羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

1720枚の写真

2008年01月16日 20時56分29秒 | Weblog
 たった今、写真を見終わった。
 13日にスタジオ撮影した、約2000枚の写真から、300枚程度を抜いて、佐治さんがDVDにしてくださった。
 今日の夕方に受け取ってきたばかりだ。
 7時前から見始めて、パソコンのスライドショーで1720枚を見続けた。

 美しい!
 躍動感がある!
 これはしっかり野口ブランドである!

 ということで、今日は、これでお仕舞い。
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スタジオへ行く大江戸線のなかで

2008年01月15日 08時19分07秒 | Weblog
 出来れば乗りたくない地下鉄の一つに大江戸線がある。
 13日のスタジオへは、この地下鉄に乗った。
 この線に最初に乗ったのは、開通して間もない頃だったと記憶している。そのときには、新宿から母親に連れられた小学校3年生くらいの男の子が同じ車両に乗り込んできた。走り出したとたんに「コワイヨー」と大声をあげて泣き出し、あげく「降りたい」とせがんでいた。
 その感覚は、まったく正しい。生きものとして本能的に感じる素晴らしい能力だと思った。
 階段やエスカレーターでこれでもかといいたくなるほど地下深くに降りていく。車体は小さい目で、揺れを敏感に感じてしまう。その上に‘音’だ。キーン、ゴーッという騒音が、スピードがあがると耳の奥からからだ全体に伝わって「乗らなきゃよかった」と後悔の念に襲われるのは子供だけではないと思う。

 いい悪いは別にして、ただ便利ということだけで、その恐怖感を忘れようとするのが大人だ。
 はじめてこの大江戸線に乗った時には、突発性難聴を患う前だった。
 その時に二度と乗るまいと決意したものの、乗らざるを得ないことがしばしばあった。
 特に突発性難聴を患って退院後の通院では、短い距離ということもあって、この線を利用していた。
 地下鉄の音は、壊れた耳には、不快以外の何ものでもなかった。
 その後、通院をしなくなってからは、できるだけ避けていた。だからそれほど頻繁に乗ることはなかった。

 ところが13日は、久しぶりに日曜日の朝、乗り込んで座席に腰掛けて、約30分ほどこの大江戸線の車内で揺られていた。
 気がつくと、音に不快さを感じない。穏やかな気持ちで、走りぬける音を聞きながら、うっとりしているのだった。
「こんなことってあり?」
 日曜日だから、スピードが落ちてるのかしらね。そんなことはあるはずがない。

「これから夕方まで、スタジオから一歩も出ずに長時間を過ごすわけで……おそらくこれまでに本格的なスタジオ撮影など経験のない何人もの人に、できるだけ気楽に被写体になってもらわなければならない。いやいや、少し場に馴染めば、参加してくださる皆さんに、いらぬ心配はしなくてもよい」
 そうした信頼感は確実なものとしてあったのだけれど、それにしてもこの気分のよさは、体調がすこぶるいいからなのか、突発性難聴が相当程度治癒しているからなのか、自問自答し始めた。しかし、それもいつしか忘れて、電車の揺れに身を委ねているうちに降車駅に着いた。

 人のからだほど不思議なものはない。
 人の感覚ほど不思議なものはない。
 よくわからないわ~。
 
 確かなことは、あの朝、気分がものすごくよかったということだった。
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異空間……鞭と遊ぶ

2008年01月14日 19時36分22秒 | Weblog
 一日のうちで、メールやブログのチェックを最初にするのは、朝の5時前後である。
 今朝は5時を少しだけまわったところで、‘芭瑠庵’のブログを訪ねてみた。
 驚きました!
 なんと、昨日、撮影した枚数が2000枚とのこと。

