羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

摩訶不思議な世界

2006年02月13日 13時39分11秒 | Weblog
「雨戸を閉める前に、この石を見ておいて」
 野口先生は、そう話しかけながら、もっていらした石を一つずつ、手にとって見せてくださった。
「これは、犬牙状方解石。方解石の結晶形は300種くらいあるといわれているのね。これは犬の牙のような結晶形がいくつも集まっているでしょ。それからこれは代表的な方解石ね。マッチ箱を潰したような形。それからこれが蛍石」
 数種類の石を一つ一つ自然光で示しながら、石の特徴を話してくださった。

「じゃぁ、雨戸を閉めてみて」
 部屋の灯りの下、もう一度、石の表情を見直して、印象を記憶する。
「いいね、これから紫外線をこの石に当てるからね」

 暗闇のなかに、石が輝きだした。
「エッ、何ですか。これは?・・・・・・」
 思わず声をあげてしまった。
「岩石・鉱物の蛍光現象っていうの」
「スゴイ!!!!!!!!」

 マッチ箱を潰したような方解石は、ボーっと蒼白い。犬牙状の方解石は、炎のようだ。蛍石は濃い紫に、岩塩はオレンジがかった赤色に輝きだす。
 自然光で見ていた世界は、いったいどこに隠れてしまったのだろう。色のグラデーションも紫外線の当たり具合で、微妙なやわらかさを生み出す。

「僕はね、この蛍光現象を知ったとき、天地がひっくり返ったような驚きに、慌てふためいしまったのよ」
 野口先生は、その驚きを私にも見せてくだりに、我が家までリュックを背負って訪ねてくださった。両親もその部屋に呼び寄せていた。
「鉱物の同定には、この蛍光現象が使われるわけね」
「宝石の鑑定では、昔から、行われていますが、こんなに美しいのははじめてですわ」
 父がそう話かけた。

 実は、真珠やダイヤモンドなども紫外線をあてて、鑑定をするらしい。ためしに宝石も見ることにした。
「どんなに美しく変色するだろう」
 父だけが、ひとりニヤニヤと笑っていた。

 母が、嬉しそうに指輪を持ってきた。
「さぁ、当ててみようね」

「ウゥウッ」
「ええぇ~、こんなことってありなの?」
 まったく美しくない。予想を見事に裏切られた。
 方解石や蛍石や岩塩や霰石や……、そのとき先生が運ばれた鉱物に比べたら、雲泥の差とはそのことだった。

「僕にとって、蛍光現象はすごいショックだった。でもひとつの確証を得たんです。蛍光現象は、ほとんどの鉱物で起こるのだが、非常にはっきりした色の変化を見せるものは少ない。そして蛍光現象が明確に出る同じ種類の鉱物でも、色に多少の違いが出てくる。この蛍光現象にとって、夾雑物・不純物の混入が意味を持つらしいんですよね。そのことは、純粋の意味をもう一度、検証する必要があることに気付かされたわけね」
 野口先生は、石を手に取りながら、しみじみと語られた。

 この世のものとは思えない色の世界に触れて、「自分が見ている世界だけが世界ではない」ということを、私も身をもって知ることになった。
 見えないものを見る。聞こえない音を聞く。
 人間の意識で捉えられる世界は、非常に限られていることを石は語りかけてくる。
 
 はたして、摩訶不思議という現象は、自分自身の脳のなかの出来事なのだろうか? 
 いや、違う、と心の中でつぶやいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球生命体としての人間

2006年02月12日 12時37分20秒 | Weblog
「今思うと、可愛かったんだけど」
 野口先生が話し始めた。
「最初の化石は、鮫の歯のだったの。穴が開いていて、そこに組紐を通して、ベルトにぶらさげ、芸大の授業のときなど、学生に見せびらかしたわけ」
 鮫の歯の化石といっても、歯の形はほとんどわからなくて、三分の一くらい残っている、黒っぽい化石だった。大きさは10センチあるかないか位だった。
「嬉しかったね。自分でも化石がもてるって」
 学生たちは、半分興味を示し、あとの半分はまったく見向きもしなかったという。

