したくて、赤坂見附まで歩いた。

最後のところで非常に急勾配だった。

これで、片側3車線の大通りを全て歩いたことになる。

三宅坂から渋谷までの青山通りは、まさに軍用道路であることを確かめたかった。

一つには、昭和11年の二・二六事件の道のりを歩いてみたかった。

この年、短期現役兵・師範学校の専門部の学びも終えた野口三千三は、群馬・高崎の小学校で本格的に訓導となった。

そして明治神宮外苑・明治神宮、青山練兵場、代々木練兵場、この地理感覚がよりはっきりした。

代々木練兵場の端、西原には体育研究所、のちの東京体育専門学校があって、戦争末期に上京した野口がいた時間の流れをおった。

さて、本日は、赤坂見附から横道にそれて、弁慶橋を渡って、紀尾井町へ向かい、ホテルニューオータニを左手に見て、「喰違見附」を渡った。

渡った先には、赤坂離宮の東側の門があって、ぐるりと回り込むと正門に出る。

ちょうど団体さんがやってきた。何となく後ろについて歩いていくと、赤坂離宮の西門から離宮内に入っていくではないか。

そのまま行列に並んで、金属探知機を通り抜け、入場券を買って建物内を見学。

一通り見て回って、庭園へと出ると天気も良く清々しい秋の空気に包まれた。

庭園から建物を眺め、噴水の水しぶきを浴びる。

思いがけず明治からの東京を、本日も味わった。

欧化政策に躍起になって、背伸びをした日本人がいた。

その行き着く先の一つが1945年の敗戦だったのか、と思うと複雑であります。

本日の収穫。

それは、初めて江戸城内郭と城下を取り巻くように造られた延長約14キロの濠。

そのうちの4キロが史蹟指定されていることを知った。

4キロ範囲の江戸城外堀跡の史跡は、赤坂見附、喰違見附、四谷見附、市谷見附、牛込見附であるが、喰違見附以外は、子供の時から馴染みがあった。ちょっと調べてみた。貼り付けます。

1612(慶長17)年、甲州流軍学の創始者・小幡景憲(おばたかげのり)によって縄張りされたと伝わる江戸城外郭門のひとつ。江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣をコの字型に巡らした強固なものですが、喰違見附は土塁を前後に延ばして道をジクザクにして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(こぐち=城の出入口)の構造です。

以上、午前中の散策報告でした。 

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換気扇のアップグレードを終えて・・・・

2018年11月04日 10時11分56秒 | Weblog

ある日、家の中のいく先々に、本と書類と衣類が、自由気ままに置かれている情景を目にした。

いつ、こんな状況を許していたのだろう。

母が、施設に入ってから1年と半年が過ぎようとしている。

結局その間に、じわりじわりと物の置き場が拡張したのにすぎなかった、と他人事のように言い放った。

が、その瞬間に、自己嫌悪に陥った。

ふと立ち止まって、本と書類を大きく二つに分けた。

それらの置き場を二箇所に限定した。

自己嫌悪感は半減してくれた。

家を建て替えて13年と半年がすぎた。

当初ほど掃除をしなっくなっている。

歳だから、と自己弁護した。

そこでまた立ち止まった。

いちばん面倒でやっていない掃除はどこか?

いの一番に浮かんだのは、ガズレンジの上の換気扇である。

お恥ずかしいことに、13年の間、プロの人に頼んだたった一回しか、丁寧な掃除はできなかった。

ただ、一年に一回、表面の汚れをとるだけだった。

これからますますどこよりも換気扇の掃除はできなくなってしまう可能性は大だ。

そこで年寄りの暮らしのQOLを考えて、思い切って換気扇を取り替えた。

なんと半自動運転で、お湯を使って行う掃除機能がついている。

それだけではない。

回天速度の3段階の設定や、運転を切ってからもしばらく通常に戻す機能までついている。

近くの電気屋さんに工事を頼んだのだが、最終的に行うのは、コンピューターの初期設定であった。

そのコンピューターは、お湯を使った掃除時期をちゃんと知らせてくれるという。

便利になったものよ!

「見たところ、そろそろ、掃除しなくちゃ」

ではなく

「今すぐ、掃除をせよ!」

というわけだ。

言ってみれば、換気扇に組み込まれたコンピューターのアルゴリズムに支配される生活スタイルになったのか?

つまり、それは、換気扇のアップグレードを行った結果の便利さと快適さを得た、ということなのか?!

