かたい題名だが、エッセイ集である。著者は、動物行動学で知られた「日高センセイ」。単に身の回りのできごとの印象をのべるだけでない。
自然の営為-生物たちの、それぞれの戦略、行動、相互の関係-を解き明かしてくれる。たとえば、「ギフチョウ・カタクリ・カンアオイ」、「わかってもらえない話」、「ハエの群飛とかつての『科学』」。
日本だけでなく、世界各地の動植物が語られる。たとえば、「セミの声聞きくらべ」、「ホタル」、「夏の終わり」。
ただ、わかっていることだけを書くのではなく、わからないことは率直にわからないと書いてある。たとえば、「花粉症」、「季節」。
大学の先生(学長も務められた)だったせいか、大学や学生についてもふれられている。たとえば、「大学って何?」、「十八歳」。
そのほか、私のお気に入りは、「モンシロチョウとアゲハチョウ」、「情報と信号の関係」、「ある小さな川のホタル」など。
私にとって印象深かったことは、自然界では、生物たちはそれぞれ選択した「答え」をもっている、ということ。
どこから読んでもいい。楽しめるだけでなく、いろいろな課題に考えをめぐらす機会となると思う。
自然の営為-生物たちの、それぞれの戦略、行動、相互の関係-を解き明かしてくれる。たとえば、「ギフチョウ・カタクリ・カンアオイ」、「わかってもらえない話」、「ハエの群飛とかつての『科学』」。
日本だけでなく、世界各地の動植物が語られる。たとえば、「セミの声聞きくらべ」、「ホタル」、「夏の終わり」。
ただ、わかっていることだけを書くのではなく、わからないことは率直にわからないと書いてある。たとえば、「花粉症」、「季節」。
大学の先生(学長も務められた)だったせいか、大学や学生についてもふれられている。たとえば、「大学って何?」、「十八歳」。
そのほか、私のお気に入りは、「モンシロチョウとアゲハチョウ」、「情報と信号の関係」、「ある小さな川のホタル」など。
私にとって印象深かったことは、自然界では、生物たちはそれぞれ選択した「答え」をもっている、ということ。
どこから読んでもいい。楽しめるだけでなく、いろいろな課題に考えをめぐらす機会となると思う。
本書は4編の伝奇小説からなる。皆が教わる史実とは異なるが、破綻なく、きちんと閉じた世界が展開されている。そういう意味で、歴史小説と言ってよい。司馬遼太郎さん等とは違い、重要な登場人物が表面にはなかなか出ない異端の徒なので、どちらかというと、伝奇小説の部類にはいるというだけだ。
松波庄五郎・松永久七郎
松永久秀・織田信長
羽柴秀吉・小早川隆景
マルコポーロとフビライ・ハーン
松波庄五郎、後の斎藤道三、松永久七郎、後の松永久秀である。すると、有名な人物ばかりである。冒頭で述べたことは誤りだったのか。
本書は、ある登場人物(たち)に関わる短編集であり、一連のシリーズまたは連作短編という趣がある。ある登場人物(たち)とは誰か。それは読んでのお楽しみ。
もう少し時間があるので、続けよう。これからは、あらすじとは直接関係のない話である。本書では、いくつかの歴史の謎についての解釈・説明がなされていて楽しい。
その一。天下取りに欠かせぬものは何だったか(これは前に紹介した一般向けの歴史解説書でもふれられていたが、本書のほうがわかりやすい)。
その二。織田信長が商業を重んずる政策を採ることができたのはどうしてなのか。
その三。小早川隆景は陪臣なのになぜ五大老に選ばれたのか。
最近の歴史研究を踏まえてのことだろう(そう言うのは簡単だが、通常、歴史学の専門的な論文など目にする機会はあまりないわけで、どのように情報収集されるのだろう)。綿密な取材をされていると思う。だからといって、別に堅苦しくはなく、無駄のない、よく締まった文章で、テンポよく綴られている。もちろん、小説的な解もあるので、すべてが「正しい」わけではない。それはそれで興味深い。
新たな、お気に入りの(別の作品を読みたい)作家を見つけられたと思っている。
松波庄五郎・松永久七郎
松永久秀・織田信長
羽柴秀吉・小早川隆景
マルコポーロとフビライ・ハーン
松波庄五郎、後の斎藤道三、松永久七郎、後の松永久秀である。すると、有名な人物ばかりである。冒頭で述べたことは誤りだったのか。
本書は、ある登場人物(たち)に関わる短編集であり、一連のシリーズまたは連作短編という趣がある。ある登場人物(たち)とは誰か。それは読んでのお楽しみ。
もう少し時間があるので、続けよう。これからは、あらすじとは直接関係のない話である。本書では、いくつかの歴史の謎についての解釈・説明がなされていて楽しい。
