僕の旅と彼方の友と

旅が好きアマチュア無線が好き、そんな僕の呑気な日々を綴ります。

「大江戸旅物語」 唐獅子牡丹編2

2006年04月11日 19時25分07秒 | 旅の思い出

 推古天皇36(628)年3月18日未明のことでした。今の隅田川に投網漁をしていた漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟の網に一体の仏像がかかりました。それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り、深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めました。これが浅草寺のはじまりだそうです。
 大化元(645)年、勝海上人がこの地に留まり観音堂を建立、また夢告によりご本尊は秘仏と定められ武蔵国の観音信仰の中心地となりました。
 現在の本堂再建工事にあたって出土した数々の遺物から、金龍山浅草寺は少なくとも平安期には大寺の伽藍をここ武蔵野の一漁村に構えていたことが判りました。
 実際に観音様を見ることは出来ません。一寸八分の金無垢の観音様らしいのですが、秘仏ということで公開はされていないようです。像は金無垢では無いという話もあります。が、そもそも実存するかどうかも分りません。誰も見たことがないのですから。そもそも仏教では偶像の崇拝を否定していたこともあります。あると言えば有る、ないと言えば無い、別にそれで良いのかもしれません。

 お香が焚かれています、たぶん毎日。仏様の食べ物だから毎日焚くのです、とお坊さんが言っていました。煙を体の悪い部分に擦ると良くなる、という伝えがあります。僕は、否定も肯定もしません。

 五重塔は浅草寺本堂・雷門・宝蔵門と同じ天慶5年(942)武蔵守、平公雅(たいらのきんまさ)により建てられたと伝えられていますが、長久2年(1041)火災によって倒壊し、寛永12年(1635)再建、同19年炎上したという記録が残っているそうな。その後慶安元年(1648)三代将軍徳川家光公により再建され、寛永寺・増上寺・天王寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれ後の明治44年には国宝指定を受けていましたが、なんと昭和20年3月14日戦災により焼失。江戸の大地震・関東大震災にも強かった五重塔は人災には弱かったようです。昭和48年11月1日に鉄骨鉄筋コンクリート造りで回廊式"塔院"の上に五重塔を建てる「塔院造り」の方法で再建され、回廊式の塔院には霊牌殿があり百体の聖観音像と信徒の方々が納めた1万2千基の永代供養の位牌が安置されています。
五重塔の最上階にはスリランカのイスルムニヤ王立寺院から奉載した「聖仏舎利」(仏陀の遺骨)を納め、途中階には信徒奉納の「五輪宝塔」が奉安されています。五重塔は昭和20年戦災による焼失までは観音本堂に向かって右側に位置していましたが、昭和五重塔は左側に建造され、地上53.32m(塔のみ48.3m)を誇る高さは京都東寺に次いで高い五重塔です。
                 浅草槐の会HPより

 最近ではどこの観光地でも見かけるようになりました。一度乗ってみて話の種にするのも良いかもしれません。
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