淡路島地震から一日経ちました。
「報道ステーションSUNDAY」のトップニュースは
「浅田真央、引退を示唆?」でした。
てっきり、地震情報の続報やと思ってチャンネル合わせたのに。
東京の放送局にとっては、近畿地方の災害なんてそんな程度なんやなぁ…。
昔で言う所の、梅田橋のあたり。
その昔、梅田橋の近くに「編笠茶屋」と呼ばれる遊所があったそうです。
正確には浄祐寺の南側だったそうですが。
「wikipedia:編笠茶屋」
ウィキペディアによると、「遊郭に入る際に顔を隠すための笠を貸し出す茶屋」とあります。
顔を隠さんならんほど恥ずかしいんやったら、行かんといたらええのに…
それはさておき、堂島にあった編笠茶屋の編笠とは、
お客さんが顔を隠すためのものではなく、お客さんの忘れ物。
「いつか取りに来るかも」と店頭に飾っておいたものの
結局誰も引き取りに来ず、お店の看板みたいになっていたようです。
近くには日本中の蔵屋敷があるし、曽根崎川の北岸は農村だし
お得意さんは地方から上阪したお侍さんなのか
それとも近隣の農家のおじさん達だったのか。
こちらの遊所の名物はきれいなお姉さんでも悲恋物語でもなく、雀鮨。
「語源辞典:雀寿司」
雀寿司というと、鯛の身が敷き詰められた押し寿司というイメージだったのですが
それとは違い、小鯛をまるごと用いたものだそうです。
(昔は小鯛ではなく、他の魚だったみたいですが)
小さな魚のお腹の中にご飯を詰め込んだもので
ぷっくりと丸い形状が雀に似ていたから、雀寿司と呼ばれました。
三善貞司さんの著書には、
「福島あたりの古老は臨月の妊婦さんの様子を『雀鮨のようだ』と表現する」
とありました。
1980年代に出版された本で、取材したのはさらに前のことでしょうから
いつ頃の「古老」かは不明ですが、
明治生まれの人の話ではないでしょうか。
今の梅田橋には雀鮨のお店は見当たりませんが、
ここを発祥の地とする有名なお寿司屋さんがあります。
「総本家 小鯛雀鮨 鮨萬 -江戸時代から、大阪すしの味を伝える すし萬-」
すし萬のHPによると、1670年頃には雀鮨は福島の名物として知られていたそうです。
編笠茶屋の遊所、雀鮨のお店とも、今はこのあたりにはありません。
いつのタイミングで無くなったのか、よく分かりません。
遊郭については、明治時代に各地で整理されたので
そのタイミングかなと思います。
明治時代のキタの大火(天満焼け)でこの辺りは大きな被害を受けているので
この火事の前後で町の景色はがらっと変わったのではないかと思います。
さて、梅田橋と言えば、近松門左衛門。
今年四月の大阪公演の演目はこの梅田橋が登場する「心中天網島」。
北新地を舞台とする心中物語です。
「国立文楽劇場:4月文楽公演」
「西に見て朝夕渡るこの橋の天神橋はその昔菅丞相と申せし時
筑紫へ流され給ひしに君を慕ひて大宰府へたった一飛び梅田橋あと追ひ松の緑橋
別れを嘆き悲しみて後にこがるる桜橋
今に話を聞渡る一首の歌の御威徳
かかる尊きあら神の氏子と生れし身をもちてそなたを殺し我も死ぬ 」
残念ながらゴールデンウィークにはもう公演が終わっているので
ちょっとフライングして帰省し、なんとか見に来たいなと思っています。
もちろん、幕間のお弁当は「すし萬」のおすしで。
※「北区の風景・街並み」
文楽 「心中天網島」 河庄 1
「報道ステーションSUNDAY」のトップニュースは
「浅田真央、引退を示唆?」でした。
てっきり、地震情報の続報やと思ってチャンネル合わせたのに。
東京の放送局にとっては、近畿地方の災害なんてそんな程度なんやなぁ…。
昔で言う所の、梅田橋のあたり。
その昔、梅田橋の近くに「編笠茶屋」と呼ばれる遊所があったそうです。
正確には浄祐寺の南側だったそうですが。
「wikipedia:編笠茶屋」
ウィキペディアによると、「遊郭に入る際に顔を隠すための笠を貸し出す茶屋」とあります。
顔を隠さんならんほど恥ずかしいんやったら、行かんといたらええのに…
それはさておき、堂島にあった編笠茶屋の編笠とは、
お客さんが顔を隠すためのものではなく、お客さんの忘れ物。
「いつか取りに来るかも」と店頭に飾っておいたものの
結局誰も引き取りに来ず、お店の看板みたいになっていたようです。
近くには日本中の蔵屋敷があるし、曽根崎川の北岸は農村だし
お得意さんは地方から上阪したお侍さんなのか
それとも近隣の農家のおじさん達だったのか。
こちらの遊所の名物はきれいなお姉さんでも悲恋物語でもなく、雀鮨。
「語源辞典:雀寿司」
雀寿司というと、鯛の身が敷き詰められた押し寿司というイメージだったのですが
それとは違い、小鯛をまるごと用いたものだそうです。
(昔は小鯛ではなく、他の魚だったみたいですが)
小さな魚のお腹の中にご飯を詰め込んだもので
ぷっくりと丸い形状が雀に似ていたから、雀寿司と呼ばれました。
三善貞司さんの著書には、
「福島あたりの古老は臨月の妊婦さんの様子を『雀鮨のようだ』と表現する」
とありました。
1980年代に出版された本で、取材したのはさらに前のことでしょうから
いつ頃の「古老」かは不明ですが、
明治生まれの人の話ではないでしょうか。
今の梅田橋には雀鮨のお店は見当たりませんが、
ここを発祥の地とする有名なお寿司屋さんがあります。
「総本家 小鯛雀鮨 鮨萬 -江戸時代から、大阪すしの味を伝える すし萬-」
すし萬のHPによると、1670年頃には雀鮨は福島の名物として知られていたそうです。
編笠茶屋の遊所、雀鮨のお店とも、今はこのあたりにはありません。
いつのタイミングで無くなったのか、よく分かりません。
遊郭については、明治時代に各地で整理されたので
そのタイミングかなと思います。
明治時代のキタの大火(天満焼け)でこの辺りは大きな被害を受けているので
この火事の前後で町の景色はがらっと変わったのではないかと思います。
さて、梅田橋と言えば、近松門左衛門。
今年四月の大阪公演の演目はこの梅田橋が登場する「心中天網島」。
北新地を舞台とする心中物語です。
「国立文楽劇場:4月文楽公演」
「西に見て朝夕渡るこの橋の天神橋はその昔菅丞相と申せし時
筑紫へ流され給ひしに君を慕ひて大宰府へたった一飛び梅田橋あと追ひ松の緑橋
別れを嘆き悲しみて後にこがるる桜橋
今に話を聞渡る一首の歌の御威徳
かかる尊きあら神の氏子と生れし身をもちてそなたを殺し我も死ぬ 」
残念ながらゴールデンウィークにはもう公演が終わっているので
ちょっとフライングして帰省し、なんとか見に来たいなと思っています。
もちろん、幕間のお弁当は「すし萬」のおすしで。
※「北区の風景・街並み」
文楽 「心中天網島」 河庄 1
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