ねこ吉のよしなしごと

どうでもいい事ばかり書いていますが・・・。すっかり備忘録になってます。

14回目の震災記念日です。

2009-01-17 14:21:01 | 思い出
あれから、もう14年も経ったんやナァ・・・。
ブログを書き始めて、毎年1月17日には地震に関係したことを書いてきた。

今日、改めて今まで書いたことを読み直した。地震の後片付けの話が多いナァと気づいた。
当日のことは、思い出したくなくて逃げてきたのだと思う。

あの日、たぬ吉は東京に出張して家にいなかったので、当時小学生の息子は、
ねこ吉の隣に寝ていた。
「ドォーン!」と言う音を聞き、爆発だと思ってとっさに息子を抱き寄せ、
その上から、箪笥2つが重ねて倒れ、その隙間に2人が閉じ込められた。

真っ暗な中、娘を呼んだけど、娘の部屋から、ねこ吉の部屋まで、いろんなものが倒れて
リビングのドアが開かず、「入れない!」と叫んでる。
ねこ吉は、必死で、
「箪笥に挟まって出られないから、誰か呼んできて!」と叫んだ。
娘が玄関のドアを開けて出て行ったみたいだった。

「お母さん、助けを呼んだよ。もうすぐ来てくれる。」と言って、
リビングのドアをこじ開け入ってくるまでの時間がどれだけ長く感じたことだろう。
閉じ込められることの恐ろしさ!
きっと10分たらずだったかも知れないけれど。

「ちょっとはマシでしょ。」といって、重い箪笥を助けの人が来るまで持ち上げてくれた。
あの子の何処に、あんな力があったんだろう。何かが乗り移っていたとしか思えない。

震災後、何日たった頃だろう。久しぶりにお風呂に入るために銭湯に行ったら、
娘の両膝に線のような大きな黒痣があった。
ここで箪笥を支えて助けてくれたんだナァと思った。

上の階の家族に助けられたねこ吉は、マンションの階段に放心して座っていた。

だんだん夜が明けて明るくなってくると、近所の風景は信じられないものだった。
小学校に避難したけど、人が一杯だった。
マンションの隣のスポーツセンターは無事だった。
そこならスイミングスクールの水があるので、トイレも使えると言う噂が流れ、
ねこ吉たち3人が行くと、センターには何故か和室があって何人かが避難してきていた。

ねこ吉がボンヤリしているうちに、娘は家の中から手当たり次第に服と、
ありったけの靴下を持ち、ねこ吉のメガネを探し、預金通帳など貴重品が入った袋を持ち、

「お母さんこれ持ってきたよ。家の鍵は閉めてきたから。」
と言った。

当時娘は中学3年生。受験生でインフルエンザにかかって学校を休んでいた。
何とか治ったので、「今日から学校に行こう。」と言う日の出来事だった。
普段わがまま一杯の娘が何と頼もしかったことか!

それから、冷蔵庫が吐き出して、床に転がっていた水や牛乳、バナナなどを運び、
毛布を引きずり出し、スポーツセンターの和室で夜を明かした。
ねこ吉は、怖くて家の中に入れなかった。

後日、娘にどうして冷静沈着に行動できたのか聞いたところ、

「避難訓練の時、まず揺れが収まるまで待つ。逃げるときは絶対裸足で
外に出てはいけない言われていたもん!」

と千葉の小学校で何度も地震の避難訓練したことを話してくれた。千葉の教育に感謝!

たぬ吉もねこ吉も、すごいあわて者。とくにねこ吉はうろたえる。
娘は、誰に似たんだろう?

娘は最初スリッパを履いて、助けを呼びにいき、落ち着いてから、靴を履いたようだった。
家の中は割れたガラスだらけで、土足で入らなければならなかった。

たぬ吉とは、電話連絡がなかなか取れず、やっと宿泊先に電話がかかったときには、
たぬ吉はチェックアウトしていた。
ホテルの人が、ただならぬねこ吉の様子を察して、たぬ吉の会社の東京支社に連絡を
取って家族の無事を伝えてくれたらしい。

新幹線は名古屋までしか動いていなかったらしい。その後乗り継ぎ大阪へ。
大阪の会社の前から、タクシーに乗り神戸へ。
神戸の目を疑うような惨状に驚きながら国道2号線を走っていたら、芦屋と神戸の境辺りで
「これ以上はいけません。お客さん降りてください。」とタクシーを降ろされたって!
たぬ吉は、ひたすら歩き変わり果てたマンションに着いたのは、
たぶん18日の午前5時ごろ。

余震が怖くて小学校の校庭の隅っこで、毛布に包まっていたねこ吉たち3人と、
たぬ吉とが、やっと出会った。

ここまで書いて、ねこ吉は疲れがどっと出た。
震災のことを書くということは、いろいろ大変だったことを思い出して反芻してしまうんやろね。