 これから佐治さんの作業はもの凄く大変だ。
 それを受けて選び出すことも大仕事となりそうだ。

 それはさておき私事。
 いままでに体操の動きの撮影は、何度も経験している。
 しかし、今回、初めての体験は「鞭」を鳴らすシーンの撮影だった。
 実は、鞭の最高スピードは亜音速だといわれている。その動きを撮るわけで、鞭の軌跡を追うカメラマンの目というものは、どのような働きをするのか、素人には皆目予想がつかない。難しいことこの上ないだろう。
 被写体としては、音は写らないとはいえ、いい音が出ないときにはいい写真にはならないという当たり前のことを実感した。
 
 五十回ではきかないだろう。相当回数、鞭を鳴らした。
 それも自動車までも撮影可能という大スタジオ。つまり異空間なのだ。
 鞭を鳴らすうちに、私自身のからだの内側で、沸き立つものを感じていた。それは今まで経験したことのない質の快感になっていった。
 周りの灯りが落とされている条件のなかで、鞭を鳴らす自分がスポットライトに照らし出されている。そのなかでいい音がした瞬間は、鞭にからだが溶け込んで一体化してくる。
 この心地よさはやみつきになりそうだということを、昨日は、言葉にはしなかった。いや、出来なかった。一晩、寝て起きたら、ようやく少しずつ言葉になってきたというのが実情だ。
「これってあの空間で鞭を鳴らした人間にしか味わえない特別な体感?」
 それもいい音が出たときの快感なのだ。つまり私自身の動き、それ自体がよい軌跡を描けた時のからだ感覚なのだ。
 
 そんなことが味わえたからどうしたっていうの? といわれればそれまでのことなのだけれど。考えてみれば、これといって人様の役に立つことでもない。
 純粋に動きと音が理想とする世界に遊ぶ、ただそれだけ。だから気持ちがよかった。
 次第に自分がカメラの被写体であることも忘れてしまう。
 只管、鞭を鳴らすのみ。
 大きなスタジオであったが故に実現した体感である。

 思い起こせば、野口三千三先生から鞭をいただいて、空中で鳴らす方法を教えられた。すぐには出来なかった。練習を重ねるうちに、いい音が鳴り始めるには、時間が必要だった。自分のからだに鞭の先が当たった事も何度もあった。
 それから20数年は過ぎている。もっとかもしれない。とにかくこれほどの時間が経過してから、このような実感が得られるとは、想像だにしなかった。
 野口先生も、きっと驚かれているに違いない。
 生まれてはじめての‘よき経験’をさせていただいた。
 空間のもつ力だ。関係が醸す力だ。
 いや~こんなことってあるのよね、って一人で感激している。
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無事に撮影終了

2008年01月13日 19時42分57秒 | Weblog
 本日は、撮影当日。
 朝の9時30分にスタジオ入りして、終了は5時だった。
 7時間30分、缶詰状態で一気に撮影できた。
 五人の麗しき乙女たち、黒一点。
 編集者の方にカメラ担当の佐治嘉隆さんというメンバーだった。
 
 皆さんのお蔭で、無事、素敵な写真が撮れたと思っている。
 外に出たときの冷たい風が、むしろ気持ちがよかった。寒さはこの冬いちばんだったにもかかわらずということは、いかに集中して長丁場を駆け抜けたかの証明だろう。

 ということで、皆さんお疲れ様でした。
 これで、よい本にならないわけがない、と自信を深めて帰宅した。

 ふぅー。。。。。。。。。。。
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写真撮影準備

2008年01月12日 11時51分05秒 | Weblog
 明日、写真撮影を行う予定になっている。
 いくつかの‘もの’を持っていくために、しばらく前からあれこれと準備してあった。それでも、前日になると、あれがなかった・これもなかった、と取り出してくる。

 それから絹の薄物にアイロンをかけた。
 それも丈が長い上に、薄いということで、最初のうちは戸惑っていた。
 アイロンの温度は「弱」ではじめたものの「やっぱり、もう少し強くしよう」と判断して、「中」にまで温度をあげてみる。これは正解だったようだ。
 1枚かけ、2枚かけ、5枚目の絹地は、10メートルはあるだろうか。しまってあったための折皺を伸ばすだけだが、結構気をつかうものだ。
 なれたころには御しまい。
 薄絹というのは、仕立てるが難しいといわれているが、確かに扱いに気をつかう。
 そのまま湿気を取るために掛けてある。これだけは、明日になってから出掛けにたたんで詰めることにしよう。