 なんでも池袋東武百貨店の屋上にでる廊下で、小さな化石の店を見つけて、そこから手に入ったものだったらしい。
「例の凝り性が芽生ええてね。足繁く通うようになったのよ」

 先生の収集癖は、いわゆるマニアとは違う質のものがある。しかし、興味を持つと非常に集中して通い続ける傾向にある。
 化石や鉱物は、当時、ごく一部のマニアックな人々の間で、人気がある程度だった。

 1年、2年、と過ぎるうちに、ご自宅の机の上には、石が増えていった。しかし、まだまだ、ボチボチという感じであった。1970年代後半の時期である。

 ご自宅の石が増えるにつれて、東武の化石・鉱物コーナーも広がって、品物が豊富になっていった。この出会いが、後の「東京国際ミネラルフェア」開催に繋がっていく。
 東武以外では、有楽町の駅のそばで、一年に1・2回だったか、堀秀道先生の「鉱物科学研究所」の即売会なども、ひっそりと開かれてはいた。

 この鉱物・化石・隕石・砂、というような「もの」との出会いが、野口体操の総仕上げには、大きな比重をひめていたと今思っている。
「宇宙という言葉を使うのは、とても抵抗があったのよね。それに対して自然という言葉には、始から抵抗はなかったの。地球という言葉にもなかった。でも、身近に石を置いて見て、それまでの地球という言葉では済まされないエネルギーを感じるようになってね」
 地球生命体としての人間存在への認識は、先生の中でより深まっていたに違いない。
 
「確信したのよね。生命体より以前に、物質が存在し、その物質から生きものが生まれ生命が誕生したってこと。精神はものすごく大事。だけど、僕は、このからだを主体に考えていきたいの。心や精神や意識の働きは、地球物質の一つの機能だってことなのよ。物質至上主義でもなんでもない。ただ、自然の理法というか自然の原理というか、そこをしっかり見ていきたいわけね。人間を見るのも、人間だけが特別にすばらしい存在だって始から決めないでね」
 
 原初生命体としての人間が、地球生命体としての人間・宇宙生命体としての人間になっていくには、それからあまり時間はかからなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甘酒

2006年02月11日 09時04分59秒 | Weblog
「冬の飲み物は、なんといっても甘酒だよね」
 この台詞は、野口三千三先生。大の好物だった。

 甘酒といえば、有名なのが神田明神の鳥居脇下にある「天野屋」。ここの甘酒は麹からつくられている。ものすごく甘い。小分けして売ってくれるので、自宅で沸かして呑むことができる。ついでに大根の味噌漬けも一緒にもとめてくるといい。深い琥珀色に漬かった大根は、その色ほど辛くない。

 できれば自分でつくることをオススメする。
 そのときは、麹よりも手軽にスーパーなどでも手に入るのは酒粕。

 野口先生の甘酒も酒粕だった。
 その名の通り甘い。そのうえドロッと濃かった。
「朝、酒粕を細かくちぎって、水に浸しておくの。お昼近くになると水を含んだ酒粕が、崩れやすくなっているから、それをよくといてから火にかける。すると簡単に溶けてツブツブがない状態になってくれるわけ。あまり伸ばしすぎないでね。お砂糖はちょっと大目。最後に生姜汁をしぼるのよ」

 お椀にタップリ注いで、ふーふーしながらいただく甘酒の味を、思い出してしまった。
 口直しというか箸休めというか、それにはやっぱり大根や生姜の味噌漬け。
 ほんの少し、薄くきった味噌漬けが用意されている。

 因みに、この味噌漬けは、都営荒川線の庚申塚からおばあちゃんの原宿・巣鴨地蔵通りに向かって1分ほど右側にある古い味噌屋のもの。
 間口7・8間もあるそのあたりでも大きな店だ。ここの味噌と味噌漬けは、先生のお気に入りで、ご一緒して我が家にも持ち帰った。

