羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

寛永寺~恐竜博2016~CARAVAGGIO展

2016年03月25日 13時25分37秒 | Weblog
「ハトリさーん、やっぱ水生生活していた恐竜がいたのよ!」
 興奮して話してくれるのは、井上修美さん?
「スピノサウルス、獣脚類恐竜なんだけどね、大腿骨はまったく中空になっていなくて、水生動物に多く見られるものだったってわけ。ほかにもその証拠となることがいくつもあるんだけれどー」
 まさか井上さんがいる筈はない。
 わたしは復元されたスピノサウルスの全身骨格の前に立ちながら、「真鍋博士スペシャル解説 スピノサウルスの骨密度」音声ガイドを聞いていた。その声がいつの間にか井上さんの声に重なってしまった。

 音声ガイドを聞き終えれるやいなや、身震いして意識をたてなおした。
「井上さんに見せたかった」

 植物を食べる新発見のチレサウルス、滑空を可能したムササビのような皮膜をもつイー(中国語の翼)、羽毛を持つジェホロルニス等々、恐竜の進化の多様性が展示されている。
 ただ巨大だ、とか肉食で獰猛だとか、そういったこれまでの視点とはことなった今回の展示内容だった。
 なかでも用意された双眼実体顕微鏡を一つずつ見ていくと、それぞれに琥珀に閉じ込められた花、羽毛、昆虫がはっきりとみえてくる。
「今ごろになってでも、こうして見せる方がいいんだ!ざま~見ろ!」
 30年以上前に、双眼実体顕微鏡の面白さを、夢中で伝えていらした野口三千三先生の声も聞こえてきた。

「やっぱり、先生のお墓参りは、科学博物館を見てからにすればよかった。こんなに亡くなった方々の声が聞こえてくるのは、寛永寺の墓所から肩に背負ってきてしまったからにちがいない」
 その時は、神田で乗り換えた山手線のなかで、上野下車にしようか、鴬谷まで行ってしまおうか、迷ったすえに墓参りを先にしようと選んでしまったことに、後悔にちかい複雑な思いを抱きながら、見せることを工夫した展示を満喫して、科学博物館を出て、上野駅に向かった。

 すると左手に西洋美術館の公園出口にさしかかったとき、CARAVAGGIO展に気づかされた。
 時計を見る。針は2時をさしていた。
 いっそこの特別展も見ておこう。
 そそくさとチケットを手に、地下の展示場へと向かった。
 CARAVAGGIOを中心に彼の影響を受けた画家たちの絵が展示されている。
「五感をどのように表現するのか」というテーマも面白かった。指先の痛み、聴覚の快感、官能の喜び、とりわけ楽器を持たせることで音楽を奏でることから生まれる陶酔を描く。
 静物画もただ果物や酒を描くのではなく、香りや味を彷彿とさせる。
 つぎに光を提示し、そこから宗教的な題材へと導かれる。
 洗礼者ヨハネ、法悦のマグダラのマリア。
 五感をとおして、「苦悩、痛み、苦痛、激痛……恐怖のレアリズム」そして、「法悦、陶酔、静寂、……宗教的な心性のリアリズム」が迫ってくる。
 ここまでくると“ルネサンスを超える”という副題の意味がちょっとだけわかったような気がしてきた。
 見てよかった、と思った。

 国立西洋美術館を出る。恰度一時間を過ごしたらしい。
「きっと、上野のお山の花は、寒の戻りから、一部咲きにとどまっていたのがよかった」
 満開の花を見たら、CARAVAGGIOを見る気にはなれなかっただろう。
 ほころびはじめたばかりのちょっと心もとない桜花であったことで、五感を覚醒させられる空間に導いてもらえたのだと思う。
 やっぱり野口先生のお墓参りを先にした道順は正しかった、というより神の思し召しに違いない。
 恐竜の進化を見ながら二人の故人と語らい、画家の狂気と正気が綯い交ぜになったリアルな肉体の深層に踏み込んで、生きものに与えられた「生と死」、そして「官能」から生み出される恐怖と法悦をしっかり目に焼き付けた。
 
 野口先生祥月命日まで五日。
 三月二十四日、春の午後のこと。
コメント (2)
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