 そのほかに落としているものはないか、最終チェックは、朝日カルチャーのレッスンから戻ってからになりそうだ。

 体操の写真撮影が主なのだが、こうして‘もの’と関わって撮ることもあるわけで、そこが野口体操らしいところだ。
 こうした準備をしていると、野口三千三先生がご存命のころ、やはり写真撮影をしたときのことを思い出す。
 先生の緊張は、はたで見ていて大丈夫かと心配する。ところが時間が経過するうちになかなかの役者ぶりを発揮してくださった。そんなことを思い起こしながら、懐かしさから準備の手も止まる。

 さて、明日はお天気はいいらしい。きっといい写真が撮れること間違いない。
 こうして本が、一日、一日と出来上がっていく。
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おしゃれ

2008年01月11日 18時39分33秒 | Weblog
 ふと、目にとまった、というか、心にとまった。
 小説でもない、エッセーでもない、ましてや詩でもない。
 でも、なんとなくふわりと忍び込むものだった。

 それは朝日新聞の広告誌で月に一回、領収書とゴミ袋と一緒に届けられる『暮らしの風』2008年2月号の中の記事だった。
 「西村玲子の着心地のいい暮らし」ファッション記事だ。
 ‘自分なりのシンプルを楽しむ’というテーマで、オーソドックスなコートに大胆なアクセサリーをつける提案とかだった。
 ちょっと見ただけでは、まず、そういったファッションは自分ではやらないだろうと思いつつ、文字に目が吸い寄せられた。

「ふとしたときに、襲ってくるむなしさや絡み合っていた日常が、するする解けて、平たい気持ちになって幸せを感じたり、自分なりの経験からくる予測を超えて、人生は進んでいく。そんなもんなんだな、こんな年齢になって納得する」

 西村さん、そんなもんなのよね、なんとなくわかるわ、私にも……、って言ったりして。
 たまにはおしゃれに心を奪われるのもいいかもね!
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いろいろ

2008年01月10日 08時05分46秒 | Weblog
 突発性難聴の話は、これくらいにしておきたい。
 でも、最後に一つ、入院中から退院後も体操には助けられたことは書いておかなければ。
 病室のベットでもできる動きは、まず「やすらぎの動き」。
 特に「真の動き」は最高で、この時には耳の不快感がほとんど消えてくれた。
 こうして一時でも楽になる時間が持てたことが、どれほど勇気付けられたことか。詳しくは、今度の本に書いたので、それをお読みいただければ……。

 さて、本日、大学の後期授業の最終日ということでテストとリポート提出。
 まだまだ暑かった9月中旬から始まって、四ヶ月間に学生たちの変化はなかなかのもの。
 『身体感覚をひらく』でモデルをつとめてくださった学生諸君も、最初はアタフタしてらした。
 若さの素晴らしさは、変化の可能性の豊かさ。柔らかいということなのでしょう。

 改めて一年が過ぎるはやさを実感する学期末だ。
 
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突発性難聴の見立て

2008年01月09日 08時07分55秒 | Weblog
 それはある日突然に起こった。
 もの凄い雑音というか騒音というのか、グァーっと耳の中に紛れ込んできたって感じだった。

 幸いだったのは、近くに優秀な耳鼻咽喉科の女医さんが開業していたことだった。
 この医院は、夏には朝の6時から診察券を出す患者で、入り口前には行列ができている。始まる前に出せないと、3時間待ちは覚悟しないといけない。朝のうちに出しておいても1時間待ちとなるのはざらだ。
 とにかくこの医院には、一日に百人以上の患者が押しかけている。
 