その一。天下取りに欠かせぬものは何だったか(これは前に紹介した一般向けの歴史解説書でもふれられていたが、本書のほうがわかりやすい)。
その二。織田信長が商業を重んずる政策を採ることができたのはどうしてなのか。
その三。小早川隆景は陪臣なのになぜ五大老に選ばれたのか。
最近の歴史研究を踏まえてのことだろう(そう言うのは簡単だが、通常、歴史学の専門的な論文など目にする機会はあまりないわけで、どのように情報収集されるのだろう)。綿密な取材をされていると思う。だからといって、別に堅苦しくはなく、無駄のない、よく締まった文章で、テンポよく綴られている。もちろん、小説的な解もあるので、すべてが「正しい」わけではない。それはそれで興味深い。
新たな、お気に入りの(別の作品を読みたい)作家を見つけられたと思っている。
この本は、「どん底」からの「逆転」のドキュメンタリーである。「苦難の果ての大いなる成功」を成し遂げた同い年の園長をめぐる物語である。小菅正夫旭山動物園(旭川市)園長、岩野俊郎到津(いとうづ)の森公園(北九州市)園長。
動物園の園長は経営者である。赤字ではやっていけない。閉園もある。到津遊園(到津の森公園の前身)は実際に閉園した。そして、復活した。大変にめずらしい。
「わたしたちから到津ゆうえんをなくさないでください」
小学2年生の作文でも「到津」が漢字だ。遊園地としてだけでなく、1937年から開始された林間学園(日本発の自然教室)などの活動が根づいていたことがうかがえる。
「動物園に金をやるのはドブに捨てるのと同じ」
いろんな原因があったのだろう。動物園の入園者は減っていく。新しい施設(大型遊具等)を作っても一時的な効果しかない。設備投資されなくなって、施設が老朽化し、「きたない、くさい、おもしろくない」。また、入園者が減る。動物園の冬の時代。
「ソフトが問題なんだ」
行動展示の旭山動物園、市民の動物園・到津の森公園。それぞれ動物園を作る側の存在証明というべき「ストーリー」をもっている。理念といってもいい。なぜ動物園はなくてはならないのか。何のためにあるのか。何のために存在したいのか。これを突き詰めて考え、明らかにすることで、軸がぶれない。コンセプトとデザインが大切!
旭山動物園はTVドラマにもなったが、ペンギンの散歩のシーンが印象的だった。行動展示とは野生の動物の生態が感じられる展示方法のこと。ぺんぎん館、ほっきょくぐま館、あざらし館、おらんうーたん館空中運動場など。ペンギンが飛び、アムールトラがほえ、オランウータンが遊ぶ。野生の動物のすごさがわかる。
到津の森公園では公立の動物園経営を市民がボランティアでおこなう新しい運営体制を採っている。動物の餌代をサポーター制度で、動物園の運営費を友の会の会費で、動物の購入などを基金でそれぞれまかなう。そして、親、子、孫、三代にもわたって続く林間学園。市民や学校の先生が動物園と一緒になって活動している。
どちらも歴史と先人の思いを受け継ぎ、知恵と工夫をさまざまにこらし、動物園のコンセプトとデザインを作り上げていると思う。
「野生動物の命を感じてもらう」
家畜と野生の動物は違う。生存原理が違う。野生の動物をあつかうのは毎日が戦いの連続、「戦争」であるという。飼いならすのではなく、野生の動物となんとか折り合いをつけて、野生世界と人間世界の微妙なバランスをとっていくこと。人間の都合に合わせるだけだと、野生の動物は死んでしまう。大変な作業に違いない。
高度な社会を営む動物は、密な社会関係によってしか育てられない、チンパンジーの赤ん坊を人工哺育(ほいく)すると、交尾できないそうだ。私たちが本能だと思っていることであっても、社会的な関係のなかで教えられ、感じられなければ、正常に育っていかないものらしい。
「人間が正常に暮らすには野生の動物がそばにいることが、どうしても必要だ」
動物園は、昔から、市民の要望であり、希望であった。たとえば「ゾウ列車」。戦後、名古屋の東山動物園のゾウを見にいくためにしたてられた特別列車のこと。人間は、心(精神)の安定、平安のために、他の動物を必要としているらしい(余談だが、旅行先で動物園を案内してくれた友人はいちばんキリンが好きだと言った。『なんでこんなことを語っているんだろう』とも。動物の前では素直になれるのかもしれない)。
小菅園長の気合(剛)、岩野園長の加減(柔)、首長・議会の決断、市民の協力、そしてスタッフの尽力。これらは幸運な事例なのかもしれない。でも、2件の復活の事例がたしかにここにある。あきらめないでポジティブに続けることによって、望むことがかなえられた、成功の事例が。
