羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

雑談、憾談、諦談 …… そこから生きる!

2008年09月10日 09時51分12秒 | Weblog
 親戚のおじいさんの三回忌の連絡をもらった。
 しかし、仕事の都合で出席できない。
 そこでお詫びかたがた、塔婆料を添えた御仏前を届けに、先方の家を訪ねた。
 昨日、秋の日差しは結構強かった。
 1時間ほど世間話や12月の父の七回忌の相談をして、その足で永福町から原宿にまわった。
 年下の女友達と、久しぶりのランチの約束があったから。
 
 千駄ヶ谷方向に歩くこと10分。
 着いたところはビルの一階にあるイタリアンレストラン‘Mangia Pesce’。
 落着いた雰囲気の店だ。
 原宿、神宮前、千駄ヶ谷といった住宅地が控えているせいか、なかなか繁盛している様子だった。

 彼女が予約を入れてくれてあったので、待つことなく席に案内された。
 そこで2時間弱、ゆっくり話しながらのランチは美味。

‘社会医療’について勉強中の彼女とは、「認知症」と「認知症予防」のことなど、高齢期のGOLをいかに維持するのか、といった話題に終始した。
 
 たとえば、‘女性の場合’
 料理が出来なる症状が最初に出てくるような気がしている。
 料理は、日常生活のなかで火と刃物をつかう神聖な時間なのだ。
 したがってかなりの集中力が求められる……。
「人間を人間たらしめている基本的に重要な能力の一つだと思っているの」
 食べること大好き人間が二人で得た結論1。

 次は‘会話’。
 我が家の近くの認知症の妻を介護する夫の例。
 言葉のセンテンスが短い。
 今では‘止めろ、早くしろ、なにやってるんだ、ここがあんたの家でしょ、トイレはそこじゃない’と、怒鳴る声が鳴り響いている。
 妻を平手で殴ったり、突き飛ばしているような音が聞こえてくる。
「何事も起こらなければいいが……」
 皆がそう思っているが、他人の家のことには、口出しが出来ないのが実情。
 今では子どもたちも寄り付かなくなって夫婦だけの暮らしだが、四人揃っているときも大声で怒鳴りあう家族だった。同居していたお姑さんが逃げてきたこともある。
 ここまでくると、他人は何も出来ない情けない結論2。

 次に‘からだを動かすこと’
「やっぱり、野口体操はいいよね」
 我田引水的結論3。

 最後に「認知症は、老化の一つなのよね」

   ********
 
 手紙もいい、メールもいい、電話もいい。
「直接会って、話す時間はもっといい」
 夜になって、彼女からメールをもらった。

 しかし、しかしです。
 どんな老後が待ち受けているんだろう?
 ある話を思い出した。
「うちの大学の先生は、頭を使っているから、ボケないとおもっていたの。そうじゃないのよ。年とれば皆んな同じよ」
 東大図書館に勤めていた年上の知人の憾み節をきいたのは、十数年以上も前のこと。
 人は平等に老い、そして死ぬもの。
 
 雑談、憾談、諦談から導かれたこと。
「それが生きるってことさ!」
 
 寝床に入って、しばらく目が冴えていた。
 なぜか網膜に焼き着いていた御仁が現れた。
 昼間のレストランで、窓際でひとり食事をしていたご老人だ。
 それは映画監督のY氏だった。
 そこだけにスポットライトが当たっていた。
 老いの哀愁がこちらに漂ってくる。
 食事を終えて席から立ち上がった瞬間見えたのは、細身のからだに白麻のラフなスーツが似合って、背筋がしっかり伸びている姿だった。
 彼の佇まいからは、フランス象徴詩の香りが漂ってくる。
「歩けるうちが華だ。。。。。むにゃむにゃ……」
 いつの間にか深い眠りに誘われていった私。
 
コメント
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