 甘酒を飲んだ後は、先生がお茶を入れてくださる。
 このお茶はホリエモンのふるさとの産。八女茶の抹茶入り茎茶だ。これもまた美味だった。
 冬の午後、掘り炬燵に入って、甘酒をいただき、お茶をすすりながら、先生の鉱物談義などを拝聴するのは、ほんとうに楽しかった。

 ところで、阪神大震災の年と、それからしばらくの間東京から酒粕が少なくなったのを記憶している。多くの酒蔵が倒壊したからだった。
 
 きょうは、久しぶりに酒粕の甘酒をつくってみよう。
 せっかくの旗日だから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怪我の功名

2006年02月10日 12時11分01秒 | Weblog
 今朝、不注意から左手の中指を木戸に挟んでしまった。
 そのときは、寒さに凍えていて、痛みをあまり感じなかった。しばらくして手が温まってきたら、なんとなく痛くなってきた。たいしたことはなさそうだ。

 朝の仕事を終えてから、右手だけの「片手練習」に切り替えてピアノを弾いた。
 それから体操をしたのだが、そのとき、ふと、思い出したことがある。
「それを試してみよう」
 野口先生が60代に入院されたときのこと。

 野口体操に「腕まわし」という動きがある。「ひれ伏す動き」というのもある。
 この「腕まわし」の時には、名前の通り大きく動いて見えるのは肩や腕だ。
 そして「ひれ伏す動き」というのは、肩関節から腕全体が伸ばされていく意識がはっきりしている。実際のところは、まるごと全体、つまり全身がかかわって動きが成り立つのだけれど。とりあえず、表面に現れていることだけを取り出せばそうなる。

 で、入院中の先生は、人気のない階段の踊り場や、屋上に上がって体操をされていたことがあった。
「腕まわしの基本は、片手練習だってことに気付いたの。片手の場合と両手の場合とでは、刺激されるところが変わるのよね」
 たずねていった私に、そう話しながら、「腕まわし」を見せてくれた。
「エッ、腕がスポット抜けるみたい」
 落とされた瞬間に、肩から腕にかけての重さで、腕全体が伸ばされていく様子が、みごとに見て取れた。
「やっぱり、片手だよ」

 それからしばらくして退院後のレッスンでは、この体験が生かされて、片手・片腕・片肩に焦点をあてておられた。
 一方「ひれ伏す動き」の場合も、同様に片腕を伸ばしながら、その伸ばされた腕の元「片肩関節」に重さをかけていきながら、ほぐす意識をちょっと持つだけで、伸ばされ方の実感が変わってくる。片方ずつを丁寧に味わってから、両手・両腕・両肩が伸ばされる感覚を丁寧に味わうと、それはそれは頸まで伸びやかになって、いい気持ち! なのだった。

 そうなのよ。右半身と左半身を分けて味わうことは、基本の「基」なのだった。
 ピアノも同様に、片手練習を怠りなく、というわけだ。

 このことは、人間の動き・動くときのからだの感覚、意識化の問題にとって、とても大事なことを潜めていることかもしれない。

 ぜひ、丁寧に片方ずつやってみていただきたい。
 今朝は、これぞ「怪我の功名」なんて、強がりを言ってみたりして。
 すっかり忘れかけていたことを思い出させてもらった。

 さて、このこととは直接の関係はないと思うのだが、「やじうまプラス」っていうテレビ朝日番組で、毎朝「星座占い」を放送している。
 今朝は、「おひつじ座」は、いちばん悪い運気だったことを思い出す。
「当たるも八卦・当たらぬも八卦」なのだが、よくない運気が出たときは、気をつけたほうがいいらしいという教訓ももらった。

 因みに、私の誕生日は、4月8日、釈迦の誕生日にして花祭りにして潅仏会なので、一度覚えていただくと、忘れにくい日。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書

