羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

気分

2009年03月10日 07時20分37秒 | Weblog
 昨晩、8時過ぎに階下におりて行くと、WBCの中継がかかっていた。
 積極的に見ているわけではなさそうだった。つまり、他に見たいものがなかったから、なんとなくついているという感じだった。
 私も見るともなしに見ると、1点差を追う展開ではないか。
 
 実は、前回の大量得点の韓国戦も、同じような調子で見てしまった。
 しかし、気分はまったく違う。
 昨晩は、だんだん沈んでいくのだ。

 途中、見ていられない気分に襲われて入浴し、最後の9回を見た。
「あぁ~あ」
 そこで浮かんだこと。
 幼友達のお父上が巨人ファンで、「巨人が負けると、翌日もすごく機嫌が悪くて嫌んなっちゃうの」と言う言葉だった。

 程度の差こそあれ、この気分の沈みを客観的にみてみると、同じ線状のことのように思えた。
 決して野球が好きなわけではない私。
 有名選手の名前と監督の名前くらいしか知らない私。
 そんな私でもこうした気分になるのだから、勝負の世界は怖いもの。
 まして国をかけて闘う勝負となると、国内の試合とはまったく気分が違う。
 国際試合のもつ独特の雰囲気なのだろう。
 
 気分って、大事だなぁ~。
 と同時に、状況に呑まれちゃいけない、と思う。
 最近、ちょっぴり‘過適応気味’の自分に警報を出した。
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弥生

2009年03月09日 18時28分37秒 | Weblog
 先週末、土曜日の朝日カルチャーのレッスンは、今までにない在り方を試してみた。
 そして、昨日は「芸術家のくすい箱」で、2コマのワークショップを行った。
 演劇人、音楽家、演劇の企画者、各種ダンサーの方々が出席された。
 年齢は20代前半から70歳代まで、幅広い年齢層が集まった。

 思いがけず好意的に受け入れていただけた。
 部屋の暖房がよくきいていたこともあってか、お風呂上りのように上気したお顔が印象的だった。
 話をよくきいてくださって、反応もはやく、よく笑い、動きの数こそ少なかったが、最初のころの「上体のぶらさげ」に対して、最後にもう一度行った際のそれは、まったく質の異なる‘いい感じ’の動きに変貌していた。

 後半のコマは、マッサージを中心に展開した。
 これも好評で、和やかな楽しい人間関係が創りあげられた75分だった。
 私自身が、さまざまな角度から、新しいテーマをいただいて帰ってきた。
 
 そして本日は、オフの日だったが、重要な手紙を書き終えたところに、先日の取材を受けたライターさんから書きあがった原稿がファックスされて読み終えてから、内側の蓋をのせるところを僅かだが欠いてしまった急須を瞬間接着剤で補修したり、野口先生からいただいた‘羽鳥用鞭’の修理をしたりしているうちに、日が暮れてしまった。
 明日のレッスンのレジュメを考えることが残った。

 いずれにしても野口体操に関心を寄せてくださる方がいてくださることは有難いこと。
 これからの10年に向けて、じっくり歩みをすすめたいと思う春である。
 弥生三月、野口三千三先生の祥月命日まで、あと20日ほどに迫った。
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啓蟄

2009年03月06日 08時38分56秒 | Weblog
 今年は暖冬らしい。
 確かに、花梨の花芽が紅色の蕾を膨らませている。
 いつもなら春の彼岸を境に、植え替えをするのだが、繰り上げないと新芽が伸びすぎてしまいそうな気配である。

 3月にはいって、寒い日が続いている。しかし、全体の推移は、暖冬傾向を受けて植物を春へと早めに導いているようだ。
 すでに2月末には、蝿が部屋の中に入っていたし、二日前にも障子に一匹止まっていた。