「落ちてゆく夕日がなければ、昇る朝日もない」
きれいにまとめすぎである。だから、ちゃんと(?)「落ち」にしてある。ちゃんと(!)「あとがき」まで読もうね。
動物園の園長は経営者である。赤字ではやっていけない。閉園もある。到津遊園(到津の森公園の前身)は実際に閉園した。そして、復活した。大変にめずらしい。
「わたしたちから到津ゆうえんをなくさないでください」
小学2年生の作文でも「到津」が漢字だ。遊園地としてだけでなく、1937年から開始された林間学園(日本発の自然教室)などの活動が根づいていたことがうかがえる。
「動物園に金をやるのはドブに捨てるのと同じ」
いろんな原因があったのだろう。動物園の入園者は減っていく。新しい施設(大型遊具等)を作っても一時的な効果しかない。設備投資されなくなって、施設が老朽化し、「きたない、くさい、おもしろくない」。また、入園者が減る。動物園の冬の時代。
「ソフトが問題なんだ」
行動展示の旭山動物園、市民の動物園・到津の森公園。それぞれ動物園を作る側の存在証明というべき「ストーリー」をもっている。理念といってもいい。なぜ動物園はなくてはならないのか。何のためにあるのか。何のために存在したいのか。これを突き詰めて考え、明らかにすることで、軸がぶれない。コンセプトとデザインが大切!
旭山動物園はTVドラマにもなったが、ペンギンの散歩のシーンが印象的だった。行動展示とは野生の動物の生態が感じられる展示方法のこと。ぺんぎん館、ほっきょくぐま館、あざらし館、おらんうーたん館空中運動場など。ペンギンが飛び、アムールトラがほえ、オランウータンが遊ぶ。野生の動物のすごさがわかる。
到津の森公園では公立の動物園経営を市民がボランティアでおこなう新しい運営体制を採っている。動物の餌代をサポーター制度で、動物園の運営費を友の会の会費で、動物の購入などを基金でそれぞれまかなう。そして、親、子、孫、三代にもわたって続く林間学園。市民や学校の先生が動物園と一緒になって活動している。
どちらも歴史と先人の思いを受け継ぎ、知恵と工夫をさまざまにこらし、動物園のコンセプトとデザインを作り上げていると思う。
「野生動物の命を感じてもらう」
家畜と野生の動物は違う。生存原理が違う。野生の動物をあつかうのは毎日が戦いの連続、「戦争」であるという。飼いならすのではなく、野生の動物となんとか折り合いをつけて、野生世界と人間世界の微妙なバランスをとっていくこと。人間の都合に合わせるだけだと、野生の動物は死んでしまう。大変な作業に違いない。
高度な社会を営む動物は、密な社会関係によってしか育てられない、チンパンジーの赤ん坊を人工哺育(ほいく)すると、交尾できないそうだ。私たちが本能だと思っていることであっても、社会的な関係のなかで教えられ、感じられなければ、正常に育っていかないものらしい。
「人間が正常に暮らすには野生の動物がそばにいることが、どうしても必要だ」
動物園は、昔から、市民の要望であり、希望であった。たとえば「ゾウ列車」。戦後、名古屋の東山動物園のゾウを見にいくためにしたてられた特別列車のこと。人間は、心(精神)の安定、平安のために、他の動物を必要としているらしい(余談だが、旅行先で動物園を案内してくれた友人はいちばんキリンが好きだと言った。『なんでこんなことを語っているんだろう』とも。動物の前では素直になれるのかもしれない)。
小菅園長の気合(剛)、岩野園長の加減(柔)、首長・議会の決断、市民の協力、そしてスタッフの尽力。これらは幸運な事例なのかもしれない。でも、2件の復活の事例がたしかにここにある。あきらめないでポジティブに続けることによって、望むことがかなえられた、成功の事例が。
「落ちてゆく夕日がなければ、昇る朝日もない」
きれいにまとめすぎである。だから、ちゃんと(?)「落ち」にしてある。ちゃんと(!)「あとがき」まで読もうね。
最近、カクテルを飲みたくなった、もう一つの理由(わけ)が、この<酒コミック>だ。
この本で、カクテルに限らず、酒に関わる全般に好奇心が生まれた。従来、まったく気にしてこなかった、酒の種類とその「ブレンド(カクテルのように飲む時だけでなく、製造するときも混ぜ合わせる)」に興味と関心を感じるようになった。実に広く、深い。単なる記号でしかなかったコトバが、実は氷山の一角だった。醸造所のような製造する側にも、バーテンダーのような提供する側にも、そして飲む人にも、それぞれドラマがある。過去と現在と未来がある。夢と挫折と成功がある。