 私の場合、その先生が診断を下すのに、わずかな時間しかかからなかった。
 病状を聞き、耳の中の様子を見て、すぐに別室で聴力検査を受けるように促す。
 診察室に戻ると「即入院してください」の一言だった。
 それから2週間の入院加療、退院後5ヶ月間の通院治療、あとは自然に任せて慣れることだった。

 最初の見立てが正しいということで、私の場合は助かったのだった。
 待たされても、待たされても、この医院に患者が集まる。
 この経験から、‘行列ができる○○’には、やっぱりわけがあったことを知った。
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突発性難聴の治療

2008年01月08日 18時56分41秒 | Weblog
 昨日の話に関連して。
 突発性難聴の治療は、2週間入院できるとかなり回復する。
 私が2003年に受けた治療をざっと書いておきたい。

 まず、ウイルス性か血流障害によるものかは、判断がつきにくい。
 とにかくすべての治療を、一日も、一時間もはやくはじめることしか、回復の手立てはない。遅れれば遅れるほど、治りが悪くなって、耳鳴りやそのほかの不快感をのこすことになる。

 私が行った治療は、次のように多彩である。
 
1、ステロイド(プレドニン)を30ミリからはじめて、2週間でゼロにしていく。

2、血流をよくする薬を中心とした点滴を連日受ける。

3、ペインクリニックで「星状神経節ブロック」といって、右耳の場合は右、左耳の場合は左側の鎖骨の上あたりの咽喉もとに麻酔薬を打つ。すると首から耳や脳にかけての血流がよくなる。

4、さらに内臓疾患や糖尿病や血圧に問題がなければ「高気圧酸素療法」というものがある。これは特殊なカプセルの中に入って、2気圧まであげた状態で50分ほど酸素を吸うもの。スポーツ選手が骨折の治療につかったり、簡易なものは疲労回復に使用したりする。肌が美しくなるということで、エステなどでも入ることが出来るようになった。しかし、この場合は1・3気圧くらいまでしか気圧を上げないし、酸素も純粋酸素ではない。いくら酸素を吸っても通常の気圧では効果はないといわれている。もともとは潜水病などの治療に使われていた。だんだんに脳梗塞やその他の病気に使われる範囲を広げていったらしい。

 2週間にこれだけの治療を受けた。
 その後は通院で「血流をよくする内服薬」と1週間に2回「ペインクリニック・星状神経節ブロック」を5ヶ月間続けた。

 最近は、すっかり忘れている。
 慣れるまで、相当に我慢するのは騒音である。壊れた耳は、音を選ぶことができなくなって雑音が情け容赦な侵入してくる。
 
 症状は、ほとんどが方耳にでるので、音は聞こえる。それで最初は聴力が落ちたことに気づかないことがある。
 しかし、診断がくだったら、とにかく治療することしか回復はないということは本当だった。不快な耳鳴りも、聴力が回復してくるにしたがって、少なくなっていく。ただし、まったくなくなるということはなさそうだ。それで1年、2年、3年経過するうちに、次第に慣れてくることによって楽になってくる。
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突発性難聴のニュース

2008年01月07日 16時11分17秒 | Weblog
 今朝は、浜崎あゆみさんが突発性難聴で、片方の耳の聴力を失った話が、テレビで報道されていた。
 2000年にすでに罹患されておられたという。
 芸能活動をなさっている方は、即入院加療がむずかしかったのでしょうね。
 1時間でもはやく治療を始めることが肝心の病。
 お気の毒としか申し上げようがない。

 かく言う私も2003年に突発性難聴を患った。
 何もかもなげうって、その時に出来る限りの治療に専念したお蔭で、ほとんど治癒という状態にまで回復した。
 
 一つの救いは、浜崎さんがご自分の病をしっかり受け止めて、前向きに‘歌姫’として生きる覚悟を述べられていること。そこまで到達されるのには、どれほどの勇気をもって、失意を乗り越えられたのか。
 同病のものとして、蔭ながら応援したい。
 片耳でも、音は聞こえるし、からだの内側で鳴ってくれるもの。
 失うことによって得られる‘超能力’を信じましょう!
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初仕事