2006年02月09日 09時20分00秒 | Weblog
 今月10日締め切りという飛び込みの原稿依頼があって、読んでいた本が、なかなか進まなかった。
 昨日、著者校正を終わって、そのあと一気に読み終えた。
 書名は『死は易きことなりー陸軍大将山下奉文の決断』。
最終章の一つ前「焦燥の日々」のなかに「ヤシの木陰に舞う大和撫子」という話があった。
 この章の主人公は、野口先生とのご縁のあるモダンダンスの宮操子さん。
 野口先生は、昭和21年、江口隆哉・宮操子舞踊研究所でモダンダンスの指導を受けられた。このお二人との出会いが、戦後の学校体育に「創作ダンス」を導入する大きなきっかけとなった。まさにその人の話である。

 最近になって、一気に戦前・戦中・戦後の歴史を読みながら、まったく知らなかった自分に驚いているのだけれど、この章の話は、もっとビックリなのである。

 戦前、江口隆哉・宮操子両人は、ドイツにダンス留学をしていた。そのヨーロッパへ渡航するには、もちろん船旅であった。
本によると、宮さんが乗船した船舶は、日本郵船の「諏訪丸」。この船には、ジュネーブ軍縮会議に出席する陸軍将校が乗り合わせていたそうだ。船上での華やかなパーティーでは社交ダンスは必修科目で、彼ら陸軍軍人たちに乞われて、宮さんがダンス指導を行った。
 それが縁で、戦争が勃発してから、宮さんは陸軍省派遣極秘従軍舞踊団を引き連れて、大陸に行くことになった。もちろん太平洋戦争が始まると、陥落直後のシンガポールに上陸したらしい。

 当時、陸軍報道部や宣伝部が入っていた「昭南劇場」で、彼女は舞踊を披露した。
 そのほか中国大陸やビルマでは即製の舞台で踊ったと記されている。
 著者は、「私は何万人という兵隊さんを泣かせてしまったのよ」と語る宮さんを取材されたようだ。

 そうした宮さんと野口先生が、敗戦後の日本で出会われた。
 きっと、非常に複雑な思いで、江口・宮両氏と野口先生が、戦後の復興にかかわっておられたに違いない。
 最近読んでいる本の内容をもっと早くに知りえていたら、野口先生に伺った話の聴き方も、ずいぶん違ったものになっていたはず。実に、悔やまれる。
 
 ところで「昭南劇場」の「昭南」とは、太平洋戦争中、日本が占領中のシンガポールにつけた名称ということをはじめて知った。
 そこで、思い出す名前があった。
 ネパールを中心に、学校をつくるなどの活動する「アジア自然塾」をやっておられた稲村昭南さんだ。
 稲村さんは、野口先生ご存命意中に、たびたび教室にいらしていた。朝日新聞の記者の方のご紹介だった。彼は、すでにこの世にいらっしゃらない。あまりに早すぎる死だった。
 今、思う。
 彼の並々ならぬアジアへの思いは、もしかするとこの「昭南」というお名前にあったのかもしれない。命名された由来を伺ったことはなかったが。

 さまざまに遠い縁が、繋がってくる。
 読書とは、不思議な行為だ。
 
 しかし、読書の時間は、自分では体験できない過去・現在、そして未来をも生きることなるのだなぁ~、とため息をついている私が、ここに、いる。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怖さ

2006年02月08日 09時18分59秒 | Weblog
 2月5日の逆立ちの話に、メールをいただいた。
 その日に思いがけず、逆立ちになってしまった女性からだった。
 きっと私のことに違いないと思っています、という前提で書かれたメールだった。
 
 皆さんの前で、「逆立ちしてみませんか」と、羽鳥に促され、思わず「怖い」という言葉が口をついて出てしまった。そのとき、その場の雰囲気が、とても暖かくて皆さんが心から後押しをしてくれるいい感じが伝わってきた、というような内容でした。
 そして、野口三千三先生の時代も、きっとこんな風に暖かい教室の雰囲気のなかで、皆さんがエールを贈りながら、逆立ちを練習していたのかと想像します、という受け取り方をされたとか。

