うんどうエッセイ「猫なべの定点観測」

おもに運動に関して、気ままに話したいと思います。
のんびり更新しますので、どうぞ気長にお付き合い下さい。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

名勝負数え歌Vol.5 「畳の上の番狂わせ」

2009年07月18日 | 名勝負数え歌
◆北京アジア大会・柔道男子95㎏超級準決勝
(1990年9月28日 @中国・北京)

ファン・ジェギル(北朝鮮) 合わせ技4分50秒 小川直也(日本・日本中央競馬会)



柔道で日本人選手が北朝鮮の選手との対戦で最も有名だと思われる試合は、おそらく1996年のアトランタ五輪女子48kg級決勝の田村(現姓・谷)亮子vsケー・スンヒではないのでしょうか。田村はバルセロナ五輪決勝でセシル・ノバック(フランス)に負けて以来84連勝を記録し、1993年(カナダ・ハミルトン)&1995年(千葉・幕張)の世界選手権で2連覇をしていましたので、下馬評では田村が圧倒的に有利でした。田村は日本選手団の旗手を任せられていたことも、金メダル獲得の期待の大きさを感られじます。

しかし、主催者推薦で出場したケーはこの大会が主要国際大会のデビュー戦だったので全く情報が不足しており、おまけに柔道着を左前に着る奇策(現在は反則)を講じました。また、身長が11cm高くて力強かったケーとの組み手争いに、田村は攻め倦んで苦戦を強いられます。更に五輪金メダルのプレッシャーが圧し掛かり、終始自分の柔道を全く出来ず、終盤に効果を2つとられてしまい不本意な内容で無念の優勢負け。おそらく、この一戦を見て、多くの国民が北朝鮮の柔道家に対して不気味な気分を抱いたと思われます。

だが、私はこの一戦の6年前に、世界に誇る現役の日本人世界王者が北朝鮮の無名な柔道家に衝撃的な敗北を喫した試合を見たことがあります。なので、アトランタ五輪で北朝鮮の16歳の無名な女性柔道家が着実に勝ち上がって来るにつれて、既視感を感じてとても嫌な予感がしたのを今でも覚えています。そして、その試合こそが、現在プロの格闘家として活躍している小川直也が今から19年前に北京アジア大会でファン・ジェギルと戦った一戦です。


                           *  *  *  *  * 


小川は1987年の世界選手権(西ドイツ・エッセン)では、負傷した正木嘉美の代役で出場した無差別級でいきなり優勝。この時の小川は柔道を始めてから僅か4年。19歳でのチャンピオンは当時の史上最年少でもありました。しかし、翌年のソウル五輪の選考会を兼ねた全日本体重別選手権(1988年6月12日@福岡市民体育館)の決勝戦では、斉藤仁に小内刈りで効果を取られて優勢負けをした為、ソウル五輪の代表権を逃します。この一戦は、長年怪我で苦しんで、その間に正木や小川らライバルが台頭して窮地に立たされた斉藤が意地と執念を見せた一戦でもありました。なお、斉藤は、日本柔道陣が総崩れ状態だったソウル五輪では殿を務め、1985年の世界選手権(ソウル)で反則紛いの技で大怪我をさせられた趙容徹(韓国)を準決勝で優勢勝ちして3年越しの復讐を果たし、その勢いで決勝戦のストール(東独)にも優勢勝ちし、執念の金メダルを獲得してロス五輪に続いて連覇を果たしました。

その後、小川は1989年には飛躍の時を迎えます。4月の全日本選手権では初優勝。小川は全日本選手権をこの年以降5連覇を果たし、通算7度制覇します。そして、10月の世界選手権(ユーゴスラビア・ベオグラード)では95kg超級と無差別級を制して2階級制覇を果たします。しかも、8試合全て一本勝ちの文句の無い内容でした。世界選手権での2階級制覇は、1981年のマーストリヒト大会(オランダ)での山下泰裕以来の快挙でした。翌年の1990年には小川はJRA(日本中央競馬会)に就職。4月の全日本選手権では、決勝戦で前年の世界選手権71kg級王者の古賀稔彦を破って2連覇を達成。この時期の小川は文字通りに世界最強でした。2年後のバルセロナ五輪も小川の金メダルは確実視されてました。そして、この年最も大きな目標である、9月の北京アジア大会を迎えます。

1980年代以降、モスクワ五輪ボイコットや名古屋五輪の招致失敗など日本スポーツ界は低迷の真っ只中でした。アジア大会も同様に、1970年代までは日本が圧倒的に金メダルを獲得を量産してましたが、中国の参加や韓国の国を挙げた強化で日本は劣勢に立たされ、1982年のニューデリーアジア大会では遂に中国に金メダル争いで敗れてアジアの盟主の座を明け渡します。それどころか次回の1986年のソウルアジア大会では中国に大きく引き離されただけでなく、地元韓国にも惨敗して3位に転落。日本としては、この北京アジア大会ではせめて韓国に金メダル争いで勝って巻き返したい所でした。日本は、絶対的な金メダル候補だった小川に日本選手団の主将を任せたのも、期待の大きさの表れでもあります。



大会は日本選手団が全般的に苦戦を強いられる中、9月28日に柔道競技は初日を迎えます。小川の登場する男子95kg超級は大会の初日に行われました。柔道競技だけでなく日本選手団全体に活気を与えるためにも、なんとしても主将である小川に優勝してもらいたい所でした。だが、この日の小川は心身ともに明らかに精彩を欠きます。競技開始前に組み合わせが決まりましたが、小川は他の選手より1試合多い事への不満を漏らしたり、「大柄の対戦相手は苦手」など愚痴をこぼします。小川の大学の先輩でもある、日本代表の上村春樹監督(モントリオール五輪無差別級金メダリスト)も、のちに「精神的なバランスを欠いているな」と語るほどでした。相手が格下ということもあり、1・2回戦は楽勝で簡単に準決勝へ進出。準決勝の相手が今回取り上げる北朝鮮のファン・ジェギル戦でした。

ファンは身長が197cm、体重が130kg。小川も長身でバランスの取れた体格でしたが、ファンは小川より身長が4cm高い巨漢でした。1985年の神戸ユニバーシアード95kg超級で優勝(ちなみに大会金メダル第1号)や1990年のモスクワ国際大会3位になった実績があるとはいえ、世界的には全くの無名選手。誕生日は1959年5月9日。職業は工場労働者。既婚で趣味は将棋以外は経歴が全く不明でした。ただし、小川はファンとは1度だけ対戦経験があります。1988年7月にシリアで開催されたアジア選手権準決勝で両者は対戦し、この時は小川はファンを支え釣り込み足で一本勝ちしてます。過去に一本勝ちで勝った経験があるので、この試合も誰もが楽勝と思われました。だが、試合は予想外の展開になります。



試合開始当初から小川は攻め続けて優勢に試合を展開。ファンは小川の攻めを4分近く耐え続けます。ただ、小川は巨漢を相手に明らかにスピードを欠き、攻めが中途半端で技もキレを欠きました。両者ポイントが無いまま試合は終盤を迎え、小川は前回ファンを倒した技である、支え釣り込み足を仕掛けます。だが、不用意に仕掛けたこの技を、虎視眈々と待ち構えていたファンが朽木倒しで小川の足をすくい、体を崩した小川は浴びせ倒しで技ありを奪われます。小川は必死にファンの体を返そうとしたが、ファンは巨体を活かして寝技に持ち込みます。ファンは小川を横四方固めから袈裟固めと押さえ込み、大番狂わせの合わせ技でまさかの一本勝ちで決勝進出。小川はソウル五輪選考会で斉藤仁に負けて以来、実に2年3ヶ月ぶりの敗戦を喫しました。

ちなみに当時高校生だった私は、学校から自宅に帰って郵便箱に入っていた夕刊の見出しを見てこの試合の結果を知りましたが、当時の小川は世界最強の柔道家だと信じてましたので、なにかの間違いだと思い誤報だと思いました(笑)。その後、テレビで試合を見ましたけど、これは田村亮子がアトランタ五輪でケー・スンヒに敗れたたぐいのような不完全燃焼の内容ではなく、弁解無用の力負けの惨敗だったので改めてショックを受けました。



強い執念と集中力が著しく欠如した小川は「油断もあったし、スタミナ不足で集中力を欠いた」と釈明。支え釣り込み足を掛けた場面も、「掛からないんじゃないかと、中途半端な気持ちで逃げ腰の気持ちでした」と引きつった表情で言葉に覇気が無く述べるなど、ショックは隠し切れませんでした。「こんな気持ちが入ってない小川を見たのは初めて。相手に負けたのではなく自分で墓穴を掘った」と同じくショックを隠しきれなかった上村監督は、あまりにも不甲斐なかった後輩を嘆く始末。その後、小川はファラヒ(イラン)との3位決定戦こそ上四方固めで勝利しますが、本来出場予定だった無差別級は前年の世界選手権で補欠だった関根英之にその座を譲る羽目に陥るほど、心身ともに甚大なダメージを被りました。(無差別級は小川の代役の関根が優勝)

対照的に、小川に大番狂わせで勝利したファンは、決勝戦ではバドマニアムブギン(モンゴル)に攻め続け、注意のポイントで優勢勝ちし、殊勲の金メダルを獲得しました。選手団の主将がまさかの惨敗を喫した影響が直接あった訳ではありませんが、日本が獲得した金メダルは史上最低の38個で3位に終わり、183個を獲得した首位の中国や54個を獲得した韓国にまたしても水を開けられる格好となりました。以後のアジア大会では地元開催だった1994年の広島大会を除き、中国と韓国に次いで3位が定位置となりました。

小川はこれまで柔道を始めて7年半でした。周囲はあまりの出世の早さに、指導者が不在で進歩が妨げられると心配されましたが、不安が大事な場面で的中した格好となりました。これまでの対戦相手や練習相手は自分より小柄が多かったせいなのか、押さえ込まれる柔道を知らない小川は、防御に回った時に成す術を無くしてしまう弱点を曝け出す無残な結果となりました。そして、この惨敗はのちに大きく尾を引く事になります。



翌年のバルセロナで開催された世界選手権では、小川は無差別級ではオール一本勝ちで優勝して3連覇を果たしますが、95kg超級準決勝ではセルゲイ・コソロトフ(ソ連)に押さえ込まれて一本負けを喰らい完敗。惨敗したファン戦のダメージが解消出来てないどころか、今度は安定感の無さを晒します。2年前の世界選手権で見せつけた絶対的な実力が、もはや無い事は誰の目にも明らかでした。そして、バルセロナ五輪の決勝戦では、前年の世界選手権の決勝戦で倒しているダヴィド・ハハレイシヴィリ(EUN・グルジア)にあっけなく一本負けで敗れてしまい、金メダル獲得はなりませんでした。

1994年の全日本選手権の準決勝では大学の後輩の吉田秀彦に不覚の判定負けをして連覇が5で途絶えます(なお、吉田は決勝戦では金野潤に判定負け)。世界選手権は1993年のハミルトン大会と1995年の千葉・幕張大会はともに3位に終わります。小川にとって柔道人生の最後の大会となったアトランタ五輪では、95kg超級の準決勝でフランスのダビド・ドゥイエ(のちに、シドニー五輪の100kg超級決勝の篠原信一戦で誤審で物議を醸す事になる選手)に優勢負けし、3位決定戦でもドイツのフランク・モラーに払い巻き込みで一本負けして5位に終わりメダルを逃します。結果的に不覚の惨敗を喫したファンとの一戦こそが、小川の柔道人生の命取りとなりました。



柔道家時代は寡黙で口数の少ない印象で知られた小川は、プロ転向後は積極的なパフォーマンスであそこまでイメージ・チェンジするとは思わなかったです(笑)。
一方、小川に勝って殊勲の大金星を挙げたファンは、母国が閉鎖的な鎖国体制ということもあって国際大会にあまり出ておらず、北京アジア大会以降はこれといった実績もなく、典型的な「一発屋」に終わりました。現在は達者で暮らしているのかとても気になります。



【今回の参考文献】毎日新聞、朝日新聞
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 昨日のボクシング3大世界タイ... | トップ | TBSの「20世紀スポーツ名勝負... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

名勝負数え歌」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事