国立科学博物館で開催されている『特別展「ヒカリ展」』を、10月31日に見て回った。
その時、「光る花」の写真撮影が行われていて、横から覗かせてもらっていた。
暗闇に「光る花」は、むしろ蝋細工のようで、植物とは思えない静寂そのものの佇まいを見せていた。
「その時の撮影班は、この記事のためだったのね」
今週、日経新聞2014.Nov.「マンスリー ミュージアムガイド vol.106」に特別展の紹介が掲載されていた。記事の真ん中にモノクロだが「光る花」が据えられ、可視光だけでなく電磁波のことを中心に紹介されている。
オーロラのコーナーも広く取られていたし、3D映像でも見ることができた。
しかし、なんといっても現物の強みだ。「光る花」と「光る鉱物」つまり、野口三千三が20年以上も前から強い関心を持ってきた「鉱物の蛍光現象」の話題が、中心になっている。
本日の朝日カルチャー「野口体操講座」では、11月になって見つかった野口コレクションの一箱をご覧に入れようと思う。先生の几帳面さもさることながら、「鉱物の蛍光現象」が教えてくれる”人間の感覚の問題”に対する思い入れの尋常でない深さが伝わってくる。梱包からはじまって、手書きのメモ、選ばれた石とその大きさというか小ささ。限られたスペースに、できるだけ多くの標本を納めるための工夫が見事である。
それにつれて思いおこされるのは、今は失われてしまった西巣鴨の野口庭の姿である。
狭い敷地で出来るだけ多くの植物を育てるにはどうしたよいのか。たどり着いた方法は、鉢植えだった。いわゆる盆栽とは違う。自然の形をできるだけそのまま維持させる手入れは、独特の方法だった。
四季折々に変化する日照時間と太陽の位置、気温、その日のうちでも変わる風向きと植物のご機嫌を伺いながら、位置の移動が可能な方法として鉢植えを選んだ。
植物は原種がお好みだった。原種の椿、原種の葉タバコ、原種のクチナシ、今では手に入りにくいリュウキンシダ(琉球の金魚から琉金かもしれません。金魚の形に似ているシダ)、もちろん春になると一番に季節の移ろいを知らせる薇等々、始めて見る人は、見分けがつかないほどの種類の植物が育てられていた。
『標本は一つではいけない』
たった一つの標本を見せて、例えば三葉虫など、平べったい黒い標本が一般的だったが、それだけで三葉虫だと覚え込ませてはいけない、と考えておられた。
というわけで「蛍光現象」を見せる鉱物も、誰も関心を向けない時期に、集めはじめた。
多様性こそ、水惑星地球に活かされている人間にとって大切にしなければならないこと。
その思いがあらゆるものに向けられていて、「光る鉱物」も同様の意味を込めて接しておられたことを懐かしく思い出す。
人間が視覚で認識している世界は、宇宙の現象、あるいは地球の現象のなかで、ほんの一部分に過ぎない。
錯覚であり、誤解であり、そこから下される判断は独断なのである、ということを覚悟して、あらゆる物・あらゆる人、あらゆる現象を先入観抜きで接し感じ取ることが大事である、とおしえてくれた。
『感覚とは錯覚のことである。錯覚以外の感覚は事実としては存在しない。
理解とは誤解のことである。誤解以外の理解は事実としては存在しない。
判断とは独断のことである。独断以外の判断は事実としては存在しない。
意見とは偏見のことである。偏見以外の意見は事実としては存在しない。』
野口三千三が残したこの言葉は、庭・植物・鉱物etc.に貞くことから実感として生み出された。
この言葉を本当に理解できるようになるには、相当な時間が必要かもしれない。
最初に戻れば、自分の目の前に「現物」がある、ということの意味は深い!
それを実感させてくれる「ヒカリ展」であることは間違いない。
その時、「光る花」の写真撮影が行われていて、横から覗かせてもらっていた。
暗闇に「光る花」は、むしろ蝋細工のようで、植物とは思えない静寂そのものの佇まいを見せていた。
「その時の撮影班は、この記事のためだったのね」
今週、日経新聞2014.Nov.「マンスリー ミュージアムガイド vol.106」に特別展の紹介が掲載されていた。記事の真ん中にモノクロだが「光る花」が据えられ、可視光だけでなく電磁波のことを中心に紹介されている。
オーロラのコーナーも広く取られていたし、3D映像でも見ることができた。
しかし、なんといっても現物の強みだ。「光る花」と「光る鉱物」つまり、野口三千三が20年以上も前から強い関心を持ってきた「鉱物の蛍光現象」の話題が、中心になっている。
本日の朝日カルチャー「野口体操講座」では、11月になって見つかった野口コレクションの一箱をご覧に入れようと思う。先生の几帳面さもさることながら、「鉱物の蛍光現象」が教えてくれる”人間の感覚の問題”に対する思い入れの尋常でない深さが伝わってくる。梱包からはじまって、手書きのメモ、選ばれた石とその大きさというか小ささ。限られたスペースに、できるだけ多くの標本を納めるための工夫が見事である。
それにつれて思いおこされるのは、今は失われてしまった西巣鴨の野口庭の姿である。
狭い敷地で出来るだけ多くの植物を育てるにはどうしたよいのか。たどり着いた方法は、鉢植えだった。いわゆる盆栽とは違う。自然の形をできるだけそのまま維持させる手入れは、独特の方法だった。
四季折々に変化する日照時間と太陽の位置、気温、その日のうちでも変わる風向きと植物のご機嫌を伺いながら、位置の移動が可能な方法として鉢植えを選んだ。
植物は原種がお好みだった。原種の椿、原種の葉タバコ、原種のクチナシ、今では手に入りにくいリュウキンシダ(琉球の金魚から琉金かもしれません。金魚の形に似ているシダ)、もちろん春になると一番に季節の移ろいを知らせる薇等々、始めて見る人は、見分けがつかないほどの種類の植物が育てられていた。
『標本は一つではいけない』
たった一つの標本を見せて、例えば三葉虫など、平べったい黒い標本が一般的だったが、それだけで三葉虫だと覚え込ませてはいけない、と考えておられた。
というわけで「蛍光現象」を見せる鉱物も、誰も関心を向けない時期に、集めはじめた。
多様性こそ、水惑星地球に活かされている人間にとって大切にしなければならないこと。
その思いがあらゆるものに向けられていて、「光る鉱物」も同様の意味を込めて接しておられたことを懐かしく思い出す。
人間が視覚で認識している世界は、宇宙の現象、あるいは地球の現象のなかで、ほんの一部分に過ぎない。
錯覚であり、誤解であり、そこから下される判断は独断なのである、ということを覚悟して、あらゆる物・あらゆる人、あらゆる現象を先入観抜きで接し感じ取ることが大事である、とおしえてくれた。
『感覚とは錯覚のことである。錯覚以外の感覚は事実としては存在しない。
理解とは誤解のことである。誤解以外の理解は事実としては存在しない。
判断とは独断のことである。独断以外の判断は事実としては存在しない。
意見とは偏見のことである。偏見以外の意見は事実としては存在しない。』
野口三千三が残したこの言葉は、庭・植物・鉱物etc.に貞くことから実感として生み出された。
この言葉を本当に理解できるようになるには、相当な時間が必要かもしれない。
最初に戻れば、自分の目の前に「現物」がある、ということの意味は深い!
それを実感させてくれる「ヒカリ展」であることは間違いない。