羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

“風が女を包んだ。女は秋の中に立ってゐる。”『三四郎』

2022年09月15日 09時11分16秒 | Weblog
『夕鶴」を読みながら、ヒロイン「つう」のイメージを具体的につかみたかった。具体的というのもおかしな表現なのだけれど。

木下順二『本郷」を読んでいて、目が釘付けになったページがある。
「九」より
《それが三四郎との関係において、三四郎の精神を通してこちらへ伝わってくるとき、美彌子さんは不思議に形而上(スピリチュアル)であり霊妙(エアリアル)であり、つまり実在と非実在のあわいに立つ魅力的なイメージである。》

木下順二・青春の頃に『三四郎』を耽溺して持った印象から、こうしたイメージへの憧憬のようなものが棲みついたという。
その言葉に続いて、詩人の茨木のり子さんからの次のような指摘を受けた、とある。
《つう(『夕鶴』)や秀(『沖縄』)や影身の内侍(『子午線の祀り』)などのキャラクターに共通するそのような要素 云々》

漱石が描いた美彌子さんのイメージは具象的に描かれているのに、木下さんの中の美彌子さんは、確実に存在しているにもかかわらず、とらえがたく深い含意と強い魅力的を持つ女性として残っている、と書かれていた。

木下さんは、新劇の前に歌舞伎と衝撃的な出会いをしている。
いや、歌舞伎に限らず、日本の伝統芸能への造詣が深い。

“実在と非実在のあわいに立つ”というイメージは能にも近いかもしれない。
それを知って『夕鶴』を読むと「つう」の存在がわずかに生き生きしてくるのだった。

思った。
木下順二は日本のシェイクスピア。
しかし、木下さんには不幸な出来事がのしかかる。
日本の現代劇の戯作者として、台本を書き、それを次々と舞台にのせる。
その夢が叶い始めた矢先に「ぶどうの会」解散で空中分解。多くの役者を失う浮き目にあうとは、どんなに悔やんでも悔やみきれなかっただろう。

そして、その先に、思う。
木下順二に野口先生はどような接し方をしたのだろう。
想像は尽きないのだが。
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