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アブドゥライ・ワッド烈伝〜セネガル第三代大統領の功罪

2017-07-11 08:00:57 | アフリカ情勢
アフリカの国の中でも数少ない、平和と民主主義が定着した国、クーデターの経験がない国、などと評されるセネガル。先日、7月30日に投票が行われる国民議会選挙の告示がなされたところ。

そんな中、7月10日(月)、不死鳥のようにダカールに凱旋(?)帰国を果たして話題になっている男がいる。2000年から2012年までの12年間、大統領の地位にあったアブドゥライ・ワッド氏である。当年とって91歳の重鎮。しかし未だ肌ツヤがギドギト輝き、衰えを知らない。

(2007年の独立記念式典で撮影)


ワッド元大統領は、セネガル中北部、ルーガ州はケベメールの出身。セネガルの吟遊ミュージシャンであり、語り部である「グリオ」の出自。グリオはセネガルのカースト的に言えば決して高い地位ではない。そして、宗教的にはイスラム教が地域に根付いた形で発展した二大宗派の一つ、ムーリッドの信者でもある。


政治の道に身を投じてから、一貫して大統領となることを強く主張した。初代のセダール・サンゴール大統領時代の1978年から出馬し、第2代のアブドゥライ・ディウフの時代も戦い抜いたが、4度も敗れ、政権につくことはできなかった。火の粉をまき、炎が上がる激しい選挙戦が展開された。


2000年の選挙で、彼はようやく念願の大統領選挙の地位に就くに至った。セネガルの将来を考え、大統領任期を7年から5年に変更した。先代の新仏路線を改め、パン・アフリカニズムとセネガル・ナショナリズムを高揚させた。

ワッドの就任でセネガルのデモや抗議では火を見ることがなくなった、政治が安定し、治安がよくなった、という意見も耳にした。他方、火をつけてたのはワッド陣営で、彼が政権についたから火をつけるヤツらがなくなったのだ、との見方もある。


2007年の選挙では、14人の対応候補を前に、第一回目の投票で57%の得票を得て当選を果たす。ワッド政権の安定期を思わせる他方、左派からは大きな失望が寄せられた。

国際場裏ではパンアフリカニズムを標榜し、「アフリカ開発のための新パートナーシップ」(NEPAD)の提唱者の一角を占めた。サハラ砂漠の南縁、西はセネガル・モーリタニアから東はエリトリアまでを50キロ幅の緑で結ぶ、「アフリカ・グリーン・ベルト構想」(Murailles Verte)を強く主張した。

国内政策では、「セネガル人よ、ヨーロッパへの不法渡航をやめよ。そして農村へ帰れ。」とのメッセージのもと、農村振興計画(AGOA)、エコビレッジ計画など地方振興の課題も推進した。

また2009年のイスラム諸国首脳会議(OCI)のホスト国となる計画であったことから、湾岸諸国、ムスリム系ファンドなどにより、ダカールは街中が工事現場となる。中心地から空港まで4時間、5時間は当たり前〜!の、ビックリカメラ状態が続いた。この批判も大きかったが、結果としてこの大きなインフラ事業により、ダカールの交通、都市空間は飛躍的に現代化された。


しかし、いつしかバッドガバナンスの象徴に変身する。このダカール開発ではワッド大統領の子息、カリム・ワッドが担当大臣職を司った。そこで生じた不当利得スキャンダルが明るみに出ると、ワッド政権の支持率は急落。当時、電力と水不足で、国民の緊張は最高潮に達していた。

その中で、巨大な「アフリカ・ルネサンス像」が、北朝鮮を含む不透明なファイナンスにより建立された。無駄な公共事業として「バッド・ガバナンス」の象徴と批判された。当時、停電で真っ暗なダカールにおいて、闇夜の中、ルネサンス像だけが煌々とライトアップされ、批判はさらに強まった。ワッド大統領は「エッフェル塔や凱旋門などを作って、我々は歴史的批判を加えるだろうか?」と反発した。


決定的な転機となったのが、ダカール市長選挙である。セネガルではしばしば地方選挙や国政選挙が、大きく政局を変える。バッドガバナンスとカリム疑惑を背景に、ワッド大統領与党のセネガル民主党(PDS)、大統領与党連合(AMP)は大敗した。


2012年の大統領任期を前に、ワッド大統領は、一旦短くしたはずの大統領任期を再び7年に戻す。そして三選を禁止した憲法改正に含みをもたせた有識者パネルを立ち上げ、憲法裁判所が、ワッド氏の三選立候補を是認した。権力にしがみつこうとする姿勢は、野党支持者や、国民の強い反発を生んだ。国際社会も大きなプレッシャーをかけた。


大統領選挙では決選投票の上、野党による統一候補、マッキー・サル大統領が選出された。その時、政権にあったワッド氏が、暴力に訴えることなく政権移譲を行うのかどうか、国民も国際社会も固唾を呑んで見守った。結果として、民意と国際社会のプレッシャーの中、ワッド候補は敗北を是認。サル候補に祝意を贈り、セネガルは「辛くも」選挙後危機のリスクを回避した。


その後ワッド氏はパリに生活の居を移し、今日に至る。そして息子のカリムは訴追を受け、その罪状が注目されている。そんな中、功罪批評のある第三代大統領は2年ぶりに祖国に帰国。ダカールでは支持者に「熱く」迎い入れられたという。

これがンボテの記憶の中にあるアブドゥライ・ワッド烈伝。これにて、完。

(おわり)

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