いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

市民感情と判例。 a feeling of citizen and a judical precedent

2015-02-06 19:32:52 | 日記
 (1)裁判員裁判が1審で死刑を判決した事案が2審で無期懲役に減刑された2事件で、最高裁は裁判員裁判の判決どおりいづれも死刑を求めた検察の上告を棄却して2審判決を支持して無期懲役が確定した。

 2事件は①出所後3か月以内に殺人ほか凶悪犯罪をくり返した男と②妻子を殺害して服役後に再び殺人を犯した男の2事件(報道)で、いづれも服役後の更生(rehabilitation)もみられずに凶悪殺人事件をくり返した反社会的な悪質冷酷極まりない事件であった。

 (2)服役中の更生指導がどうだったのか、刑期が適切であったのか、前事件での裁判判断にも問題がなかったのか司法課題もある中での「市民感情(a feeling of citizen)」、社会パラダイム(paradigm)の観点から死刑もやむを得ないとの裁判員裁判の判断だったのだろう。

 しかし、2審は前例、判例(a judical precedent)をもとに「死刑の選択はあり得ない」、「前科を過度に重視するのは相当ではない」(報道)と無期懲役に減刑した。

 (3)この2審判決を支持した最高裁も「死刑は究極の刑罰で、過去の裁判例の検討が不可欠。死刑の選択がやむを得ないという具体的で説得的な根拠を示す必要がある」(報道)と裁判員裁判の「不足」を指摘して2審判決の無期懲役を支持した。

 従来の裁判官だけによる裁判にしろ、市民参加の裁判員裁判にしろ、「人」を裁く内容、質、判断に違いなどあってはならずに「同質」の出来得る最高の判断が要求されるわけだから、司法専門家集団の最高裁の判断は司法論としてはその通りなのだろう。

 (4)ただし、裁判は公平、公正(justice)を期するものだから、過去の司法判断、判例は重要な裁判判断となるものではあるが、市民が裁判参加する裁判員裁判が導入された時点でこれまでの司法専門家集団としての裁判官だけの判断にはない「市民感情」を裁判に導入することを宣言したのだから、裁判判断に「過去」との「違い」を覚悟したものでもある。

 「人」を裁く裁判の公平、公正は大前提であり、「判例」は重要な判断基準であることはその通りだが、それでは「市民感情」を裁判判断に導入するという意図はどう理解していいのか。

 (5)裁判員裁判も導入当初は凶悪重大事件は対象とはせずに比較軽微な事件に限定されていた。凶悪重大事件も裁判員裁判が対象とする時点で、「市民感情」を司法判断に反映させる規範(paradigm)について「判例」との整合性について整理、検証が必要だった。

 「市民感情」が「判例」よりも下に位置する事案があるなら、裁判員裁判の導入の意味、意図はない。専門家集団の過去の「判例」にはない「市民感情」からの判断だ。当然司法責任も負っている。
 「人」が「人」を裁く本来不条理(unreasonableness)の裁判での「市民感情」の意義もあるとはみるが、裁判への市民参加の限界もあり、検察審査会制度の司法市民チェック体制のほうがふさわしいものだ。

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