社長ノート

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産経新聞 産経抄

2014-08-09 10:24:53 | 日記
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 「時は偉大な癒やし手」という。日本人が戦後の空に響かせたつち音は、19年の月日を経て東京五輪という癒やしをもたらした。聖火台に鮮烈な炎を点じたのは、当時19歳の坂井義則青年だった。晴れ舞台を駆け抜けた英姿には、戦災の影をぬぐうまぶしさがあった。
 意外にも、坂井さんその人は癒えない「傷」を抱えていた。閃光(せんこう)が人々の営みをのみ込んだ昭和20年8月6日。爆心地から遠く離れた広島県三次市に生まれた。被爆はしていない。それゆえ原爆と結びつけられた人選は長い間、異物として胸につかえた。
 「仕方ないと自分に言い聞かせて」。うめきにも似た氏の言葉が、18年前の8月6日付の小紙に残っている。東京五輪から、今年でちょうど50年。広島は6日、長崎はきょう9日で69回目の原爆忌を迎えた。
 広島の惨禍を招いた米軍爆撃機「エノラ・ゲイ」搭乗員の、最後の生存者が死亡したのは7月末だった。長崎に原爆を投下した「ボックスカー」の搭乗員も含め、惨劇の街を見下ろした証人は一人もいない。「われわれは正しいことをした」「戦争を終わらせるには必要だった」。彼らが残した言葉は癒やしにほど遠い。
 「死に損ない」。長崎を修学旅行で訪れた中学生たちが、被爆した語り部の男性に暴言を浴びせる世の中でもある。戦争を知らない世代の、さらに下の世代へと時代は流れている。生存する被爆者の平均年齢は約80歳。その数は今年、20万人を割った。
 片方で悲惨な記憶から遠ざかる時間が流れ、もう片方で語り部の命の残り火を揺らす冷徹な時間の流れがある。悲しいことに、2つの時間は決して「癒やし」の1点で交わろうとはしない。「偉大な癒やし手」を拒む、戦火の罪深さを思う。