鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

朝からいい天気です、あれから4年11か月

2016-02-11 10:27:06 | 思いつくまま

 本当は天気が良ければ自分で車を運転して、いろんな所へ行って、その後がどうなっているか実際にこの眼で見て確かめて来ようと常に思っているのですが、それが大きな被害を受けた被災地に住んでいるものの義務としての務めと思っているのですが、このブログでも何回か書いているように体調が思わしくなく、目下のところあまり車の運転はしないようにしています。

           (午前9時30分頃 少し雪が舞っていました。)

    

 自分自身がどうなっても自分の責任ですが、もしかして他の人を巻き込むことになっては申し訳ないので、自制しているわけです。 でも先週から薬を代えたせいか、徐々によくなってきているようなのがわかり気分は明るい方に行っています。 ご心配をおかけしましてすみませんでした。

             

  

      

 

 2014年2月10日、2年前のきのうのことですが、何があったかお分かりでしょうか。 鮎釣りを半ば生業?にしている人は忘れてはいけない日の一つではないかと思っています。思い出しましたか?

 そうです、みちのくの河川では断トツに全国区の鮎釣り河川、山形県は小国川の漁業協同組合の組合長沼沢さんが自ら命を断った日です。 2月10日の未明のことのようです。山形県と、漁協や鮎釣り師の熱い思いとの板挟みになり、動きが取れなくなり自死したのだと思います。

 すべては山形県が漁協や河川愛護団体の要望を聴かず、一方的に山形県の主張を押し付け、あろうことか卑怯にも漁業権を認めるか否かということまで持ち出して、漁協に穴あきダムの容認を迫ったわけです。 まるでどこかの国(北朝鮮ではないですよ)の独裁政権みたいです。

 そういう知事の強硬姿勢は、モンテディオ山形の一方的かつ唐突な社長解任劇にも共通していると思っています。

 

     

                 (澱橋下流)

 何度も書いていますが、本当に月日の経つのは早いものです。もうあの大惨事から4年と11カ月も経ったのです。 来月で満5年となります。 フクシマの方は原発の関係で依然として避難生活が続いていますし、岩手県や宮城県も土木建築関係では復興も進んでいるようですが、人間としての生活や生活基盤、人間関係の復興はまだまだですし、かなり困難を伴うことでしょう。

 わたしにできることはなにか? 「忘れない」ことという一言に尽きると思っています。個人的にももう二度とあのような大きい、かつ長い長い地震はもうこりごりです。 地震には慣れっこになっていたと自認していたつもりですが、あの時は正直本当に怖かったです。

 妻と二人、買い物から帰って来て1階の茶の間にいたときにゆっくりと大地震がやってきました。 あんなに長い地震はもちろん初めてですが、それにしてもながかった、長かった。もう家が潰れてしまうのではないかと、心底から恐怖心に襲われました。 逃げなければと思いつつも立てずに座ったまま、柱の下に座っているだけでした。

 あの恐怖はそう簡単には忘れられないことと思います。 そして忘れないためには記録、記憶が大切です。ものを書くことを職業としている人には、是非ともあの日のことを、あの日のことのその後を書き続けていってほしいと切に思っています。

      

 そういうなかで私の大好きな作家である、天童荒太さんの本が出ました。 もちろんすぐに買いました。 『ムーンナイトダイバー』  初出は「オール読物」で、2015年の8月号・10月号・11月号となっています。

 

 『 なぜ潜る。聖域かもしれないのに、禁を侵せば、罰せられるかも知れないのに。 』

 『 だからこそ潜るのだ。誰も潜らないから、誰かが潜らなければいけないのだと信じる。 』

                   

 『 3・11から五年目となるフクシマ   非合法のダイバーは人と町をさらった立入禁止の海に潜航する 』

 『 慟哭の夜から圧倒的救済の光さす海へ    鎮魂と生への祈りをこめた著者の新たな代表作誕生 』

 以上は帯に書かれている文言です。 こう書けば、どういうことか大体察しが付くのではないでしょうか。 たしかにこういう視点で書かれた3・11を扱った作品はなかったように思います。 目の付け所が違います。

 でもなあ、正直に書けば(もともと読書感想文とかは書くのが苦手でしたし、それはいまも引きずっています。)、圧倒的な感動は沸いて来ませんでした。 

 わたしの感受性が鈍ってきていることは素直に認めますが、それでもなぜ潜るのか、潜った結果がなぜあんなにセックスに結びつくのか、確かに放射能汚染の心配はあるし、放射能がなくても夜間に潜る危険性はあるし、ましてや国家権力により当該海には潜ってはならないことになっており、見つかれば逮捕されるという危険性もあります。

 命を懸けた潜水行為だということは十分分かっているつもりなのですが、またそれが生き残った人たちの必死の思いを受けての行為だとは思うのですが、なんかもうひとつ訴えかけてくるもの、こちらが逃げたくても逃げることを許さないような金縛りにあったかのような緊張感みたいなものが感じられなかった、感じが少なかった。

 正直言って、消化不良です。 でもここに書かれていることはみんなで共有して行かなければならないことだということはしみじみ感じます。 生き残ったものは行方不明となった親族とどう向きあうべきなのか、どこでどういう形で決着をつけるのか、つけられるのか、大きな思い問題です。


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