羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

文章は行間に、絵は余白に、立体は空気に……

2015年09月28日 12時20分11秒 | Weblog
「何、これ?」
 紙面上の写真では焦げ茶色よりも少し小豆色がかった瀬戸茶碗らしきものに、白地に藍色の染め付けらしき磁器らしき茶碗の一部がV字形に入っている一個の茶碗である。
 本日、9月28日付けの日経新聞朝刊文化欄に目が止まった。
『「破格の陶芸 十」▷5 美術評論家 森孝一』
「瀬戸筒茶碗 銘は呼継」とある。
 なんでも織田信長の弟で織田有楽斎所蔵で、後に細川三斎の秘蔵となったものらしい。
 で、「呼継」とは、壊れた部分に同じ形の陶片で補修する技法だという。
 金繕で修復するところを全く異なったもので補うところが粋であると著者は書いている。
「へー」
 そういうものだから、茶碗の写真が、まず目に入って、その異質感を持ったわけだ、と記事を読んで納得した。

『文章も同じで、「最後の結論を書くな」』と森氏のお師匠さんに言われた、と言葉がつづく。
「そうだわ、いい話を読んだ!」
 原稿の最後のまとめ数行に挌闘している私としては、思わず “渡りに舟”、とばかりに膝を打った。
「書きすぎちゃいけないんだー」
 それってちゃんと読者を納得させられる結論があって、それでも意識的に “ぼかす” ってことよね。
「なるほど、なるほど」

『文章は行間に、絵は余白に、立体は空気に本質がある』とおっしゃる。
 もう一度、写真をよく見る。
 すると最初の違和感はすっかり消えていた。
「直に見て、この手に包み込んでみたいなぁ~」
 まッ、無理なことだけれど。
『間や余白を大切にする感性がなかったら、継ぐという日本の文化も生まれなかったであろう』
 破格の陶芸は、破格の付加価値がついて、値が付けられないほどの高価な古美術品となるのか。

 最後、最後、あと数行をいかにまとめる?!
 自問自答しながら新聞を切り抜いた。
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