 今年は、植え替えを見送っていた‘初雪蔓’と‘花梨’から、手をつけようと算段している。
 次には、‘欅’だ。それが終わったら、‘紅葉’へとすすめたいと思っている。

 丁度、新学期の準備や朝日カルチャーではじめての試み「身体サミット・鼎談」等々もあって、なんとなく植え替えが遅れそうだ。
 内心、穏やかでない。

 今朝も、新聞を取りに出たとき、すでに雨が降っていた。
 木々や土から発せられる匂いは、しっかり春になっている、と感じながら新芽の様子を伺った。
 毎年、3月には、植物に手を触れ、土を混ぜ合わせ、鉢を選び、植え込みをする前に、一鉢ずつ土を掘り起こし鉢から木を引き抜き、根についている土を落とし、伸びすぎた根に鋏を入れて、ようやく植え込み作業にかかることで、春を実感している。
 一年に一回、成長加減を感じるこの時期ならではのクオリア体験なのだ。

 そのとき。
 根をみて命を感じ。
 土の減りをみて元気さを判断する。
 元気な木は、たった一年で、土を食べきっている。
 鉢全体に根を張り、言葉通り‘ねばり強い木’として生長しているのだ。

 我が家は街中にあって、家が密集している。
 だから、冬場の太陽の回り方では、日中いっぱい当たるわけではない。
 しかし、どんな隙間でも太陽は植物に恵を与えてくれる。
 他の条件。つまり、風は抜けることで新鮮な空気をもたらし、水は水道水だが汲み置きしておけばそれなりにまろやかになる。
 
 そこで思うこと。
 枯れる木もあるが、それは命の掟だ。
 生命は、しぶとい。簡単に命を落とすことはない。 
 その姿や営みに勇気をもらっている。

 さて、昨日は‘啓蟄’だった。
 いよいよ始まる。
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滅び……ほろび

2009年03月05日 09時21分08秒 | Weblog
 先日、日本泳法を指導できる方と、歓談する機会をもった。
 国内5千人のうち、最高齢は96歳の御仁で、若い人が入ってくれないことが問題。
 この世界も先細りが目に見えているのだとおっしゃる。

「ところで、大学の授業としては、どんな出で立ちで稽古されるんですか」
「もちろん水着を着用して、紐を一本巻きます」
「やりにくいでしょ」
「えぇー、仕方ありません。随分前からビーチでも褌は使用禁止されています。特別な祭祀や伝統的な祭りでしか許されません」
 しかし、学習院だけは昔の伝統を守っているとか。
「特例ですか」
「ふふふっ」
 彼は言葉で答えず、微妙な笑いの陰影を頬に残した。
 その話の後も、しばし、語らう。

 中締めで、その会場を私はお暇した。
 そして乗り込んだ電車の窓に、かつて房総の浜辺で見かけた男性の幻影を見た。
 腰には褌。あらわになっている肌には見事な文様が、海の青さに映えていた。
 腕・背中から肩にかけて、臀部から太腿にかけて、空間を埋め尽くすジャワのバティックのように刺青が施されていたのだ。

 夏の日に輝く日本の美は、そのころを境に失われてしまったのだろうか。
 かれこれ四十年以上も前の一服の絵が甦った。
 その日、冷たい雨が春雪に変わりそうな夜道だったが、からだの芯に熱いものを感じつつ家路についた。
 文化とは、滅びによって、その真の美しさを神話へと昇華する運命にあるものを指すのかもしれない……。
 滅び、ほろび、なんといい響きだろう。
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社会化10年

2009年03月04日 13時26分05秒 | Weblog
 昨日、朝日カルチャーセンターで月刊誌の取材を受けた。
 編集担当男性お二人は、ネクタイをしっかり締め、スーツを着こなした礼儀正しい方々だった。
 
 レッスンが始まる30分前には教室に入られ、2時間をしっかり動かれて、終わってから40分ほど、インタビューをされた。

 実は、今回に限らず、野口三千三没後に私が受けているさまざまなジャンルの取材は、真正面から野口体操を取り上げてくれるものがほとんどだ。
 ここでも時代が変わったことを実感する。