 メールで返事をしようかと思ったのだが、他の人にとっても、すごく大事な話なので、ブログに書くことにした。

 一般には、出来ないときや、はじめての経験をするときに、「怖い」などと言ってはいけない雰囲気もあるということを彼女のメールから感じ取ったからだ。
 出来る・出来ないにこだわらないのが、野口体操だ。それでいて、出来たときの喜びは共有する。出来ないから、不器用だからといって、それをけなすことはしない。そのままを受けいれ合う教室だといえるかもしれない。
 しかし、ベタベタした必要以上に親近感を押し売りするようなものではない。あっさりとしていて、さりげなく気遣うもの。
 そうしたことが居心地のよさを生み出しているのだと思っている。

 いやな雰囲気で、あまりにも目に余ることや我が侭さでない限り、それぞれの気分的・感情的な揺れやゆとりを大切にする寛容さがいいなぁ、と思っている。
 そこには自然なマナーのようなものがうまれてくることを、どこかで信じているような気がする。

 そんなわけで、まだまだ逆立ちが夢のまた夢の方も、ゆっくりマイペースで歩まれることを祈っている。

「体操とは祈りである」そして「体操にとって大切なことは、畏れを感じることだ」と野口先生は言っておられた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クラスの個性

2006年02月07日 14時06分19秒 | Weblog
 1月期から始まった朝日カルチャーセンターのレッスンは、ちょうど一ヶ月が終わって、新しい月に入った。土曜日は、毎週。火曜日も毎週。日曜日が隔週。本を読む講座が一月に一回。なかなかに充実している。そしてそれぞれのクラスが特化してきた。

 つくづく思うことだが、野口体操という基本は変わらないのに、そこに集ってくださるメンバーによって、雰囲気だけでなく、伝え方まで異なってくるから不思議だ。そこが野口体操の面白いところだと思う。

 野口先生が芸大の授業をなさっているとき、その年によって、よく伝わるクラスとそうでないクラスがあって、予想はつかないと言っておられた。声楽専攻の学生が多いクラス、管楽器専攻の学生の多いクラス、とにかく専攻楽器によって、それぞれのクラスの構成員によって、特徴がでてくるそうだ。美術学部になると、もっと多様性があるらしい。

 野口先生は、そのクラスに気に入った学生を必ず見つける。すると、うまく運ばないクラスでも、焦点が定まって、伝えることが楽になると語っておられた。その背景には、野口体操と野口三千三の個性に対して好き嫌いが二分することがあったようだ。
「これぞ大学の授業だ」という学生と「何でこんなことをさせられるのか」という学生と、「野口先生、好き」という学生と「大嫌い」という学生がいるそうだった。

 先生の没後、ホームグランドの朝日カルチャー、大学、そのほか企業、等々、さまざまなところで野口体操をお伝えしてきたが、まったく同じことはなかった。

 例年にない寒い今年の冬も、皆さんお休みもなく出席してくださっている。手ごたえのある時間をいただいている。
 それにしても一昔どころではない、2・3年前から比べても、「健康」「からだ」「こころ」「うごき」「力を抜くことの意味」、そういったことに対して、意識が変化してきていることを実感している。学生から、ご年配の方まで共通していることが、これまた不思議なのだ。

 先生がご存命中、野口体操を理解してもらうのは、大変だった時期が長かった。
「体に染み付いた先入観を壊すことや意識を変えてもらうのに、レッスンの大半のエネルギーがいるみたい」
 そう語ることが多い先生だった。