2008年01月06日 07時48分48秒 | Weblog
 昨日は、新年最初のレッスン。なかなかいい感じで終わった。
 土曜日のクラスの方々は、さすがに休み中も体操をしてました、という方もいらしたり、皆さんの動きはよい方向にむかっているようだった。
 しばらくお休みされていた方も久々に復帰された。ご自分のなかで熟成されたものがおありだった。

 取材のカメラマン、といっても女性だったけれど、動きの凄さに口をポカンと開けたままシャッターが押せない瞬間もあったようだった。
「今度は、仕事でなくて参加します」
 一言。
 それからジャンジャン撮り続けておられた。
 
 土曜日のクラスの方々は、取材に慣れてくださって、自然体を崩さなかったので、私としてはありがたかった。

 その前のエキシビションは、大人数だったか、まぁまぁの出来で新年早々、いいスタートが切れた。
 さて、今年はどんな展開になるのか、まったく想像はつかない。
 特筆すべきは、通常のクラスの時に鳴らした鞭が、いままでのうち最高の乾いた音を出してくれた。
 今日は、日曜クラスの初日だ。
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美味快感!

2008年01月05日 08時34分40秒 | Weblog
 本日から始動。
 朝日カルチャーのレッスンが、これほど早く始まるのは、記憶は定かではないが、30年間通っていて初めてではないだろうか。

 なんと通常のレッスンの前に、一時間のエキシビションがある。
 その後、3時30分からのレッスンには取材の方々がおみえになる、と年末に連絡が入っていた。
 初日からハードな一日となりそうだ。

 で、本日の朝食は「納豆」がメインだった。
 昨晩のうちに猫の額ほどの土に埋め込んであった深谷葱を掘り出しておいた。その葱の泥を落として、小口に切る。その切れ味といったらない。
「刃の先が使えるってこんなにもちがう」と、久しぶりに包丁に満足。他の野菜も手前にスーッと引いて、最後は刃先の先端へ僅かにカーブをつけながらまな板すれすれにはなすことが出来る。
 さて、納豆の薬味として、芥子と葱はなくてはならない取り合わせだ。それにすりゴマと青海苔を加える。
 一口含むと一瞬間、冬葱の匂いが鼻に抜ける。
 美味快感!
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墓参り、そして東京散歩

2008年01月04日 08時05分01秒 | Weblog
 書いている原稿の最後の詰めが甘くて、今一の感あり。
 そこで、じっとパソコンの前に坐っていたのではいい案は出ないだろう、と思い切って散歩に出たのは昨日の午後のこと。
 まず山手線の大塚駅から都電・荒川線に乗り換えて「庚申塚」下車。西巣鴨の野口三千三先生の住まわれていたところへ。まったく雰囲気の違う新しい家に、知らない家族がお住まいのよう。
 
 そのまま旧中仙道を巣鴨方向に歩いて「巣鴨地蔵」へ。お参りをすませて巣鴨駅から再び山手線で鶯谷へ。国立博物館の裏手の道を通って寛永寺の墓地に向かう。
 昨年、直していた墓地を囲む塀は完成していた。今度は、地震には強そうだ。
 三々五々お参りの人とすれ違って墓前へ。
 香と花を手向け、手を合わせ昨年の無事を感謝し、今年の予定を報告する。
「今、書いている原稿を、本にして出版してもよろしいですか」
 墓石は何も答えてくれない。
 天気は上々。墓に向かって右手遠方には、博物館の大きな屋根と樹木が望まれる。清浄とした空気を思わず吸い込む。寛永寺はいつ来てもよく手入れされている。その点が、谷中の墓地とは違うのだが、あちらはあちらで好さがあるなどとつぶやきながら、手桶と柄杓と線香を運ぶための竹の筒を返して墓地を後にした。
 