さて、『BAR レモン・ハート』である。バーテンダーのマスターが主役で、常連の松ちゃんとメガネさんが準主役。松ちゃんは「ウィスキーのウーロン割り」を飲んでばかりいて、豊富な酒をそろえる(ないサケはないと豪語するくらい)BAR レモン・ハートのマスターをがっかりさせている。メガネさんは、必ずコートを着て、サングラスをかけてい、いつも飽きずに競馬新聞を読んでいる。スピリッツ派で、けっこう詳しい。バーには、いろんなお客さん(たまに作者も登場する)が来て、話が進む。そして、毎回、一つ(以上の)酒(例外あり)が取り上げられ、マスターの薀蓄(うんちく)が語られるという寸法(筋書き)だ。その酒は、お客さんたちの話にピッタリあったものがチョイスされる。
バーに来る人・いる人は、皆、気持ちがあったかい。行動力もある。たとえば、マスターは、飲酒をドクターストップされたお客のためにロンドンまで「ひとなめグラス」を探しにいったりする(ご存じでしたか?ひとなめグラス。では、ソレラ・システムは?)。親切だ。ドアの向こうは「別世界」なのだろうか。
ところで、ネットを検索してみると、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に「BARレモンハート」の項があった。なんともすごいことである(今では、こうやって、知識は蓄積され、共有されていくのですね。皆で編集していく、新しいカタチ)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/BAR%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88
書きかけとあったが、丁寧に書かれていて、たいていのことはわかるので、そちらを参照していただくこととし、私なりにまとめておこう。牛丼だって「つゆだくで」、ラーメンだって「細めん、やわらかめ」などと、好みを選べる時代に(もちろん店による)、「とりあえずビール」ではなく、たまには「とりあえずギネス。あまり冷えていないものを」と言ってみたくなる、そんなシリーズである。
この本で、カクテルに限らず、酒に関わる全般に好奇心が生まれた。従来、まったく気にしてこなかった、酒の種類とその「ブレンド(カクテルのように飲む時だけでなく、製造するときも混ぜ合わせる)」に興味と関心を感じるようになった。実に広く、深い。単なる記号でしかなかったコトバが、実は氷山の一角だった。醸造所のような製造する側にも、バーテンダーのような提供する側にも、そして飲む人にも、それぞれドラマがある。過去と現在と未来がある。夢と挫折と成功がある。
さて、『BAR レモン・ハート』である。バーテンダーのマスターが主役で、常連の松ちゃんとメガネさんが準主役。松ちゃんは「ウィスキーのウーロン割り」を飲んでばかりいて、豊富な酒をそろえる(ないサケはないと豪語するくらい)BAR レモン・ハートのマスターをがっかりさせている。メガネさんは、必ずコートを着て、サングラスをかけてい、いつも飽きずに競馬新聞を読んでいる。スピリッツ派で、けっこう詳しい。バーには、いろんなお客さん(たまに作者も登場する)が来て、話が進む。そして、毎回、一つ(以上の)酒(例外あり)が取り上げられ、マスターの薀蓄(うんちく)が語られるという寸法(筋書き)だ。その酒は、お客さんたちの話にピッタリあったものがチョイスされる。
バーに来る人・いる人は、皆、気持ちがあったかい。行動力もある。たとえば、マスターは、飲酒をドクターストップされたお客のためにロンドンまで「ひとなめグラス」を探しにいったりする(ご存じでしたか?ひとなめグラス。では、ソレラ・システムは?)。親切だ。ドアの向こうは「別世界」なのだろうか。
ところで、ネットを検索してみると、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に「BARレモンハート」の項があった。なんともすごいことである(今では、こうやって、知識は蓄積され、共有されていくのですね。皆で編集していく、新しいカタチ)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/BAR%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88