 今、私は、一つのハードルを超えた方々と出会えていると思っている。相当に、意識が変わっている。先生のご苦労を知っているだけに、時代の流れのエネルギーということの凄さを実感している。
 それぞれのクラスが人間関係も含めて、いい雰囲気になってくれたことをそのまま育てて生きたいと思っている。まったく教えることは、学ぶこととはよく言ったものだ。

 今日も無事に、火曜日のクラスが終わった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逆立ち歩き

2006年02月06日 09時08分45秒 | Weblog
 昨日のブログに、思わず奇跡と書いてしまった。
 いや、私自身も逆立ちができるようになるなんて、思ってもいなかった一人だ。
 イメージとからだの柔らかさと、重さの軸をからだに感じること、挙げたらきりがないが、そうしたことが直感的に感じられるからだになっていったということかもしれない。
 
 さて、野口先生と「逆立ち」の関係は、戦前に遡る。
 戦前の師範学校を卒業したものは、28歳になるまで義務として小学校の教師をすることになっていたそうだ。
 昭和11年に群馬県の小学校に赴任された。
 授業では、理科や体育を総合的に合わせて、例えば「鉄棒運動」の原理を理科的に説明したり、グループを作って共同で教えあうような授業形態を考えたり、そういった意味では、非常に新しい授業をしておられた。

 そうした授業のなかで「逆立ち」や「鉄棒」は、皆が楽しくて仕方がなかったらしい。校庭の端から端まで、野口先生を先頭に子供たちがあとについて「逆立ち歩き」をしたそうだ。
 で、逆立ちの基本は、立ち続けることではなく、歩くことだと話されていた。
 何が大事か、つまり「バランス」、重さを移動することだと。力で固定してそこに立つのではなく、バランス感覚で立っていることだと。
 この考えは、おそらく一生を貫いていること。

 そして先生が受け持ったクラスでは、どんなに運動が不得意の子供でも、皆が協力して鉄棒や逆立ちができるようになったらしい。それもただできることが大事ではなく、怪我をさせなかったということが、一つの誇りでいらした。

 それがそのまま大人の教室には当てはまりにくいが、私のことを振り返ってみると、素直に重さが生かされる在り方がつかめると、そうとうな運動音痴でも、逆立ちも夢ではないといえるようだ。
 最初は、地獄の一丁目にでも落ちるようだったが、それが天国へのぼる一歩って感じ?!だろうか。
 
 今週は、土曜日が休みで、とても残念だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっぱり立春の卵?!

2006年02月05日 08時18分40秒 | Weblog
 昨日の朝日カルチャーセンター土曜日クラスは、奇跡が起こった。
 予想もしなかった方々が、逆さまに立ってしまった。
 一人は女性、一人は男性。
 そして今までに逆立ち練習をやっておられた姉妹も、もっと楽な逆立ちへの道が見えてきたようだった。
 包助の練習を主にやっておられる男性も、コツにはまってきた。
 途中経過をかなぐり捨てて、一気に逆立ってしまう男性も軽くなっていったし、強引に立とう立とうという意識ばかりが先行しておられた御仁も、腰の力がすこしだが抜けるようになってきたようだった。

 ここでもう一度、怪我にくれぐれも注意したい。
 そしてもう一つ、まだまだ逆立ちへの道が暗い方への思いやりも忘れてはいけないと自戒している。
 なぜって、できないときのつまらなさや悔しさは、なんとも言いようのない虚しさに導かれてしまうから。
 かくいう私も、ほんとうに長いこと逆立ちは夢のまた夢のことだった。
 夢は最後まで夢でもいいのだけれど、夢の実現もまた一つの夢。

 とにもかくにも自己流の練習を密かにやらないで、からだを徹底的にほぐすことをオススメする。
 重さの方向がからだでわかってくれば、野口体操の逆立ちは楽にできる。のびのびが肝心。しかし、筋力の弱い人が無理やりに力をいれて「エイヤッ」とばかりに立つのが問題なのだ。