 そのまま上野駅方向から来る人波に逆らうように駅に向かって歩く。
 坂を降りきって、今度は地下鉄銀座線で日本橋方面を目指す。
 ホームに降り立つとそこに折りよく電車が滑り込んできた。
「おーっ」
 見ると黄色の車体は、レトロなのだ。
 地下鉄開通80周年記念号だった。銀座線は1927年(昭和2年)開通ということをはじめて知った。
 乗り込んだ車内で、車体は現在のものだということに気づく。

 三越前で下車して「日本の匠展」へ直行。
 お目当ては包丁である。
 仮住まいしていた2年7ヶ月前に、隣に住まっていた90歳になる元建具屋のおじいさんが、強引に包丁を磨いでくれたのはよかったのだが、刃先を欠いて戻してくれた。こういうのを「有難迷惑」という。
 それ以来、不自由しながら使い続けていたので、どうしても1本欲しかったわけだ。
「お客さん、包丁1本ですませようっていうなら、これで十分でさぁ。高けりゃいいってもんじゃない」
「おっしゃるとおり」
 以前、出刃包丁が欲しいといったとき野口先生に「それだけは止めて」といわれて、万能にちかい日本鋼の包丁にしておいた。それが先ほどの刃先を折られた包丁だ。今度のは牛刀で19センチ。重さと長さを確かめるように長さと重さが異なる包丁5,6本と、人参が用意されていた。その人参を切る手の大きさと手つきを見て「これがいい」と判断されたらしい。
 自宅に帰って比べてみると、あくまでも勘にすぎないけれど250グラムほど軽いようだ。でも、切れ味はいい。大根の皮は驚くほど薄く剥けた。腕は二の次。問題は道具だった。
 というわけで、東京散歩は、ぐるり半周。
 
 今朝になって、文章をすらすらと手直しした。
 やっぱり野口先生が降りてきてくださったようだ、と、そう思いたい。
 現世利益も有難や、有難や!
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正月三日

2008年01月03日 09時31分29秒 | Weblog
 今朝の雑感。
 
 三元日は、お雑煮を食べる習慣を何十年も続けている。
 子供のころの記憶では、鶏肉に大根+人参+里芋+小松菜等々が入っていた。
 
 さて、唐突だけれど、その時代から今年のお雑煮に話を飛ばしたい。
 この2、3年は、毎年同じ食材でつくっている。
 しゃぶしゃぶ用の豚肉+葱+小松菜+柚。
 このお雑煮を3日間続けた。
 毎朝、だいたい同じ時間に作っている。

 で、今朝、思ったことだけれど、同じものを同じ時間に同じようにつくることの意味だった。
 葱の切り方、お餅の焼き具合、塩加減や最後に香味付けにわずかにたらす醤油の量等々、まったく同じというわけにはいかない。
 どのくらい違うかと問うてみると僅差でしかない。
 なのに体調や気分も関わって、微妙に違うことがよく感じられるのだ。
 
 そういえば、若き日に、厚焼き玉子を練習したとき「もういい加減にして」っと言われるほどつくり続けたことがあった。
 焼き始める前の段取り、焼き始めてからの箸や油をいれた小皿の置き場所といった細かいとことが自然に決まるまでには、周りの顰蹙を買うほど試さないとならなかった。その頃になると、最初から最後までほとんど神経を使わなくても焼き上げることができるようになっていた。ただ、要所要所で、ぐっと腹に力を入れる瞬間がつかめるようになる。それには数年が必要だった。なぜって、毎日つくるわけではないのだから。これがプロは違う。

 で、玄人というのは微妙な違いが分かる人を言うのだが、わずかな違いを感じ取るには、日々、同じことを繰り返すことによってしか、育たない。
 続けるということによって「違いが分かる感覚が育つ」ってことなのだ。

 そのことにつれて思い起こされるのは、明け方、まだ暗いうちに、月の光が美しい時間帯に、じっと坐する。禅は只管に坐れと言う、その言葉だ。
 なるほど仰せの通り。
 只管に坐る僧に朝餉を供する僧は、朝粥を炊く四季折々に、米が水と火によって醸しだされる味わいの微妙な違いを感じ取っていたに違いない。
 同じ日は、二度と繰り返されない。
 行く雲と流れる水とは、よく言ったものだ。