これまで13年間に一回しかしなかった換気扇の掃除のなのに、これからは掃除の段取り・準備だけだが自分で頻繁にさせられる結果を招くことになるのだろう。

でも、まぁ、受け皿に40度くらいにお湯をはって、終わったら汚れた湯を捨てればよいだけのことらしい。

実は、この工事を行なっている間に、私は『ホモ・デウス』上下を読み終わったところだった。

面白いと言っても「ある種の納得感」と「いささかの不愉快さ」を持ちながらの“面白い読書”であったが・・・・・

家電のアップグレードに、微妙な “トホホホ状態” に陥って真っ青になった。

「私の感覚は、意識は、意味の世界は、どこに漂流するのか?」

そもそも私って、何だ?

「換気扇のアップグレード」から、日常の暮らしの中で、「人間とは何か」「自然とは何か」「自分とは何か」「幸せとは何か」を考えるチャンスをもらったとでも言えるのか?

そういえば自動運転の自動車ブレーキの安全性の問題として、今のところ誤解を招かないために「自動運転」という表現をやめて「自動運転ブレーキ補助システム」みたいな表現を求めるニュースが、今朝、流れていた。

翻って、1990年代半ば、晩年の野口三千三は、堂々と『文明さん、お先にどうぞ!』と言い放っていた。

その人の処女作『原初生命体としての人間』には、自然と人間と動きのアプローチに、1960年代から1970年代にかけての「情報(工学)」と「生命(工学)」の知見が生かされ、考察されているではないか。

そのことは、何を意味し、そのことをどう考えていくのがよいのか・・・・

 

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国道246青山通りを赤坂見附から青山二丁目を経て絵画館までの道のり・・・・

2018年11月01日 20時05分09秒 | Weblog

先日、赤坂見附から新宿区霞ヶ丘・明治神宮絵画館まで散策した。

まず、虎屋本店で美味なる「栗おこわ」を食してから出発。

向かい側に渡って「豊川稲荷東京別院」に参って、赤坂御用地に沿って青山通りを渋谷方面に向かう。

今回はこちら側から、草月プラザ・高橋是清記念公園は眺めるだけで省略。

青山二丁目を右折し、銀杏並木を聖徳記念絵画館を目指す。

初めて館内に入った。

80枚の絵画を一枚ずつ鑑賞。明治維新からの官軍・明治政府が描いた日本を見る。

たった45年間の短い時間で、強引に行った欧化政策・富国強兵の姿を見せてもらった。

歴史の裏側に・・・・戊辰戦争の悲劇がべったりとついていることを想像しながら・・・・

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実は、最近の私の散策は、鹿児島であろうと東京であろうと、幕末から明治・大正・昭和にかけての群馬県が果たした役割を別の角度から見て、その輪郭を明確にするための行動のようである。

思いなしか高崎や前橋が果たした近代の役割が、はっきり見えはじめてきたようだ。

くわえて東京から見た群馬と薩摩・鹿児島の距離感をもって、江戸・明治における地方都市としてのその後が比較できた。

群馬の地の利は、養蚕・生糸輸出産業を可能にし、戦時中は中島飛行機を中心として飛行機製造にはもってこいの場所であった。

戦争末期には陸軍・高崎十五連隊がぺリュリィー島に本部を移しての悲劇的な歴史がある。

加えて前橋飛行場が作られ、特攻兵がここから飛び立ち若い命を空に散らしたのである。

利根川の水利は、早い時期から水力発電による電気を供給してきた。

そのことが知識としてだけではなく、私の中で身体感覚を伴って、こなれてくれたような気がしている。

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絵画館で絵画を見てから、その玄関に立った。

右手には原宿・明治神宮につながって代々木の練兵場があり、正面から左手には青山練兵場があった。

かつてのイメージを持って、しばし、佇む。

それぞれが、それぞれに、どれほど軍事的な役割を果たしてきたことか。

ちなみに虎屋赤坂本店の三階バルコニーからは、樹木とビルの間から防衛省の建物の上部がわずかに眺められる。

歴史の時間と交差して、東京と群馬を結ぶ空間が、私の身体の中で明確になりつつある。

言ってみれば、群馬は近代現代の中心地・東京にとって、広い意味での“兵站”だった。

だとすれば、その群馬に生まれた野口三千三に、終戦まで与えらえた使命の必然としての重さを測ることができる。

だが・・・・・

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『現場者 げんばもん』

2018年10月24日 09時32分03秒 | Weblog

先日の早蕨塾で、一冊の本と阿波の藍染のチーフをいただいた。

大杉漣さんのマネージャーとして、漣さんの現場に立ち会っていた青野美樹さんの写真が掲載されていた。

とにかく凄い。

署名の通りの生き方を貫いた役者さんだった!

まさか、ここまでやるか!

まさか、ここまでできるのか!

