少年の日々

はじめて考えるときのように

猫と家と時間

2006年03月23日 | Weblog
うちの猫は実家の改築とともに年齢を少しばかり引き上げられてしまったらしい。

人間に換算すると既に80は下らない年ではあるけれど、
庭のイチョウを階段がわりに外から二階のベランダに登り、
張りのある(それでいて少し年齢を感じさせる)声で
自分の存在を家の者に知らせていたミィはもういない。

イチョウの木はなくなり、そればかりか住みついてから
毎日寝食をともにした家が跡形もなくなっている。

もしかしたら、僕以上にミィは喪失感をその小さな身体に受け止めているのかもしれない。


今の僕は様々な選択肢の中から選び、選ばされ生きてきた。
彼女はよちよちと妹の後をついて我が家に現れてから、
いったいどれだけのものを選んできたのだろうか。
僕らはどれだけのものを彼女に与えてきたのだろうか。

使い古された言葉、使い回された言葉で状況を把握することはできないし、
それを使い表現することは恥ずべき行為かもしれないけれど、
時間が、人間が選び取り、生き残った現存する言葉を敢えて使うなら、

『猫は家につく』

という言葉を、今、痛切に感じざるを得ない。

自分のアイデンティティたるものを失った時、
猫に限らず、多くの生き物たちは困惑し、戸惑い、
自分がもとあった姿を失う。
記憶は信憑性をなくし、時間の流れは意味を放棄する。


ミィはただそこにいる。

ソファの上で眠り、時又飯を食べに起き上がり、排泄を済ませると
再びソファに戻り、眠る。

彼女は時間という感覚を持たなくなってしまったのかもしれない。
自分が過ごしてきた記憶を家と共に失ってしまったのかもしれない。

それでも、僕がミイから与えられた時間はここにある。
新しい家が出来、彼女がその家をどう捉えるかわからない。
もし、その家が、新しい家が、過去の家と地続きであり、
彼女の時間が再び動き始めるのなら、僕は嬉しい。



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