 ユニークで面白い体操がある、と言う視点ではない。
 現代に生きる人々に、こうしたメッセージをしっかり伝えたい、という先方の思いは本物であることが多い。

 野口体操の社会化を試みて10年。
 そろそろ次なるステージに入る予感がしている昨今の取材傾向である。
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演劇界のトヨタ

2009年03月02日 16時13分22秒 | Weblog
 知人の娘さんが、何が何でも劇団四季の研究所(養成所)に入りたい、ということで相談を受けた。
 私なりに情報収集し、ホームページ等々も調べてみた。
 そこから得た独断。
「四季は、演劇界のトヨタになろうとし、なりつつある……」
 たとえばプリウスとかレクサスといった最高級のブランド品を作るように、一つひとつのミュージカル作品を‘四季ブランド製品’として製作し、市場に出すことができる大企業劇団だということ。(その次に続く二番手の劇団はなさそうだし、そうした発想は‘真の演劇(表現)活動’ではないと考えるのかもしれないが……)
 
 たとえば、一つの演目を複数の場所で同時公演が打てるなんて!
 役者はトヨタの素晴らしい車の部品と考えるとわかりやすかった。
 部品といっても非常に性能がよく美しく鍛え上げられたものだ。
 そのなかに光輝く主役(複数・クローン)だけがその作品の名前‘○○’を冠してもらえる。
 当然、海外に輸出できる。まずはアジアかららしい。
 つまり四季のミュージカル作品は、堂々と世界に出せる文化になったのだ。
 
 もちろんトヨタの車も文化だし、資生堂の化粧品も文化だ。
 ある理念に裏打ちされ、みごとに磨き上げる技術を伴って、はじめて文化となりえる。
 逆に企業も文化にならなければ、世界に出て行って通用しない時代になった。

 しかし、本来の文化は‘ガラパゴス的進化’を遂げた文化を‘文化’としていた。
 そこの風土でしか味わえないもの。
 誰にも彼にも理解できるものではない、知る人とぞ知るものが高度に文化的であるという暗黙の了解が成り立っていた。
 その点に誇りをもち、ときには大きな犠牲も厭わず、人々は文化を守ってきた。

 ところが、実は、単純な上下関係ではなく、文化にも階層性がある。多様性がある。そのふり幅が大きくなったのが現代かもしれない、と思い始めている。
 
 知人の相談事から、こんなことを感じた。
 春の日の戯言と聞き流してくだされたし。 
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発熱、その後……

2009年03月01日 09時28分01秒 | Weblog
 ブログに書いた発熱の話に心配をいただいた。
「きっと、知恵熱かもしれませんね」
 お見舞いメールの文面に、思わず笑ってしまった。

 ところが、今朝は3時に目が冴えて、おっしゃるとおり‘知恵熱だった’と呟いた。
 さまざまな内容の夢を見ていた。
 最近、持ち込まれたいくつかの問題が頭のなかで渦巻いていたらしい。
 小一時間、床のなかで考えるような考えないような中途半端状態で過ごしているうちに、いつの間にか眠りに戻ったらしい。
 それから6時少し前に目が覚めた。
 覚めたといっても、まだ、朦朧とした状態に過ぎなかったが。

「寝坊をしてしまった」
 そそくさと着替えをした。
 階下におりて暖房を入れ、朝食の準備をしているうちに、からだが目覚めはじめてくれる。
 そして朝の仕事を一通り終える頃一本ずつほどけていくのが感じられた。
「なーんだ、そういうことだった」

 低く垂れ込めていた雲が、晴れていくのが面白いくらいだった。
「時代は変わった!」
 いまのところそれしか言えない。
 
 とにかく私の体液のなかで滞っていた澱が一気に溶け出し、新鮮な空気が細胞の隅々まで届けられた爽快感に、今は浸っている。
 
 発熱は自然からの助け舟だったに違いない。
 
 
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