高円寺お蔵スタジオは、今朝もひっそりと、こぬ人を待っている。
早朝、ガラス窓を開ける。鉄製の網戸を開くと鉄格子があって、その向こうの観音開きの扉を開ける。
一気に、隣家の樹木を抜けて、風が入ってくる。
ちょっと控えめに深呼吸をする。
これが、連日、同じ朝の繰り返し。
今朝は、今ひとつ気分が優れない。
後頭部に厚紙が張り付いている重苦しさを感じている。
それでも体操し坐禅し、普段の通りだ。
それでも厚紙は剥がれない。
これほど長期に、人と関わらないことは今までにない。
「野口体操ch」7回、「会員向けオンライン野口体操レッスン」は、今月27日を終えると3回を数える。
それらの準備は、大学の授業や通常のレッスン準備の比ではない。3倍も4倍も5倍も時間と労力をかけている。
終わった翌日に襲ってくる疲労感は、ただ事ではない。
しかし、気づきを多くもらって、毎回、行った甲斐があるのだ。
が、晴れない。
だからやめる?
いや、やめたくない。
デジタルを拒否しようとは思わない、
コロナの第2波、第3波がくるから仕方なく継続する、というのではなく、一つの表現媒体として残していきたいと思っている。
それでも長年にわたって携わってきた、人と直接向かい合って伝えるレッスンを終えたときの爽快感や開放感が懐かしい。
こればかりは、デジタルでは味わえない。
対面のレッスンや授業が、通常行っているレッスンが、いつもうまくいって満足しているというわけでなない。
これでよし!と思えることは、ほとんどない。
にも関わらず、広い部屋で、話し動き、交流することで得られる脳の活性化は独特の世界だ、とあの状態を再現してみたが無理だった。
読むこと・書くこと、聞くこと・話すこと、休むこと・動くこと。
インプットとアウトプットの自分なりのバランスが、何十年かの間に出来上がっていたに違いない。
それがこの3ヶ月で崩れて、デジタルによるインプット・アウトプットに偏ってしまった。
アンバランス感を解きほどくように、散歩をした。
こんなに歩いたのも、71年間に、はじめての経験だ。
生活している自分の街を、愛おしく感じるのは、はじめての心持ちだ。
でも、でも、何かが違う。
後頭部の厚紙を、7月からの「新しい生活」で、剥がすことができるのだろうか。
そうした漠然とした不安が、厚紙の正体か?
判らない。
厚紙が張り付いたまま食した朝餉。
お粥に梅干し、そして味噌汁が、美味しかった。
食べ物の味が美味しく感じられるだけ、救いかもしれない。
でも、でも、もう限界かも。
たとえ握手ができなくても、マスク越しの会話でも、時間短縮してでも体操を共にできる日が待ち遠しい。
もう、限界かも・・・・・。
もうしばらくの辛抱であってほしい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます