うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

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ニッポン天敵列伝Vol.1 「男子サッカー・イスラエル代表」

2009年03月22日 | ニッポン天敵列伝
人間には相性というのがあります。実力では同等と思われながら、相性が悪くて蛇に睨まれた蛙のように力を発揮出来ないケースが多々あります。スポーツでも同様で、傍から見ると両者に実力の差が無いと思われるのに、いざ対戦したら噛み合わせが悪くて、全く歯が立たない事があります。

そして、一旦苦手意識を植え付けられると、相手の名前やユニフォームを見ただけで萎縮したり、気が付いたら対戦する度に黒星を積み重ねるなど、更なる悪循環に陥ります。最近の分かりやすい例ですと、日韓の野球対決やソフトボールの日米対決がいい例だと思います・相撲だと、横綱・朝青龍と横綱審議委員の内舘牧子氏の関係も当てはまるのかな?(冗談です)。

日本のスポーツ界で過去や現在において「天敵」と呼べるチームや選手に対して、苦手意識に長年苛まれ、もがき苦しんだケースを、これから私の独断と偏見でいくつか取り上げていきたいと思います。


                           *  *  *  *  * 


今回は取り上げるのは男子サッカーのイスラエル代表です(日本から見た通算対戦成績:7戦全敗)。

男子サッカーで、比較的に頻繁に対戦経験がある相手の中で、苦手意識を抱える相手を探すとすれば、たぶん韓国だと思われる方は結構多いと思います。私もその一人です。長年あらゆる世代のアジア予選で、日本が世界への道を阻んで来たのはいつも韓国で、子供の頃からいつも悔しい思いをしました。平均身長や体重だけでなく身体能力も韓国が常に上。長いボールを放り込まれて1対1の追い駆けっこをしても当然勝てず、全速力で走ってボールをコントロールする技術も彼らの方が長けてたので、スピードあるサイド攻撃からクロスをいとも簡単に上げられて左右に振り回されました。いくらクリアしても激しいプレスに網にかかるようにボールを奪われ、同じ事をしつこく何度も繰り返されてやがて根負けしてやむなく失点。そして韓国戦に負けると監督が辞任する事が多く、まさに“監督の命日”のような感じでした。

日韓戦の通算対戦成績も11勝36敗20分(PK戦は引き分け扱い)ですから、苦手にしているのは当然かもしれません。U-20世代だと結構負けてます。ただし、オフト監督が就任した1992年以降の成績は5勝5敗9分と互角の成績です。また、ACLの日韓のクラブ同士の対決でもほぼ互角です。なので、若いサッカーファンの方は、韓国に対して必要以上に苦手意識を感じる、年上の世代の人の感覚を不思議に感じるのかもしれません。まあこれに関しては、世代間のギャップがあるのですから当然でしょうね。ちなみに私の場合は、日本のサッカーが最後に苦しんだ1980年代に少年時代を過ごし、Jリーグが出来た頃は成人に近かったです。なので、韓国に対しては少年時代に苦手意識を植え付けられたので、互角に近い今でも少しコンプレックスがあります。



以前に日本サッカーの歴史を調べましたら、日本が過去に国際Aマッチで複数回対戦経験がある国で、戦った試合を全て負けている国が4つあることが分かりました。それはアルゼンチン(6戦全敗)、クウェート(3戦全敗)、ハンガリー(2戦全敗)、そして今回取り上げるイスラエル(7戦全敗)です。なお、旧ソ連とは通算3戦全敗ですが、協会を継承したロシアの成績でカウントしてますので、通算で4戦して1勝3敗になります。

対アルゼンチン戦は日本が初めてW杯に出場したフランス大会で対戦したり、ジーコ監督時代には3度も対戦しているなど、初対戦の1992年以降は頻繁に対戦してます。当然、実力的に差があるのでこの結果は妥当でしょう。意外にも過去にW杯優勝経験のあるブラジル、フランス、イングランド、イタリア、ドイツに対しては、勝利した事はありませんが引き分けた事はあるので、全敗は逃れてます。また過去3度の敗戦が全て公式戦のせいなのか、クウェートに負けると監督の首が飛んだり、チームの方向性の見直しを余儀なくされるなど、日本にとっては悪いイメージのある相手であり、隠れた天敵とも言えます(なお、対ハンガリー戦は全て親善試合です)。

そして最もたくさん負けているイスラエルの場合はかなり特殊の相手です。というのも、イスラエルと対戦したのは1973年から1977年の4年間だけです。イスラエル戦は今から30年以上前の私が生まれた頃の話なので、正直言って私もこの国に苦手意識は殆ど感じませんし、過去の意外な対戦成績を見ても今いちピンと来ません。映像でも見た事がないので、なおさら実感が沸かないです。ましてや、現在欧州連盟(UEFA)に所属しているイスラエルが、かつてアジア連盟(AFC)に所属していたのが不思議に感じるくらいです。それこそは、今の若い人達が韓国に対して、特に苦手意識を感じていないのと一緒なのかもしれません。でも色々調べてみましたら、当時の代表選手やサッカーファンにとっては、イスラエルの存在は韓国以上に巨大な壁でした。



イスラエルは、1970年メキシコW杯にはアジア予選で豪州を下して「アジア代表」として本大会に出場しました。本大会では1次リーグで敗退するものの、イタリアとスウェーデンには引き分けてます。五輪では、1968年メキシコ五輪と1976年モントリオール五輪(アジア予選で日韓両国に完勝)にもアジア代表として出場し、両大会ともベスト8に進出するなど実績があります。また、日本で1965年と1971年に開催されたアジアユース選手権(現・AFC U-19選手権)でも優勝するなど若手も強く、クラブレベルでも実績がありました。なので、当時のイスラエルは間違いなくアジアのサッカー強国でした。

当時の代表のGKだった田口光久さん(とんねるずの「生ダラ」のPK対決コーナーで、木梨憲武さんのパートナーとして有名なGK)は、かつて14年前のNumber373号のインタビューでも「イスラエルは同じアジアと言っても、肉体的にはヨーロッパ人。体が大きい割にはイングランドのような単調なサッカーではなく、中盤でキチッとボールをつなぐモダンなサッカーをやっていましたよ。力は向こうの方がはっきりと上でした。」と語っていました。田口さんの発言からしてもイスラエル代表は人種・民族的にも、欧州スタイルのチームであることが想像できます。

日本は自国開催だった1964年東京五輪に向けた強化策が実を結んでメキシコ五輪で銅メダルを獲得しましたが、限られた予算の中でごく少数の選手のみを集中強化した結果だったので若手が全く育っておらず、チームのピークだったメキシコ五輪以降は当然低迷します。それも予想外の長い期間に渡って低迷が続きました。日本の低迷もあり、実力的に差が開きつつあった両国でしたが、日本がイスラエルを苦手にしていたのはなにもピッチの中だけではありませんでした。

それは、イスラエルが政治的に取り扱いが極めて難しかった国であったのが理由です。言うまでも無く、イスラエルとアラブ諸国との政治的・宗教的な激しい対立が原因です。特に、中東諸国はイスラエルとの対戦が決まると、政治的理由で対戦を拒否する事態が多発しました。1971年の東京でのアジアユース選手権の準々決勝でもクウェートが対戦を拒否。また1974年のテヘランアジア大会では、あらゆる競技でアラブ諸国や中国や北朝鮮などがイスラエルとの対戦拒否が連発して、大会運営に大混乱が生じました。

サッカーも同様で、イスラエルの2次リーグの対戦相手だったクウェートと北朝鮮が対戦拒否して競技の運営が混乱。結局この2試合はイスラエルの不戦勝扱いとなり、ビルマに勝った1勝のみで1位が確定して決勝戦に進出。なお、地元イランとの決勝戦では、オウンゴールで0-1で敗れるものの準優勝しました。ちなみに、開催国のイランは、当時は親米のパーレビ王朝だったので対戦拒否はしてません。ただし、現在のイランの国家体制だと、間違いなく対戦拒否することが濃厚です。

なので、イスラエルが自国から遥かに遠い日本・韓国と同じ東アジアに組み込まれたのは政治的・宗教的な理由であり、言わば無理やり押し付けられた格好でもありました。その結果、日本は1970年代には公式国際大会に8大会(W杯予選と五輪予選は各2回、アジア大会3回、アジア杯予選1回)参加してますが、イスラエルとは4大会に渡って対戦します。それは日本サッカーが凋落した、1970年代の屈辱の歴史と見事なまでに符合します。そしてイスラエルは常に日本の行く末を阻み、ピッチの外でもあらゆる苦しみを味合わされる事になります。



日本のイスラエルとの全対戦成績をまとめてみました。

1973/05/16 ●1-2    西ドイツW杯アジア1次予選 (@韓国・ソウル/ソウル運動場)
1973/05/26 ●0-1(延)       〃          (@韓国・ソウル/ソウル運動場)
1974/09/07 ●0-3     テヘランアジア大会(@イラン・テヘラン/アリ・アメール・スタジアム)
1976/03/31 ●0-3     モントリオール五輪アジア最終予選(@韓国・ソウル/ソウル運動場)
1976/04/11 ●1-4          〃               (@イスラエル・テルアビブ/ラマト・ガン・スタジアム)
1977/03/06 ●0-2     アルゼンチンW杯アジア1次予選(@イスラエル・テルアビブ/ラマト・ガン・スタジアム)
1977/03/10 ●0-2          〃              (@イスラエル・テルアビブ/ラマト・ガン・スタジアム)



なんだか、イスラエルとは対戦を重ねる度にスコアが悪化してますね。7試合の合計スコアだと、2得点17失点の散々な結果に終わってます。ただ、スコアばかりに目を奪われがちですが、よく目を凝らして見るとイスラエル戦には大きな特徴があります。それは、イスラエル戦は過去に1度も日本で開催された事が無いことです。この当時の日本サッカー協会は、財政力は現在のように裕福ではありませんでした。ましてや、FIFAの理事を有するような政治力も有してませんでした。

また、この当時の世界大会のアジア予選のシステムは、「ホーム&アウェー方式」ではなく、「集中開催方式」が主流でした。1960年代後半から1970年代半ばにかけて実施された世界大会のアジア予選は、政府が音頭を取って強化していた韓国に開催権を再三奪われてしまい、日本はその都度アウェーの洗礼を味わう事になります(1969年10月のメキシコW杯1次予選、1971年9月のミュンヘン五輪予選、1973年5月の西ドイツW杯1次予選の3大会を連続で韓国が開催)。



イスラエルとの初対戦は1973年5月に韓国のソウルで開催された西ドイツW杯1次予選です。この予選は、現在では考えられないような奇妙なシステムを採用してます。それは1次リーグの前に「組分け予備戦」というのを実施した事です。通常の国際大会なら過去の実績を考慮してシード順を作成した上で抽選で振り分けますが、この予選では抽選の代りに参加チームが試合を行って2つの組に振り分けしました。もちろん、この試合は予選の結果には全く反映しません。だが、当初予選にエントリーしていたフィリピンが棄権したので参加チーム数が7と奇数になり、1チーム余分が出たのにも関わらず、予定通りに組分け予備戦を実施。言うまでも無く、地元の韓国が余った1チームに割り当てられたので、組み分け予備戦には出場してません。

更に、この予選方式が不可解なのは、韓国は組分け予備戦の結果が決まってから、好きなグループを選択できた事です。ライバルを試合させておきながら、韓国は高みの見物で各国の実力をじっくりと見極めた上でグループを選べるのだから、極めて不公平であり露骨な地元贔屓のシステムです。しかも、入場料までしっかりと稼げます。韓国は、前回メキシコ大会のアジア代表で下馬評が一番高かったイスラエルを最も警戒してました。なので、イスラエルと準決勝で対戦することを嫌って、韓国はあえて同じ組に入る事を選択しました。

日本はこの組み分け予備戦でイスラエルと対戦。1-2と敗れるものの、内容的には健闘しました。そして、1次リーグを順当に勝ち抜いた両者は準決勝で再戦します。試合数が1試合少なく、休息日も1日多い日本が日程的に有利でしたが、多数の負傷者を抱えてました。また、この頃の日本は、W杯よりも五輪を重視していた時代だったので、慢性的な資金不足の日本協会は、このW杯予選をモントリオール五輪予選の準備と位置付けており、選手団もべテランと若手を混ぜた編成でした。その為、ただでさえ選手層が薄い日本は、怪我も相まって苦しい布陣を余儀なくされました。勝負の掛かったイスラエルとの準決勝は、分厚く守りを固めてカウンター攻撃に一縷の望みを託しました。

前戦に続いて健闘した日本は、後半12分に荒井公三のFKから釜本邦茂が胸でトラップをして得意の左45度の位置でシュート。しかし、左足首を捻挫していた事が響いてしまい、好機を逸します。なんとか粘り強く戦って延長戦にまで縺れ込みますが、延長前半5分に右サイドから駆け上がったビンジンがクロスを入れて、それをオナナが滑り込んで日本ゴールに押し込みイスラエルが先制。結局、挽回できなかった日本は、試合終了の笛と同時に予選敗退が決定しました。なお、決勝戦は延長の末、若き車範根が決勝点を決めて韓国が最終予選に進出。ただ奇妙なシステムの為、韓国より1試合余計に戦ったイスラエルは、2試合連続の延長戦もあって疲労困憊し、主審の判定にも嫌われたのも痛恨でした(なお、このアジア予選を勝ち抜いて、W杯本大会に出場したのは豪州です)。



翌1974年9月、イランのテヘランで開催されたアジア競技大会の1次リーグで両者は再び対戦。C組に入った日本は、初戦のフィリピン戦を釜本のハットトリックの活躍もあって4-0で快勝。次戦のマレーシア戦は吉村大志郎(ネルソン吉村)の得点でなんとか追いついて1-1のドローに持ち込み、最終戦のイスラエル戦に望みを繋ぎます。イスラエルは、日本戦を残して1次リーグ突破を決めており、日本も引き分けでも1次リーグは通過できる有利な状況でした。だが、イスラエル戦の前に行われた試合で、マレーシアがフィリピンに11-0で圧勝したので、日本はイスラエルに負けると得失点差でマレーシアに抜かれて1次リーグで敗退する状況でもありました。

相手も消化試合だったので日本は守備を固めて臨みました。しかし、前半10分に釜本のヘッドが右に逸れて好機を逃したのが、のちに大きく響きます。後半10分にはダムディのフェイントに揺さぶられてフェイゲンバウムに先制点を許してから完全に守備が崩壊。17分には川上信夫のクリアミスで失点してから一方的な展開になり、41分にはダメ押しされて0-3と惨敗し、日本は1次リーグ3位に終わって2次リーグ進出を逃します。アジア大会では2大会連続ベスト4に進出していた日本は1962年のジャカルタ大会以来、3大会ぶりに1次リーグ敗退の失態を犯しました。アジアのベスト8にすら残れなかったこの悲惨な結果は、オイルマネーを背景とした中東勢の台頭もあったとはいえ、アジアにおける競争力の低下と世代交代が低調な事が浮き彫りになりました。そして、興行色が強く無計画な協会の日程の作成が、更なる弱体化に拍車を掛けている事も露呈しました。



しかし、日本は低迷を打開すべく手を打ちます。それはモントリオール五輪出場を狙って、念願の五輪アジア予選の地元開催の誘致に成功した事です。予選第3組は、開催国の日本の他に、韓国、台湾、南ベトナム、フィリピン、イスラエルがエントリーし、首位のみが五輪出場権を獲得出来ました。だが、当時の日本は日本赤軍など極左過激派が、国内外でのテロ活動が激しかった時代でした。そしてミュンヘン五輪の「黒い9月事件」の被害の当時国でもあった、イスラエルの安全を保障できなかった事情もあり、内外の情勢を踏まえて外務省や警備当局も選手団の入国を認めようとしませんでした。更に、1975年9月末の昭和天皇・皇后両陛下の訪米を阻止しようと、過激派のテロ事件が多発したことも追い討ちになりました。協会は、予選の全てのイスラエル戦を無観客試合の実施を検討をしましたが、警備や費用の関係で断念。結局、予選1ヶ月前の1975年9月18日、せっかく獲得した自国での開催権の放棄を余儀なくされました(他に台湾呼称問題もあります)。

結局、五輪予選は翌1976年春に延期。予選方式も、セントラル方式から1次予選と最終予選の2段階方式に変更(なお、最終予選はH&A方式)。順当に日本、韓国、イスラエルが最終予選に進出(なお、イスラエルは南ベトナムが棄権したので不戦勝)。しかし、セキュリティ問題が未解決なのを理由にイスラエル戦は日本での試合を開催出来ず、なんとこの試合を中立地のソウルで実施する事になりました。普段は日本に対して罵声やブーイングを浴びせ、時にはグランドに物を投げつける韓国人も、この試合は日本がイスラエルに勝利した方が自国に有利に傾くので、試合開始時間が平日の昼間だったにも関わらず、試合会場のソウル運動場には2万人もの観客が駆けつけました。しかも「カマモト、カマモト!」と大声援を送って、“ホーム”の日本を一生懸命応援したそうです。ただ、慣れない応援も虚しく、序盤から防戦一方だった日本は、前半9分にダムディ、16分にペレツに立て続けに奪われてしまい、結局この試合を0-3で完敗し、1試合を残して2大会連続の予選敗退が決定しました。

11日後、テルアビブに乗り込んで敵地での試合に挑んだ日本は、既に消化試合だったこともあり、精神的重圧から解放された日本が多くのチャンスをつくって意地を見せました。しかし、地元でのこの試合に勝てば五輪出場が決定するイスラエルに先制を許してからは、地力の差が顕著になります。結局、1-4で大敗し、地元のイスラエルが評判どおりの強さを発揮し、2大会ぶりに五輪出場権を獲得(本大会ではベスト8に進出)。日本は、この最終予選では4戦3敗1分で最下位に終わり、3得点11失点の惨敗。企業アマで行き詰った日本はピッチの内外の実力で、セミプロのイスラエルや政府主導で強化された韓国の強豪国に対して全く太刀打ち出来ず、無抵抗で白星を献上する“咬ませ犬”のような存在に堕ちてしまいました。



翌1977年春に行われたアルゼンチンW杯アジア1次予選。日本は、イスラエル、韓国と同じ第2組に入り、首位のみが最終予選に進出できました(なお、同組に入っていた北朝鮮は政治的理由で棄権)。当初はホーム&アウェー方式でしたが、やはりセキュリティ問題が未解決なのを理由にイスラエル戦はホームで開催出来ず、今度は敵地テルアビブで戦う羽目になりました。ただでさえ低迷していた日本は、アジアのトップクラスだったイスラエルと韓国に対して実力差に開きがあったのにも関わらず、ホームで試合する権利を奪われたら、勝算がさらに薄くなるのは当然です。また、このイスラエルとの第1戦では、大黒柱の釜本が右足ふくらはぎに肉離れで負傷して欠場したことも、大きく響きます。日本は奥寺康彦、碓井博行に、まだ大学生だった西野朗(現・ガンバ大阪監督)の若い攻撃陣に命運を託すことを余儀なくされました。

前年のモントリオール五輪最終予選と同じ会場でもある、ラマト・ガン・スタジアムでの第1戦では、日本はイスラエルの攻撃を辛うじて耐え忍びましたが、前半終了間際にマチネス、浮き足立った後半12分にもバールに奪われてしまい0-2で完敗。背水の陣となった、4日後の第2戦(なお、この試合は日本のホームゲーム扱い)でも、釜本は怪我の影響で先発出場は出来ませんでした。第1戦と同様に、イスラエルが立ち上がりから日本に対して徹頭徹尾に攻勢をかけましたが、守りに徹して少ない好機を窺った日本は、西野が相手DFを外してGKをを誘い出して無人のイスラエルゴールにシュートするビッグチャンスがありましたが、不運にもバーを越えてしまいました。

そして、第1戦の試合展開と同様に、前半残り5分前にマチネスに先制点を奪われます。追い詰められた日本は後半になって釜本を投入するものの、後半9分にペレツに決定的な2点目を奪われました。結局、この試合を0-2で落とした日本は、東京での韓国戦を待たずに、たった2試合でアルゼンチンへの道があっけなく断たれました。なお、日本が入った1次予選第2組を突破したのは2勝2分の韓国です。また、本大会のアジアの出場枠がたった1つしかなかった最終予選(イラン・韓国・クウェート・豪州・香港の5ヶ国が参加)を勝ち抜いたのは、当時アジア最強だったイランです。

前年のモントリオール五輪最終予選と全く同じ相手に対して、4戦3負1分で最下位に終わり、無得点5失点の無残な結果でした。メキシコ五輪銅メダルの遺産を完全に食い潰した1970年代半ばのこの時期こそが、日本サッカー界にとって史上最悪の暗黒時代でした。ちなみに、形式的にホーム扱いだった第2戦目の試合の入場料収入は日本に渡されてます。また、日本の選手は、この頃はイスラム圏用とイスラエル用の2通のパスポートを用意していたほどでした。このように酷い扱いを余儀なくされても、まともに抵抗すら出来なかったのは、協会の政治力&経済力が持ち合わせて無かったことが原因です。そして、当時の日本がサッカー自体に人気が無ったことも理由だと思われます。



国内リーグがプロ化してサッカーが国民に浸透している現在だったら、政治の壁を乗り越える為に、協会が政治力などあらゆる手段を駆使してでも、自国開催にこぎ着けていると思われます。政府もセキュリティを理由にスポーツ選手団の入国を安易に拒否したら、テロに屈する事を意味します。なので、国際社会に対して間違ったメッセージを送らない為にも、それなりの対策を施すでしょう。おそらく、国家の威信に賭けでも厳戒体制を敷いて、意地でも観客を入れて試合をすると思います。それに日本は、2016年五輪や2018年or2022年W杯の招致を目指してますので、セキュリティに問題があったら大きな国際大会を開催する資格が問われる事になります。また、やすやすとホームでの試合を安易に放棄したら、国民が黙っているとは思いませんから。

30年以上前にカモにされて7連敗したイスラエルと日本がいま対戦したら、一体どんな試合になるのか、私は非常に興味があります。日本は1993年にJリーグを創設し、アジアでもトップのリーグへと成長。代表チームもW杯出場を3度果たし、アジア杯も3度優勝。各世代の代表チームも世界大会出場の常連になりました。一方、イスラエルはUEFAに所属した初期の頃は、欧州では明らかにお荷物扱いの存在でした。UEFA加入後に初参加した米国W杯欧州予選第6組では、1勝6敗3分と最下位に沈みます。しかし、イスラエルは1993年10月13日、敵地での強豪フランス戦では、次回W杯開催国に3-2とロスタイムで下して痛恨の黒星を与えました。フランスはこの敗戦がのちに大きく響き、1ヵ月後のホームでのブルガリア戦では、エミル・コスタディノフに逆転弾をロスタイムで浴びてしまい、地獄を味わいます。俗に言う「パルク・デ・プランスの悲劇」です。

しかし、イスラエルはその後は順調に成長し、クラブレベルではマッカビーテルアビブなどが、欧州チャンピオンズリーグでも1次リーグに出場して健闘してます。代表チームもW杯や欧州選手権の本大会出場はまだ無いですが、プレーオフ進出圏内に位置するなど、著しくレベルアップしてます。若手の世代でも、2007年には北京五輪欧州予選を兼ねたU-21欧州選手権では、厳しい予選を勝ち抜いて決勝大会に進出する大健闘をしました(ただし、1次リーグで敗退して北京五輪の出場権は獲得出来ませんでした)。現在リバプールで活躍している、高速ドリブルを売りにしているヨッシ・ベナユンが在籍するなど、トップ選手も欧州のリーグで活躍してます。日本の成長とともにイスラエルの環境の変化も実感するかもしれません。それだけに両国の8度目の対戦は一体どうなるのか本当に興味が尽きないです。



代表チームというのは歴史を背負って戦うので、たとえ選手本人に対戦経験が無くて相手のことをよく知らなくても、やはり過去の歴史を心のどこかに刷り込まれていると思うので、いざピッチの中で戦ったら、もしかしたら知らないうちに意識しているのかもしれません。それにしても、現在日本は、イスラエルと日本国内で親善試合で対戦することが可能なのかも気になります。やはり警備やそれに伴う費用などの関係で無理なのでしょうか? まさか欧州の第3国でしか対戦出来なかったりして(苦笑)。

イスラエルは政治的な理由で1974年9月にAFCから除名され、暫くの間大陸連盟未所属のまま活動。その後、オセアニア連盟(OFC)に暫定メンバーとして活動した後、1992年からUEFAに加盟して現在に至ってます。なので、日本が公式戦で対戦する可能性があるのはW杯本大会など世界大会だけなので、いつも彼らのW杯予選の結果が気になります。余談ですが、もしテルアビブの悲劇が無かったら、日本はイスラエルとひょっとしたら日韓W杯で対戦していた可能性がありました。もし実現していたら、日本はイスラエルと史上初めて地元で戦うことになっていたので、少し残念でした。

〔記録は2009年3月22日現在です〕

【参考資料】読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、Number373号
        後藤健生著・『日本サッカー史・日本代表の90年』(双葉社刊)
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