羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

建物疎開(破壊消防)

2018年03月21日 14時23分06秒 | Weblog
 今週の「わろてんか」は、昭和18年から19年、いよいよ戦争末期に突入した。

 先週までの映画作りの話では、検閲によって台本がズタズタにされる話だった。
 それを見ながら思い出した。
 昨年のこと、松竹映画の復刻版・国策映画のDVDを何本かを手元に取り寄せて鑑賞した。
 これだったのか、とドラマを見ながら思い出した。
 この時代が描かれていて、なかなか興味深かった。
 表現自由、言論の自由が失われて、作りたい映画も舞台もすべて御法度の時代。

 新宿に暮らしていた母は、空襲ギリギリまで、映画や芝居やレビューを見ていたらしい。
 昭和18年、客席はまばらだったが、藤原義江が一生懸命歌うのを聞いた記憶は鮮明に残っている。
 そう母が話してくれたこれたことを思い出した。
 
 そして、本日の「わろてんか」は、いよいよ19年の「建物疎開(破壊消防)」の話だった。
 この年には、東京體育専門学校に赴任していた野口三千三である。
 野口は、学生たちを引き連れて破壊消防の建物取り壊しの監督官をしていたそうだ。

 母の実家は、淀橋浄水場の脇、小学校に隣接していたこともあって、建物疎開にあったとも聞いた。
 東京體専は幡ヶ谷・西原町にあって、母の実家からは目と鼻の先の距離である。
 もしかすると野口と学生たちによって、建物は壊されたのかもしれない、と思うと胸がキュッと締め付けられる。
 ドラマから、母や野口から聞いていた話を思い出させてもらっている。

 朝ドラで、建物疎開をこうした角度から描くのは初めてのことではないだろうか。
 片付けをして、最後に芸人の名札を一枚ずつはずしながらいう台詞がたまらなかった。

「・・・・疎開しましたな」
「・・・・戦死しましたな」
「・・・・戦死しなければスター芸人になれたのに・・・・・」

 次々に人が去っていく、理不尽が描かれている。
 それが戦争だ。

 声高に戦争反対と言わなくても、ジーンと迫る内容だった。

 大正14年生まれの母は、小学校に入学したときから戦争が始まった、とよく言っていた。
 野口体操の誕生には、戦争が深く影を落としている。

「野口三千三伝」を書き始めて、資料がどんどん集っていくうちに、母が育った時代、野口が教師として過ごした時代が、少しずつ見えてくるようになった。
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