 逆立ちはいろいろなバリエーションがある。
 ゆっくり、じっくり、マイペースでやってみましょうネ。
 因みに昨日、「脳天逆立ち」ができてしまった男性が、「脳天逆立ち」感想をかかれている、ご自身のブログ「健康誌デスク、ときどきギタリスト」を左のトラックバックに載せておられる。クリックしてはいかが。

 やっぱり立春は卵だけでなく、人も逆立つ日だった。
 
 「たかが逆立ち、されど逆立ち」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立春の卵

2006年02月04日 11時47分11秒 | Weblog
「立春に卵が立つ」という言い伝えは、「中国の説話」という説があるが、ほんとうだろうか。

 さて、野口三千三先生は、卵を立てることで逆立ちにイメージを膨らませておられた。連日、練習を繰り返しているときには、鏡の上にさっと立てられるところまでいったという。
 そのことを朝日新聞の「天声人語」に書かれたのは、辰濃和男さんだった。文章の神様といわれる方で、13年間「天声人語」を書き続けられた。

 昼食をご相伴させていただいたことがあった。
「毎日書かれて、13年、大変ですわね。ところで資料集めはどうなさるんですか」
 初歩的な質問を投げかけた。
「助手の人がついてくれます。それでずいぶんと助かるんですよ」

 なるほど。そうだろうなぁ~。そうでなくちゃ、書けるはずはないと、腑に落ちた。
 で、これには事後話がある。
 一昨年、「アエラ」の取材を受けた。そのときの記者の方が、当時、辰濃さんの助手だったとか。
 取材が終わって、雑談をしているときに、彼が、新聞社の辰濃さんのデスク上に卵を立てて見せたことを知った。
「僕だったんです。あのニュースソースは。確か、池袋だったかな。野口先生の講演を、聞いたんです」

 それがきっかけで「卵が立つ」実験を自分でもしてみて、辰濃さんに話をされたとか。それから20数年たって、私の取材に来てくださった当時の助手さんは、立派なジャーナリストにおなりだった

 最近では、コマーシャルに「卵が立つ」姿が、使われるようになった。
 立春の卵は、立春でなくてもそのもの自体の重さのバランスで立つ、ということを多くの人が実感するようになってくれた。

 「立春に卵が立つ」話を最初に書かれた中谷宇吉郎氏も、逆立ちはからだの重さのバランスで立つことを実験・証明された野口先生も、今日は、ほくそえんでおられることだろう。
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

からたちの花

2006年02月03日 09時05分12秒 | Weblog
 太田尚樹という著者に出会った。
 一冊目に読んだ本は、『満州裏史』講談社で、一気に読まされてしまった。
 今、読み進んでいるのは『死は易きことなり』である。
 滑らかな筆さばきに、虜になっている。
 歴史を描くには、大量の資料を駆使しなければならない。しかし、緻密に、精緻に、書かれているものは、読んでいる方がついていけなくなることがある。
 さらにその緻密さや精緻さに加えて、無味乾燥な筆致による歴史書というものも、途中放棄してしまう。
 
 とはいえ歴史読み物として、面白すぎるのも、「エッ、ホントかな」という疑念が出て、興味本位で終わってしまう読書もある。
 この著者は筆の趣は、なかなかなものだ。一読者としての私にとっては、相性がいい筆者に出会えたという感じだ。甘さがあるところがいい。

『死は易きことなり』の冒頭には、ウィーンにおける若き日の山下奉文の交友が描かれている。有馬大五郎、井上園子、田中路子、関谷敏子という、国立音大の学長や、音楽家の名が並んでいたことに驚かされたと同時に、懐かしさの観にうたれた。
 有馬先生は、私が国立に通っていた間、学長職を務めておられた。音楽表現の高度なテクニックは、ないよりはあったほうがいい。しかし、もっと大切にしたいことは、音楽・美術・演劇、その他あらゆる文化をこよなく愛する心、人として美的な魂を持ち続けること、哲学や美学といった学問の裏打ちをもって、精進することの意味を説かれていた。

