父が亡くなる前の年に、彼が丹精していた盆栽を知人の手を借りて植え替えて逝ってくれた。
ということで、5・6年は植え替えの必要のない松や真柏は、一昨年植え替えてしばらく手をつけずに済む状態だ。
他の植物は、そうはいかないので、ほぼ毎年ひとりで植え替えしている。
家の建替えを行った年は、一年抜けてしまったので、今年で通産6回の植え替えをしたことになる。
何もわからず、父がやっていたのを思い出し、残してくれた本とメモを頼りに、母にたずねながらつづけてきた経験は、今年になって一つの段階を超えたような気がする。
「ようやく輪郭がつかめたかぁ~」
そう思えるようになった。
その一つは、鉢の選び方だ。
つまり、植物によって根の伸び方が違う。そのことにあわせて、鉢は選ばなければいけないということ。
例えば、根の張り方が横への広がり‘水平ねばり’のもの。
例えば、根の伸び方が縦への深堀り‘地球の中心方向’へのもの。
例えば、葉の茂りが密にもかかわらず、根はそれほど横への拡がりも縦への深さもないもの。葉に比べて根が貧相でもイキイキとしている植物がある。
そして厄介なのは、同じ種でも元気があるものとないものと普通のものが混在して、それぞれの健康状態がそれぞれに異なることが少しだけわかるようになってきた。
それに合わせて鉢の形を選び、地面に植えてやったりする。
その判断は難しいが、からだで覚えるしかないようだ。
学びにはいろいろな学びがある。
先生について基本を‘習い’‘学ぶ’ことは、もの凄く大事だ。
しかし、習っただけでは身につかない。
いちばんは経験をつみながら、自分で気づくこと。
時間の経過のなかでじっくり身につけることのようだ。
しかし、それは時間もかかるし、失敗のリスクを負うことになること間違いなし。
しかしと繰り返せば、取り返しがつかない失敗は別として、多少の失敗を恐れては何も出来ない、という常識的なお話に帰結してしまう。
植え替えを終えて、水遣りをする。
一つひとつを眺めながら、のび切って形も何も失われた植物に、やっぱり基本を習いにいかないといけないと思うこの頃だが、きっと私はいかないだろうなぁ~。
「許していただこう」
今朝、仏壇に手を合わせて、植え替え終了の報告をした。
ということで、5・6年は植え替えの必要のない松や真柏は、一昨年植え替えてしばらく手をつけずに済む状態だ。
他の植物は、そうはいかないので、ほぼ毎年ひとりで植え替えしている。
家の建替えを行った年は、一年抜けてしまったので、今年で通産6回の植え替えをしたことになる。
何もわからず、父がやっていたのを思い出し、残してくれた本とメモを頼りに、母にたずねながらつづけてきた経験は、今年になって一つの段階を超えたような気がする。
「ようやく輪郭がつかめたかぁ~」
そう思えるようになった。
その一つは、鉢の選び方だ。
つまり、植物によって根の伸び方が違う。そのことにあわせて、鉢は選ばなければいけないということ。
例えば、根の張り方が横への広がり‘水平ねばり’のもの。
例えば、根の伸び方が縦への深堀り‘地球の中心方向’へのもの。
例えば、葉の茂りが密にもかかわらず、根はそれほど横への拡がりも縦への深さもないもの。葉に比べて根が貧相でもイキイキとしている植物がある。
そして厄介なのは、同じ種でも元気があるものとないものと普通のものが混在して、それぞれの健康状態がそれぞれに異なることが少しだけわかるようになってきた。
それに合わせて鉢の形を選び、地面に植えてやったりする。
その判断は難しいが、からだで覚えるしかないようだ。
学びにはいろいろな学びがある。
先生について基本を‘習い’‘学ぶ’ことは、もの凄く大事だ。
しかし、習っただけでは身につかない。
いちばんは経験をつみながら、自分で気づくこと。
時間の経過のなかでじっくり身につけることのようだ。
しかし、それは時間もかかるし、失敗のリスクを負うことになること間違いなし。
しかしと繰り返せば、取り返しがつかない失敗は別として、多少の失敗を恐れては何も出来ない、という常識的なお話に帰結してしまう。
植え替えを終えて、水遣りをする。
一つひとつを眺めながら、のび切って形も何も失われた植物に、やっぱり基本を習いにいかないといけないと思うこの頃だが、きっと私はいかないだろうなぁ~。
「許していただこう」
今朝、仏壇に手を合わせて、植え替え終了の報告をした。