羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

やさしく自然に野口体操をお伝えするには……

2011年04月21日 09時14分17秒 | Weblog
 大災害に原発事故で大学の授業開始は、二校とも五月上旬にずれ込んでしまった。
 四月を迎えた当初は、身の置き所がないような戸惑いの中にいた。ところが何となく一歩踏み出してしまったモバイル空間で過ごす事一ヶ月あまり、年甲斐もなく若者世界をかいま見る経験をさせてもらった。
 まず、あらゆる機器の初期設定に戸惑い、次は登録したIDやパスワードが増えて、その記録先を失念するというハプニングに見舞われて、あたふたすること限りなく。
 とはいえ、先日、19日の火曜日には、我が家で撮影した映像をustreamに配信し、野口体操のTwitterに落とし込むところまで到達できた。
「野口体操ほっこり作戦」であります。

 思えば今年パソコン環境を一新したのがそもそもの始まりだった。そこに輪番停電と先行きが見えない原発事故によって、授業も受けていた他の仕事も先送りされて、ほぼ一ヶ月の空隙が付け足された。そのなかでの個人放送局ustreamにアップとあいなった。
 今回、ここまでの展開は想ってもみなかった。ことばを重ねれば予想外の展開だった、と私自身が信じられないほど遠くに歩いてきたような気がする。
 しかし、そこまで私を突き動かした原動力を想ってみると、長年にわたって野口体操をミッションする難しさのただ中に身を置いてきたこと、それ自体だったように思える。
 まず、「自然直伝(自然に貞く・からだに貞く)」身体哲学を書物として社会に流通させることには恵まれた。ところがこの身体哲学は、はじめに身体の動きを通して感覚を育てることからはじまる。つまり、体操実技なしには野口が命を懸けて追い求めた人間変革は虚構の域を出ない。自然直伝の命は身体に宿る。自然直伝から練られる思考は身体の活動に育てられる。
 ところがこの身体の動きを伝えることがいちばん難しい。直に教室で体験できる人数は限られているからだ。
 それ以前に、存在そのものを知らせる手だてが限られている。 そこで動画を伴った発信が不可欠に違いない、とかねてから思っていた。それには、個人放送局的な発信も一つのあり方だった。

 思いかえせば、野口を失った平成十年(1998年)は、NPO法人が非営利組織として日本社会で活動できる基盤が法的に認められた。同時にインターネットが普及を本格化させた年でもあった。
 そのとき両方の可能性を探りはじめた私の目に見えた事は、NPO法人化は思想的に難しい面がある、ということだった。それに引き換えITの可能性は残されている、というかすかな望みは感じられた。にもかかわらず、当時はまだ個人レベルでそうした展開を行うには環境が整っていなかったのが実情だった。
 
 それがぼちぼち可能になったのが、この数年の事だろうか。
「今、乗らないでいったいいつ乗るというのだ!」
 それが私にとって2011年正月だ。
 そして3・11を境に、日本は変わった。
 敗戦の焼け野が原に立った野口が「負の価値観」から戦後を歩きはじめたその時とは事情は異なる。事情は異なるがどこか底流に横たわっている状況には、ピタリ同質ではないにしても、なにがしかの共通点があるはず。
 そこから出発した「原初生命体としての人間」が持つ意味を、今、ここで問い直してみたい。問い直したことを、誰にでもわかりやすい言葉と方法で伝えてみたい。

 4月19日に配信した「手当の方法」は、野口没後に教室に参加する皆さんによって気づかれ確かめられた方法も取り入れている。進化する具体的な身体感覚を味わってもらえれば、文字が三次元の立体構造を得る可能性をもつのではないか?
 デジタルの限界はあるに決まっている。それを乗り越えるのは、それぞれが持っているイメージの力を信じる事。私自身においても同じだ。
 まず、一歩。
 可能性を確かめた春もたけなわ。
 
 末筆ですが、当日、お手伝いくださった新井英夫さん、古賀久貴さん、お疲れさまでした。この場を借りて「ありがとうございまーす」。
コメント
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