羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

朝の体操ー6-

2009年03月27日 09時30分09秒 | Weblog
 今朝はわけあって体操をすることができなかった。
 さて、そこで昨日の話に関連して、思い出したことを書いておきたい。

 野口体操でもとめる‘ヨガの逆立ち’は、まっすぐが基本。
 反ることなくまっすぐになるには、頭の中心に重さが乗ってくる一点のイメージを探ることだ、と野口は言い続け自身でも『野口体操 おもさに貞く』の写真のように美しい逆立ちの写真をのこしてくれた。
 これが昨日までの経緯である。

 この‘まっすぐが逆立ちの基本’と言う考えには苦い思い出がある、と生前に語ってくださったことがある。
 話はすこし遠回りになるうえに複雑に絡み合っているけれど、お付き合いいただきたい。

 1940年昭和15年、日本が本格的な戦争に突入する前夜のことである。
 もともとこの大会は大正十三年まで遡る。内務省主催「明治神宮競技大会」から始まった。
 その後、年に一回、名称や主催が変わりつつ‘明治神宮体育大会’が開催されていた。
 さまざまな競技を競うのだが、とりわけ昭和15年の第11回は記念すべき大会となった。
 厚生省主催『紀元二千六百奉祝第十一回明治神宮国民体育大会』である。
 この会に限らないが、日本国内はもちろんのこと朝鮮・台湾といった外地からも参加者を得ている体育大会である。

 この年、群馬県代表のキャプテンを野口がつとめたと聞く。
 参加競技は「マスゲーム」つまり器械体操の集団演技である。
 外地からの参加は、松延博率いる優秀なチームだった。
 松延氏とは、1936年に開催された「ベルリンオリンピック」に体操競技選手として参加した方で、野口は、その後、戦争末期になって東京体育専門学校で再び出会うことになる。
 因みにこの‘ベルリンオリンピック’は、ヒットラーによる政治利用として、悪名高いオリンピック大会となった。

 ところで、第十一回大会の前年、つまり昭和14年第十回から「明治神宮体育大会」は改称されて「明治神宮国民体育大会」となって、厚生省主催、国防競技を採用するようになった、と岩波『近代日本総合年表』に記述がある。
 神武天皇即位二千六百年の記念行事のひとつともなったものだ。
 その大会で松延氏グループをおさえたのが、野口率いる群馬県代表だった、と聞いた話である。
 実はこの話の真偽をまだ確かめてはいない。
 多少の記憶違いはあっても、まったくの嘘ではないとおもうのだが……。
 ただ、もし、この年の参加だとすると野口の年は26歳だ。当時はまだ小学校の教師をしていたはず。28歳になって群馬師範の教官になっのだから、もしかすると十一回大会ではなく、十三回くらいではないだろうか。この件はよく調べる必要がありそうだ。
 
 その後、昭和18年から19年にかけて、全国から優秀な体育指導者はじめ武道関係者等々が呼び寄せられた「官立・東京体育専門学校」で松延氏出会う。
 そして敗戦後、高等師範出の松延氏は東京教育大学に、野口は東京藝術大学に赴任することになる。

 戦後のある日、野口は彼に誘われて、オリンピックの体操選手の内輪の集まりに呼ばれたそうだ。
 その席で「倒立は、まっすぐが基本」という持論を展開した。
 ところが誰一人としてその考えを支持してくれる人はいなかったそうだ。
 例外は、松延氏だった。
 意気消沈して帰宅した負けず嫌いの野口の心中は穏やかではなかったはずだ。
 ところが、翌年のオリンピックでソ連の選手の倒立がまっすぐだった、という。
「それ見ろ!」
 溜飲が下がった。

 そうした経緯もあり、野口の「逆立ちの基本はまっすぐ」というこだわりは、ますます本物になっていくのだった。
 但し、逆立ち歩きは別である。

 そうこうしているうちに、時は流れた。
 松延氏とは、後日談がある。
 東京藝大で宮川睦子先生が定年退官されたあとにはいった教官は、松延氏のお弟子さんだった石橋先生。
 その先生は、ドイツに留学される前、私が通っていた国立音楽大学附属高校と同じ敷地にあった国立音大の普通科高校で、体育の先生をなさっておられた方だった。
 綺麗な女性で、私たちは習わなかったけれど、憧れの先生だったのだ!
 
 実は、国立の附属には、東京教育大学の松延氏の息がかかった弟子筋の方々が体育教師としていらしていた。
 私の音高生活3年間、担任であった先生は、そのなかのおひとりだった。その後、福岡大学に転任されたと風の便りで知った。器械体操の選手だった方だ。普通の体育の先生ではない特別な印象を当時から持っていた。
 
 今から思うと、松延氏と野口は非常に近い考え方を持っておられて、私の担任だった先生から授業を通して伺った話は、後に野口体操に填まる伏線になっていたのではなかったか、と思うくらいだ。
 
 今日の話は、裏も取らず書いてしまった。
 野口体操の長い歴史の中の‘因縁話’の一席としてお読み下されたし。
 
 出会うべくして出会ってしまった野口体操だったのかもしれない、と思うこのごろである。
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