羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

初心にかえる

2015年01月14日 10時45分02秒 | Weblog
 昨日の話のつづき。

 鍼灸院の治療を受けるようになって、ひとつよかったことがある。
 それは初心にかえって、丁寧に自分のからだと向き合う“ほぐし”を行うようになったこと。
 野口体操を始めた20代のころ、相当な時間をつかってからだほぐしを試していた。10年くらいは徹底的に試みたと記憶している。
 日々、薄紙を剥ぐように変化する、なんて福音は全くもたらされなくて、亀の歩み? とにかくのろのろとして変化は、なかなか訪れてくれなかった。野口先生も呆れるくらいの遅さだった。
 しかし、やめることなく、続けているうちに、3年、5年、10年、と年月は経過し、そのころになると「やすらぎの動き」を初めとした「座位によるほぐし」は気持ちのいい境界へと滑り込んでくれた。

 その後の経過は割愛するとして、一気に野口先生没後の話。
 この16年間は、さまざまなことに見舞われて、本当には自分のからだと向き合う時間が減っていった。
 ただ、突発性難聴を患って入院治療を受けた時には、さすがに自分の時間を大事にして暮らした。

 それでも大半は、あれよあれよの16年だったように思う。

 そこで昨年の秋から、鍼灸院通いを始めたのをキッカケにして、初心にかえってみた。
 からだほぐしを細やかにやってみたい、と思い定めた。
 嬉しかったことがある。
 それはかれこれ40年程前、体操を始めた当初のマイナスからの出発ではなかったことだ。
 新鮮な感覚で、からだに向かい合う時間がもてたのである。

 そこで一つ加えておきたいことがある。
 いわゆるぎっくり腰、腰痛症だが、ひどい症状でなければ、腰のどの部分を傷めたのかによって、動ける体操は必ずやある、ということ。
 私の体験だが、傷めたその日でも、軽く体操は行っている。野口体操の動きのなかで、必ずやできる動きがある。それを探しながら、からだの状態を見極めるのである。
 例えば、仙骨の中心に近い時には、「上体のぶらさげ」や「尻たたき」「腿の胸付け」のような動きは出来ない。ところがこの部位の場合「腕立てバウンド」「やすらぎの動き」「四股」は痛みもなく、快適ではないが動くことができる。
 しかし、傷めた部位が仙骨と長骨が接しているあたり「仙長関節」あたりだと、今度は、できる動きが逆転する。
 まとめると野口体操の動きは、からだを細やかに分ける、からだを粉にする、次々順々に伝えて動く、円を描きながら波・渦・螺旋へと動きを伝ええていくものだから、一所に刺激が集中することは少ないわけ。

 一方で、日常生活の範囲の動きで痛みがなくても、野口体操をしてみると、痛みが感じられることがある。
 つまり、病人の世話や介護の動きは別だが、普通の暮らしのなかの動きというのは、案外と範囲が狭いことに気付かされる。
 この実感を得ると、日常的に体操することで、どれほど動きの可能性を広げ、動きののりしろを広くし、動きの感覚を鋭敏にしているのかがよくわかのだ。

 ぎっくり腰など起こさないでいられれば、それにこしたことはない。しかし、いつもいつも理想的な暮らしやからだの使い方が出来るわけではない。
 鍼灸治療を受けていると無理をしたくない気持ちが強くなる、と昨日にも書いたばかりだが、そうはいっても無理は無理だと知りながら無理をしてしまうこともある、というのが現状である。

 最後に加えることがある。
 仙骨の中心に近い場合も、仙長関節に近い場合も、どちらも「やすらぎの動き」だけは出来るということ。これはすばらしくよい事なのである。
 なぜって、気分が落ち込んだり、暗くなったりすることを防いでくれる妙薬だから。
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