羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

銀ブラ……そして「おくりびと」へ

2008年09月24日 08時05分34秒 | Weblog
 旗日の歩行者天国が始まる少し前、銀座四丁目の交差点に立った。
 まずは‘アップル・ストア’に直行。
 店内は若者から中年の男女で溢れていた。
 お目当て、といっても買う気はなかったが、iPhoneにあわせるスピーカーを見に行った、というか聞きにいった。
 しばらくMacのコンピューターを触って店を出た。
 四丁目の交差点を有楽町方向へ、ソニービルに立ち寄って、ハイビジョン歌舞伎の映像を見る。
 生の歌舞伎の舞台よりはるかに美しかったが、色のグラデーションはもちろんのこと、シャドーが失われ遠近感のない画面に、戸惑いを感じた。
 ここはすぐに立ち去って、有楽町駅に向かう。
 ふと目を上げると看板が出ていた。
「おくりびと」
 平仮名を読む。
「これってサジさんがいいい映画だ、といっていた……」
 丸の内ピカデリーの1階チケット売り場には、10人ほどの当日券を求める人が並んでいた。
 その人たちを横目に、エレベーターに乗り込んで、迷わず9階まで直行。
 2階席‘Y-9’をすぐに手に入れた。
 時計を見ると1時3分前。
 席に座るとまもなく映画の予告編が始まった。

 映画は泣くためにある。
 映画は笑うためにある。
 映画は日ごろ忘れかけている思いを喚起するためにある。

 この映画で、初めて知った‘納棺師’の役割を……。
 人の死に最後の愛情を注ぐ行為は、哀しく美しく儚く崇高である。
 主役の本木は、オーケストラが解散になって、職を失ったチェリストという設定がいい。音大を卒業したものの行く末を見せられて、身につまされる私だった。
 しかし、チェロが果たしている役割は主役級である。なんてたって悲哀はもちろん、たまらないほどの生への愛おしさを表現しているのだから。

 そして随所にちりばめられた食べるシーン。
 人は生きるために‘食べる’。その行為がこちら側と向こう側をつなぐ。
 生きものの生を奪って、人は生きる。実に旨そうだ。いや、旨いのだ。

 そこにあらわれる遺体が語る人生。遺族が見せる憎しみや愛。
 すべてが省略されていながら、遺体は能弁に語るのだった。

 脇を固める役者がいい。
 山形の四季に、寄り添って生きる昭和の影たち。
 派手さはなくていい。でもそこに描かれているワンシーン、ワンシーンに包まれて、人とのかかわりの切なさを自分のこととして引き受けてしまうのだ。

 失踪した父と息子を結ぶ‘石文’に、次世代への絆を託す‘許し’が何ともいえない。
 いったい生の川原から、私はどんな石を拾い上げているのだろう。
 大切なことは、ごくごくありふれた日常の川原に転がっているはず。
 
 あえて、音楽が甘すぎるとは言わない。
 あぁ~、いい映画だった。
‘チェロと石’が家族をつなぐ‘赤い糸’だなんて、憎いね! 
 最初のシーン、麗しき若き女性と思しき遺体を拭きながら、下腹部に触れて戸惑う
本木の表情が忘れられない。
「あるんですけど???!!!」
 
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