役者魂には脱帽である。

読み応えのある一冊である。

映画は、人を育て、人を生かし、そしてその命を限界を超えて燃焼させる残酷さを持っている。

だから映画は、いや、役者は面白いのだ、と本は語りかける。

早すぎたけど、これも天命。

天寿を全うされたと思いたい。

輝く瞬間、泥にまみれて・あがいて、でもにっこり笑う。

大杉弘美さんの特別寄稿が大杉漣を立体化して、命をさらに輝かせる。

共に生きた彼女の人生も圧巻である。

そして、私たち野口体操の仲間、青野美樹さん、いい時間を過ごされましたね。

挟まれていたカードには「ともに生きたことを感謝」の文字。

読み終わって栞として、あなたが写した写真のページに深く差し込みました。

また、近いうちに会いましょう!

ありがとう。

深い藍色に滲みを伴う「漣」の染め抜き文字が、いかにも漣さんらしい・・・・・

 

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会報「早蕨」Vol.4

2018年10月23日 19時45分21秒 | Weblog

今週、会報の編集作業が一気に進んだ。

いくつかの記事を除いて、掲載文の大方は、最終段階の校閲をお願いできるところまできている。

佐治さんは、デザイン・細かな編集作業をもサクサクとしてくださっている。

表紙は、春の柔らかな芽吹きを思わせる色調で、これまでの3冊に加えると、デザイン・コンセプトがより明確に発信されていることに気づく。

掲載写真はセンスがいい、と自画自賛している。

「あぁ〜、野口先生にご覧に入れたい」

無性にそう思う。

ついつい詮無いこととわかっていて、さらに切なさが増す。

人が亡くなるって、こう言うことなのだ。

「私と野口体操」に、ご登場願いたいあの方・この方、と次第にイメージが膨らんでくる。

野口三千三80年の人生が紡ぎ出す豊かな人間曼荼羅絵巻になってゆくような予感がしている。

これも2年目の会報作りをしていることによるところが大きい。

継続することで視界が開ける。

視界が開けると次への欲望が芽生える。

いやはや、月並みな言い方だが “継続こそ力!” だ。

さーて、最後の追い込みまで、しばし集中を切らさないで過ごせますように祈りつつ、このブログを書いている。

 

 

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さすが朝日新聞! 

2018年10月22日 17時02分35秒 | Weblog

午後、母の施設に出かけた。

母がいるユニットの食堂に着いていつものように足のマッサージを始めた。

すると介護士さんがクリアファイルに入った新聞記事の切り抜きを持ってきてくれた。

ニコニコと母に差し出して、操さんですよ!

母も興味を持ってのぞきこむ。

「ああたじゃないの」と写真と私の顔を見比べていた。

それからと言うもの、「野口体操、野口体操」とくり返し話しかけてくる。

ちょっと意味不明なところもあっても、それなりに答える。

早稲田・帝京・明治大学三校に隣接する公園をぐるりと回る。

キリンの社屋の前に広がる公園のあちこちに、集うお母さんや小さな子供や赤ちゃんと交流。

ようやく歩きはじめた可愛い子供や、ベビーカーの赤ちゃんに出会って母はとても嬉しそうだ。

中にはよちよちと母の車椅子のそばによってきて、リズムを取りながら上下動する男の子もいた。

するとその動きに合わせて「1、2 1、2」と声をかける母。

ここの施設に入れてもらえたことは本当によかった、と安堵する自分を感じていた。

自宅にとどめ置いたら、こんなことはありえない。

警察病院まであって、これほど恵まれた環境はなかなかないだろう。

樹木にも囲まれ、風もなく降り注ぐ秋の太陽の光の元、静かに時間が流れて行く午後。

施設に戻る道道、二人だけになると体操のことばかりを、再び話しかけてくる。

ユニットに戻ると、おやつが用意されていた。

よい食べっぷりの母を残して、一階に戻り、玄関を出る前に椅子に腰掛け、スマホをチェックしていた。

そこに看護担当の女性がよってきて、新聞記事の話を始めた。

「私、体が硬くて」

「今度、こちらでやりましょうか」

嬉しいそうに笑ってくださった。

みなさん、記事に、気づいてくださるものですねー。

さすが、朝日新聞です。

早稲田通りの歩道を自宅に向かって歩きながら、呟いた。

「ちょっと親孝行できたかな」

93歳の母と70歳になろうとしている娘の老老交流の一コマです。

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朝日新聞に「駱駝体操と野口体操」掲載されました

2018年10月21日 07時42分55秒 | Weblog

 10月20日土曜日 朝日新聞 be on Saturday の紙面に野口体操の紹介記事が掲載されました。

「続⭐️元気のひけつ」ー駱駝体操と野口体操 脱力の技術で日常からの回復を

 麿赤兒さん率いる大駱駝艦でおこなわれている駱駝体操は、そもそも五十五年前に麿さんが野口三千三に体操を習ったことがその源流にあるということで、野口体操の取材を受けたものでした。

