数は少ないが、一年に何回かNPO法人のグループから依頼を受けて、野口体操のワークショップを行っている。
いつも思うことがある。
それは日本でNPO活動をするのはなかなか大変だ、ということ。
非営利とはいえ、利益をあげてはいけないわけではない。
自分たちで調達しなければ活動の継続性は担保されないのだから。
この場合、単発的にかかわる人はボランティアでいいとしても、常に事務局で働く人はボランティアではないはず。
よりよい活動を継続したいと考えたら、その条件に有能な人を確保することがまず求められる。しかし、理念に共感して仕事をしてもらうだけでは長続きがしない。
その人の能力に見合っただけのお給料は、どれほど工面してでも出すべきだ、と私は思っている。
しかし、現実にそうした条件を満たして活動できているところは少ないのだろう、という大方の予想はつく。
一つには、日本の文化に‘個人として寄付を行う’慣習が育っていない。
未だに日本の社会は、ある理念を実現するために個人が個人として行動する文化には育っていないようだ。
同様に、政治献金を考えてみても、個人がそれぞれの考えにあった政党なり政治家へ、‘個人献金’を行うことで、政治参加するという意識を持っている人はごく限られている。かくゆう私もそうした行動をとったことはない。
ましてやある特定のNPO法人に定期的に寄付を行ってその活動を支える、といった意識も行動も根付きにくいのが日本社会の現状ではないかと思う。
かれこれ10年前にNPO法人活動が、法律的に認められた。
当時、新聞記事やそれに関連する本なども読んでみた。
法的な縛りもきついし、活動のもとになる経済的基盤を持つことの難しさは、当時の有識者の指摘とあまり変わってないように思える。
そのほか企業が人を安く使うための隠れ蓑となる可能性の指摘があった。
また政治的信念を持つ集団の場合、政府への圧力団体的な性質を持ってしまう危険性への指摘もあった。
それから10年が過ぎて、実際に上手く回っているNPO法人は、行政の下請けとなって仕事を請け負えればある程度の経済的基盤を確保できるのが、現状ではないだろうか。
それとてそこにかかわる人間の‘曖昧な善意’に負ぶさって、成り立っているように感じる。
思うに、お仕着せの戦後民主主義は、個人の意識まで育てなかったように思う。
ある理念に寄付行為を行うなどという意識は、本当の意味で育っていない。
ボランティア精神に支えられた自分に出来る範囲内での活動、そしてそれを担保する個人レベルの寄付行為は、キリスト教的な文化土壌が生みだしたセーフティネットの一つのありようではないか、と思う。
日本にNPO法人活動が根付くには、まだまだかなり多くの人々の意識改革と社会変革が起こらなければ安定したものには成りえないのだろう。
もっと違った形態・組織、活動の仕方を探ってもいいのではないか、と思うこのごろである。
いつも思うことがある。
それは日本でNPO活動をするのはなかなか大変だ、ということ。
非営利とはいえ、利益をあげてはいけないわけではない。
自分たちで調達しなければ活動の継続性は担保されないのだから。
この場合、単発的にかかわる人はボランティアでいいとしても、常に事務局で働く人はボランティアではないはず。
よりよい活動を継続したいと考えたら、その条件に有能な人を確保することがまず求められる。しかし、理念に共感して仕事をしてもらうだけでは長続きがしない。
その人の能力に見合っただけのお給料は、どれほど工面してでも出すべきだ、と私は思っている。
しかし、現実にそうした条件を満たして活動できているところは少ないのだろう、という大方の予想はつく。
一つには、日本の文化に‘個人として寄付を行う’慣習が育っていない。
未だに日本の社会は、ある理念を実現するために個人が個人として行動する文化には育っていないようだ。
同様に、政治献金を考えてみても、個人がそれぞれの考えにあった政党なり政治家へ、‘個人献金’を行うことで、政治参加するという意識を持っている人はごく限られている。かくゆう私もそうした行動をとったことはない。
ましてやある特定のNPO法人に定期的に寄付を行ってその活動を支える、といった意識も行動も根付きにくいのが日本社会の現状ではないかと思う。
かれこれ10年前にNPO法人活動が、法律的に認められた。
当時、新聞記事やそれに関連する本なども読んでみた。
法的な縛りもきついし、活動のもとになる経済的基盤を持つことの難しさは、当時の有識者の指摘とあまり変わってないように思える。
そのほか企業が人を安く使うための隠れ蓑となる可能性の指摘があった。
また政治的信念を持つ集団の場合、政府への圧力団体的な性質を持ってしまう危険性への指摘もあった。
それから10年が過ぎて、実際に上手く回っているNPO法人は、行政の下請けとなって仕事を請け負えればある程度の経済的基盤を確保できるのが、現状ではないだろうか。
それとてそこにかかわる人間の‘曖昧な善意’に負ぶさって、成り立っているように感じる。
思うに、お仕着せの戦後民主主義は、個人の意識まで育てなかったように思う。
ある理念に寄付行為を行うなどという意識は、本当の意味で育っていない。
ボランティア精神に支えられた自分に出来る範囲内での活動、そしてそれを担保する個人レベルの寄付行為は、キリスト教的な文化土壌が生みだしたセーフティネットの一つのありようではないか、と思う。
日本にNPO法人活動が根付くには、まだまだかなり多くの人々の意識改革と社会変革が起こらなければ安定したものには成りえないのだろう。
もっと違った形態・組織、活動の仕方を探ってもいいのではないか、と思うこのごろである。
結局はほんの数人の有志の「がんばり」で支えられているのが現状だったりするわけです。しかし、理解されにくく、認知度も上がらない活動であればあるほど実は社会的重要度は高かったりする場合も多々あるわけで、大変だからとやめるわけにもいかない。日本には個人主義が根付いていないとよく言われますが、社会的活動は政府や自治体の仕事だという意識があり、おっしゃられるように個人として社会に関わるという意識が希薄なのかもしれませんね。
確かに認知度が低い活動に社会的重要度が高い買ったりすると言うご指摘には、何となくですが頷けます。
ありがとうございます。
http://nonukes.blog53.fc2.com/
拝読しました。