 因みに、今日の写真は「長生き独楽」。江戸独楽作家の福島保さんの作。
 最近は目が悪くなってきて、小さいものは以前にも増して勘で作るようになられたとか。
 ‘勘’こそ継続によってはぐくまれるものでしょうね。
 この独楽は、いつ止まるのかと思うほどに長く回り続ける。
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正月二日

2008年01月02日 09時26分21秒 | Weblog
 もう、2008年も2日とあいなりましたね。
 さて、今日は年末年始のことなどを、かいつまんで書いておきたい。

 暮れの29日に新宿に出かけた。初めてペペの「ユニクロ」へ。でも開店時間を間違えて早すぎた。仕方がないので映画でも見ようと思ったものの、気をそそられるものがなかった。そこで、伊勢丹へ。何となく店内を見てまわって地下二階へ。オーガニックカフェ「カフェ・ドゥ・のだめ」で、‘オーガニックダージリンティー’と‘のだめのクロックムッシュ’を注文。壁には「のだめカンタービレ」の写真やポスターやテレビではDVDを流していた。お味については言わぬが花。
 因みに、今日・今、再放送をやっている。

 年末は、珍しく「レコード大賞」を見て聞いた。
 装置とライティングがすごくよくて、ところどころ幻想的な雰囲気がなかなかだった。
 若い人の歌は、字幕を読まないとどんな歌詞なのか分からないところが、実に悲しい。年をとったというのか、歌が変わったというのか、メロディー線があるようなないようななので、意味が分からない。でも、字幕を読むとなかなかいいのよね。
 で、これはもう日本とかアジアとかアメリカとかヨーロッパとか、地域や文化をこえて素敵だと思ったのは「蕾」コブクロだった。歌がここまで歌になった!
 はじめてコブクロって名前も知ったし、歌も聴いた。
 なかば口を開けてテレビ画面に縛り付けられた。

 で、そのノリで「紅白」も途中まで聞いていた。
 ダントツで「白組」だった。男が本気で歌うとこうなるって世界を聞かせてもらえたと思ったのだ。もちろんコブクロは才能がありそうだ。逸品は、名前を失念。女性に変身したあの人。声変わりはなかったのだろうか? カウンターテナーとは違うし、純然たる女の声とも違う。あの柔らかさは授かりものとも思えない。だって、張るところはしっかり力がある。
 もうひとり大衆演劇の若衆の踊りは、和服を身につけていてもあれはダンスだ。歌舞伎の女形の系譜とはまったくことなる日本の大衆が作り出した一つの型から突出した芸が開きつつある。で、早乙女太一は平成生まれなのよね。
 男性群の歌唱力は、磨きがかかってきたし、ちょっと命がけって感じだった。
 本気になった男たちって素敵だ!

 固いところでは、元旦の日経新聞一面「沈む国と通貨の物語」-YEN漂流 縮む日本1-漱石の嘆きいま再びーの記事が目を引いた。
 朝日にはいろいろとお世話になっているのだが、申し訳ない、日経新聞の方に軍配を上げる機会が多くなって久しい。
 学生たちが「シュウカツ」って言うから何かと思ったら「就職活動」の略なのだけれど、シュウカツの際に日経をとってそのまま続けるという話にも頷ける。
 どこから日本を見るのかという、視点の位置の違いはあるが、それ以前の問題として、最近の朝日って広告が多すぎやしませんか?
 我が家は明治から朝日新聞だったらしいから愛着は深いのよね。東京の西部・新宿、そして中央線沿線は、朝日のファンが多い地域だったと聞く。
 でも若者の新聞離れを止めたいとおもっても、これじゃ無理か、なんて嘆息。

 とまぁ、まとまりない内容はいつものことかもネ。
 ご免!
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