 そのことが紙面にしっかり書かれていて、仁義を重んじた内容としてまとまっていました。

 麿さんの写真も私の写真も、凄みがあって、「脱力」が本当の力を入れる基礎感覚!?ということが伝わるようです。

 以前、朝日カルチャーセンター公開講座に麿さんをお招きしましたが、大変お優しい素敵な方でした。

 これまで数多の取材を受け、記事にしていただいていますが、こうした切り口は初めてで、新鮮な印象です。

 一日ずれてのお知らせになりましたが、お手元に朝日新聞がおありでしたら、ご一読ください。

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「野口体操の会」・・・「早蕨塾」

2018年10月15日 19時37分16秒 | Weblog

「早蕨塾」は、昨年2017年から、年の2回の定例開催を始めました。

 昨日・10月14日(日)には、第4回をつつがなく終えることができました。

 素晴らしいお話と実技指導をしてくださった龍村修さんにお礼を申し上げます。

 全てにおいて勉強させていただきました。充実した時間をありがとうございます。

 

 これまで以下のようなプログラムで研修会を開いてきました。

 1回目「人の動きの捉え方〜理学療法士の立場から」講師:國廣哲也氏

 2回目「野口体操から座禅へ」講師:藤田一照氏

 3回目「野口体操から生まれるワークショップの場〜ほぐす・つながる・つくる」講師:新井英夫氏

 4回目「ヨーガの呼吸法」講師:龍村修氏

 毎回、ボランティア・スタッフとして、協力してくださる方々。

 研修会に参加してくださる方々。

 講師の方の熱意、参加メンバーの意識の高さに支えられて、おかげさまで毎回のこと和やかな中にも充実した時間を共有できることに、「早蕨塾」を開催する意味が一段と深まってきました。

 来年は、2月2日(土)に、緊急開催「早蕨塾」を企画しています。

 テーマは「癌について学び 癌とともに生きる」講師:大屋敷純子氏です。

 この場を借りて、講師をお引き受けくださった方々、そして会員のお一人おひとりに、お礼を申しあげます。

 硬い言葉での報告に終始しました。

 最後に心のこめて一言。

 ありがとうございます。

 

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久々のブログ・・・会報「早蕨」原稿を書く 徒然に

2018年10月15日 06時36分35秒 | Weblog

 このところずっと「野口体操の会」 会報「早蕨 SAWARABI」Vol.4の原稿書きをしていた。

 私が分担する「巻頭言」「野口三千三伝」「野口三千三語録」がまとまりを見せてくれている。

「三千三伝」では、師範学校生の少年時代から、青年期に差し掛かるところを書いている。

 野口の戦争と向かい合っている毎日は、なかなか厳しい。

 これから戦後にかけて、腹を据えて、覚悟をしておかなければならない、思いながら実は負けそう。

 消し去ることのできない戦前・戦中を抱えて、自分の中の矛盾を自覚しながら、「野口体操」と呼ばれる体操を生きる三千三の戦後を想っている。

「俗」であること、「俗」の感覚を持ち続ける意味が、見えてくるのだ。

 全てを吐き出すことはできない。

 人生を浄化することもできない。

 全てをなかったことにすることもできない。

 抱え込んで、さぁ、野口よ! あなたはどう生きたかったのか?

 私も逃げずに書かせてもらいます。

 なぜ、自分が、多々ある身体アプローチの中で、野口体操にとどまったのか、わかり始めている。

 キレイキレイの自分になれるわけもなく、悪いもの、否定したくなるのも抱えて生きていく“このからだ!”は、誰ものでもない自分自身が最後まで引き受けていかなければならないのだから。

 どこまでも現実から目をそらさず、そこから見えてくる醜さ、聞こえてくる雑音、漂う臭気、苦い味、肌のザラつき。

 五感で捉えられる、それらとは真逆のうるわしき感覚も、全てひっくるめて、丸ごと全体のからだ感を、今、手元に引き寄せている。

 生きる醍醐味を日々感じて、「巻頭言」も「語録」も書くことが、楽しくなってきた私である。

 自分のために書かせていただいている。

 徹底的にスピリチュアルではない世界を生きた時、初めて本当のスピリチュアルに出会えるのだろか。

 それとも、そんなことは、到底あり得ないのだろうか。

 答えはまだ出ない。

 もしかすると“中途半端”こそ命かも!

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