 昭和二年、山下の交流はウィーンにあって、芳醇な芸術の森を散策していたことが記されている。
 とりわけ関谷敏子が歌う「からたちの花」がお気に入りで、帰国後も自宅で口づさむ軍人の姿は、筆者の言葉を借りれば「悔いても余りある取り返しのつかない結果を生む」同じ人物とは、想像だにできない。

 クーデンホーフ・光子との出会い、光子を通してドイツ人将校の娘との浅からぬ縁を持ちながらも、マニラ郊外のロス・バニョスへと突き進んでいく半生に、人間の恐さが描き出されていく。

 からたちの花が咲いたよ 白い白い花~が咲いたよ

 いま、口づさんでみた。

 隣家の庭にからたちの木が植えられている。塀を乗り越えて、枝葉が我が家にのしかかっている。一年に一度、鋏をいれる。からたちの棘は、ほんとうに痛い。太くて、固くて、鋭い棘だ。
 あの痛さを思い出しつつ、本を読み進んでいるのだが。
 実に、この内容を、象徴的するかのような「からたちの花と棘」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘ゆるっと’マッサージ

2006年02月02日 12時32分40秒 | Weblog
お知らせ
 本日、2月2日、「日経ヘルス」3月号が出ました。
 「`ゆるっと'マッサージ」という特集で、野口体操の「寝にょろ」と「マッサージ」が紹介されています。

 今までにいろいろな出版社から出ている月刊誌・週刊誌、マニアックな雑誌までいろいろな取材を受けてきました。
 今回は、日経ヘルスのホームページで、動画も見られます。
 教室でレッスンのあとに試しに取ったものですが、インターネット映像でも、ここまで見られるようになったようです。

 はじめての試みなので、ホームページの方もご覧になってください。
 左下のブックマークをクリックしてください。
 本誌に載らなかった、取材裏話が面白いです。こちらも是非に。

  http://medwave.nikkeibp.co.jp/health/

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斑入りの椿

2006年02月01日 12時07分58秒 | Weblog
 野口三千三先生の庭には、何種類かの椿があった。
 秋、早い時期に咲き始めるのは、淡い桜色の山茶花だ。
 それから年が改まって、侘び助が端正な面差しを見せてくれる。
 同じようにすこし小ぶりだが、深紅の色を見せてくれるのが原種にちかい椿だった。

 さて、2月過ぎから3月にかけて、とくに見事な大輪を咲かせるのは、園芸種の斑入りの椿だ。地の色はサーモンピンクに近い。そこに縦の絞り染めのような白い斑が、花一輪ずつ異なる文様を描き出している椿が2本植えられていた。
 おたずねした時、先生が我が家にお見えになるとき、この時期のお土産は、必ずこの花だった。脚立にのって、開き始めた花や、蕾の状態のもの、見事に開いたものなど、取り混ぜていただいていた。

 何でも「緑の手」という言葉があるそうだ。植物を育てるのが、とても上手な人をさすらしい。こればかりは、誰でも上手くいくということではない。愛情があれば育つのか、ということでもなさそうだ。

 思い起こせば、8年前のこの時期も、見事に斑入りの椿が咲き誇っていた。
 その年、2月中旬過ぎに、先生は2度目の入院を余儀なくされた。
 この入院は、人生、最後の入院となってしまった。
 ある日、少しでも慰めにと思い立ち、先生のお庭から椿の枝を切って、病院にお持ちした。とてもお好きだった椿が、今年もこんなにきれいに咲いたことを、見せて差し上げたかった。その一心だった。
 病室に入って、持っていった花瓶に花を活け、ベッドのそばにある移動テーブルに乗せた。
「先生、今年も咲きました」
 嬉しいそうなお顔が見られることを予想していた私の思いは、そのとき覆された。
 先生は、その花に一瞥を投げかけただけで、ほとんど関心を示されなかった。
 
 それは、早晩、来るものが来ることを悟った瞬間だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする