日本は負けた…
その瞬間、私は何度も味わったアノ感覚が襲って来た。
この感覚はシドニーでもアテネの時にも感じたアノ感覚である。
もっと言うなればこの感覚は野球の時にだけ出て来るモノではない…
サッカーやその他のスポーツの時にもこの感覚は襲って来るのである。
そう何時だって日本は最後のほんの少しの所で
勝利する事が出来ない国なのである。
この差は決してスキルから来るモノではないと私は思っている。
それじゃあ何?
言いたくはないが、それは『精神力』の差であろう…
世界大戦時の日本軍は頼もしいまでの精神力を持っていた。
つまり今日に至るまでの60年と言う間に
我々の精神力の欠落は確実に進行しているのだ…
その責任は現在に至るまでの日本の社会にあるのか?
いや、そんな事を言うのはナンセンスだ。
現在までの社会があるからこそ我々は想像力を得る事ができ
そして何にでもチャレンジする事が出来て来たのだ。
それでは何かを変えていかなければ、世界との差は広がる一方となってしまうのでは?
その通りだと思う。
そしてこれはスポーツだけの問題では無く
ビジネスや芸術、全ての面に置いてその影響は顕著に出てくる事だろう
これは大げさな事を言っている訳ではない
精神の欠落は全ての事柄に対して関係している事なのだ!!
現在我々は日本経済から全てに置いてアジアのトップに立っていると思い込んでいるが
その考え方をそろそろ変えていかないと大変な事になるのかもしれない。
中国や韓国は世界からみれば、まだまだまともに相手にされている国とは言いがたい
がしかし現在この国々は確実に力をつけて来ているのは確かだ。
そして日本とお隣の韓国とは、スポーツの世界だけで言えば
確実にその差は出始めて来ていると認めなければならないのかもしれない。
1945年のあの日から、ここにその差が出てきてしまったのか…
何だか今日はblogをこれ以上書く気になれないので
申し訳ないですが本日のblogはここまでにします。
読んでくれている方スミマセン…
それではまた明日→
何だかなぁ(阿藤海)今日のblogは何を書いているんだか分からないや…
はじめに今回のテーマを昨日の時点である程度書けていたので
これならばblogでも行けるかなぁと思い、また明日→と続かせたのですが
実際のトコロ
甘かったぁ…
書いていてあまりにも要点が多くなり、またその要点に対して深く掘り下げてしまった為
これじゃあちょっとしたノベレットじゃん!!と言うぐらいに拡大してしまいました。
ですので、申し訳ないですが今回はポイントだけを掲載し読み手の方達にある程度、解釈してもらい
何となくで読んでもらえればいいかなぁと…逃げました。。。スミマセン
それでは今日のblogです↓
『ベースボールと野球はルールは一緒だが、その精神は違う。』
ベースボールは今から約130年前の1872(明治5)年、
学制施行当初の第一大学区第一番中学(現在の東大にあたる)と呼ばれた同校で
アメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏が学課の傍ら生徒達に野球を教えた事から
その後全国的に広まっていった。
Wikipediaの「野球」から引用
そして今日に至るまでの間にベースボールの精神をある程度、継承しつつも
日本人特有のフロンティア精神によって made in japan のベースボール
つまり『野球』が誕生したのです。
そう日本人は何でも made in japan にする事ができ、またそれを世界最高水準にまで
作り上げてしまう人種なんです。
そして今回のテーマの一つでもある『野球の精神』とは何か?
その答えは至って簡単なことで
そうそれは『我々が作り出した野球を信じ、そしてそれをプレイすれば良いのである。』
と言う事だと私は思います。
しかしここで最も重要なポイントは「我々が作り出した野球を信じる」と言う部分にあります。
私は今回どのようなアプローチでこの事を書くか随分悩みました。
そしてこの3点に絞って書き始めました。
1 「日本人プレーヤーから見る、メジャーリーガーのその絶対数から見た
身体的優位な立場からのカタルシス→(が)野球」
2 「日本人とアメリカ人のシステムを構築して行くまでのプロセスの差異について」
3 「日本人の精神について」
初めに断っておいたように今回のテーマをblogで書ききる事は困難な(適正ではない)為
ポイント1と2は軽くまとめポイント3だけをある程度、述べたいと思います。ゴメンね(愛)
ポイント1と2について
ベースボールの基本的理念はアメリカと言うお国柄、プレーヤー個人をまず尊重しなければ
ならないので、まずその個人のポテンシャルを高めることにはじまり、その後から
ストラテジーやスキームと言ったプランを立てるのである。
つまりは『点』を突き詰めるアスリート的発想の中で行われているのがベースボールのスピリットである。
それに対して、日本の野球はと言うと点を突き詰めるアスリート的発想では
どうしても絶対数から見た身体的な立場上、ベースボールよりも限界点が
直ぐに見えてしまうことから『点』と言う考え方ではなくその集合体である
『線』を突き詰める発想なのである。
ちなみにこれは野球に限った事ではなく、日本人の全ての行為に当てはまり
現代の日本人の潜在的な精神から生まれてくる発想なのである。
3「日本人の精神について」
まず初めにこれを読んでくれているあなたに質問をします。
『あなたは日本人である事に対して誇りを持って生きているでしょうか?』
おそらくほとんどの方が、「ん~」と唸っていると思われます。
でもこれは健全な日本人的解釈なので別に気にしなくていいと思います。
つまり現在の日本教育、そしてテレビや新聞と言ったメディアだけの情報だけでは
そう言う意識の中で生きていても仕方がない事だと私は思います。
わたしも音樂をやっていなければおそらく、そうであったと思います。
そうです。
わたしが変なおじさんです。じゃなくって
『わたしは日本人である事に対して誇りを持って生きています。』
※ちなみに断って置きますが、サッカーの日本代表のサポーターの大半にみられるアレとは違いますからね。
一般的な解釈で、こう言った事をおおっぴらに言う事は、
右的な思想と思われる風潮がまだまだあるのであまり健全では無いのかもしれませんが、
実は現在の国際社会を生きていく為にはこの事がとても重要な要素となるのです。
なぜなら基本的には日本以外の外国人には愛国心と言うモノがあり、その愛国心と自分との価値観の
間で外国人と接しているのです。
じゃあなぜ我々、日本人にはそう言った愛国心と言ったモノが無いのか?
この事は昨日のblogでも若干触れましたが、もともと日本人の精神には愛国心と言ったモノは備わっていないからです。
それは日本の歴史的背景と無宗教国家から来ていることなのです。
じゃあしょうがないじゃん!!
と諦めないで下さい。
これは現在の私達なら克服できる問題なのです。
私達にはインターネットと言う媒体があります。この事により一昔前ならば、そう言った情報を知る為には
それ相当の苦労があったと思われますが、今の私達にはそう言った情報をあまり苦労せずに
簡単に手に入り易い世の中になってくれているのです。
(しかし沢山の情報があり過ぎる為、それなりの判断力が必要とされますが…)
つまりインターネットで国内外からの日本の歴史を知り、また外国人からみた日本人の認識
はたまた国際社会における日本と言う国のあり方など一部メディアで取り上げているこの問題に対して、
誠意をもって向き合って考えていく事によりだんだんと日本と言う国を愛する事ができるのです。
でもこれって野球の精神との話からだいぶ離れて来て関係性が全く見えてこないじゃん!!
と思って読んでくれている方もいるかと思いますが
実はココなのです!!
つまり世界から見た日本人と言うモノを知り、そして『われわれ日本人の持つ精神』を理解する事により
様々な精神を理解出来ると言う事なのです!!
はっきり言って私は野球と言うスポーツを語れる側の人間ではありませんが
わたしの場合、音樂と言うバックボーンがあり、そして愛国心と言う
その2点からのイデオロギーによって様々な精神を何となくでは有りますが
理解出来るのです。(理解してると思っているだけかもYO。こう言うヤツが一番タチが悪い。ドキッ)
そして『野球の精神』とは何か?と振り出しに戻りますが、
それは我々、日本人が130年と言う多くの時間とそれに関わった人達
によって作り上げられた『野球』と言う素晴らしいスポーツを
プレーヤーである選手が信じ、そしてそれを誇りと思ってプレイする事が
『野球の精神』を理解するといった事に繋がるんだと私は思います。
そしてもうひとつのテーマである野球界の今後のあり方については…(ヤベッまだあったんだ)
ごめんなさい。明日に続きます→
それではまた明日。