書きかけとあったが、丁寧に書かれていて、たいていのことはわかるので、そちらを参照していただくこととし、私なりにまとめておこう。牛丼だって「つゆだくで」、ラーメンだって「細めん、やわらかめ」などと、好みを選べる時代に(もちろん店による)、「とりあえずビール」ではなく、たまには「とりあえずギネス。あまり冷えていないものを」と言ってみたくなる、そんなシリーズである。
最近、カクテルを飲みたくなってしようがない(でも、行けていない)。その理由(わけ)のひとつがこの短編である。
<香菜里屋>シリーズの一篇だ。
ミステリーとしての仕上がりは私にはやや気に入らないけれど、酒飲みでなくても、たまらない描写がいっぱいある。たとえば、こう、きたもり(ん)だ。
「ニ、三の氷をグラスに入れ、バースプーンでステアする。くるくる、くるくるとスプーンはいつまでも回転をやめない。約一分。グラスが完全に冷えるのを待って、中にたまった水分を入念に排除する。オンスカップで二杯、ブラットバレイを注ぎ、続いて炭酸。軽く、ステア。」
バーテンダーの入念な配慮と技術を感じさせる、おいしそうな一杯である。それで、無性に飲みたくなった。作ってみたくもなって、福西英三さんの本(『日曜日の遊び方―福西英三の超カクテル講座 シェーカーいらずの痛快レシピ』絶版らしい)を図書館で借りて読んだりもした(でも、まだ、作れていない)。
引っかかっている、気に入らないところを言ってしまうと、ある「事件」をことさらに殺人事件に結びつける会話を挿入する強引なトコロである。ミステリーだから、という意見には与(くみ)しない。その会話がなくても十分にミステリアスであり、謎解きの要素は十二分に備えている。
登場人物は、皆、キャラがはっきりしていて、魅力的である。他の<香菜里屋>シリーズ作品を読んだことのあるかたには、ちょっとしたサプライズ(?)となる、登場人物の若干の変化もある。連作ならでは、の楽しみだ。
書き忘れていたが、この短編は、月刊「文庫情報誌」IN☆POCKET 2006年8月号(講談社)に掲載されていたものである。もはや入手しにくいかもしれない。ただ、次回が11月号に掲載予定。そろそろ店頭に並ぶのではないか。私は楽しみにしている。
★残念ながら、<香菜里屋>シリーズは休載で、楽しみが延びました…。
<香菜里屋>シリーズの一篇だ。
ミステリーとしての仕上がりは私にはやや気に入らないけれど、酒飲みでなくても、たまらない描写がいっぱいある。たとえば、こう、きたもり(ん)だ。
「ニ、三の氷をグラスに入れ、バースプーンでステアする。くるくる、くるくるとスプーンはいつまでも回転をやめない。約一分。グラスが完全に冷えるのを待って、中にたまった水分を入念に排除する。オンスカップで二杯、ブラットバレイを注ぎ、続いて炭酸。軽く、ステア。」
バーテンダーの入念な配慮と技術を感じさせる、おいしそうな一杯である。それで、無性に飲みたくなった。作ってみたくもなって、福西英三さんの本(『日曜日の遊び方―福西英三の超カクテル講座 シェーカーいらずの痛快レシピ』絶版らしい)を図書館で借りて読んだりもした(でも、まだ、作れていない)。
引っかかっている、気に入らないところを言ってしまうと、ある「事件」をことさらに殺人事件に結びつける会話を挿入する強引なトコロである。ミステリーだから、という意見には与(くみ)しない。その会話がなくても十分にミステリアスであり、謎解きの要素は十二分に備えている。
登場人物は、皆、キャラがはっきりしていて、魅力的である。他の<香菜里屋>シリーズ作品を読んだことのあるかたには、ちょっとしたサプライズ(?)となる、登場人物の若干の変化もある。連作ならでは、の楽しみだ。
書き忘れていたが、この短編は、月刊「文庫情報誌」IN☆POCKET 2006年8月号(講談社)に掲載されていたものである。もはや入手しにくいかもしれない。ただ、次回が11月号に掲載予定。そろそろ店頭に並ぶのではないか。私は楽しみにしている。
★残念ながら、<香菜里屋>シリーズは休載で、楽しみが延びました…。
本書の解釈を著者は「あらぬ妄想」だという。本書の中身を著者は「凡庸」だという。なかなかどうして、そんなことはない、というのが、私の意見である。
孔子とはどんな人だったのだろう。聖人君子と見られるけれど、同じ人間だし、「普通の人」であったと思いたい気もする。
有名な「吾れ十有五にして…」というのは、70歳をすぎてからの言葉のはずだが、当時、彼はどんなふうだったんだろう。毅然として意気盛んだったのか、ニコニコと好々爺然としていたのか。その様子によって、言っている内容、ニュアンスが異なってくる。自慢げで傲慢な猛々しい感じになるか(定説はこちらかな)、懐かしげで多分に弱々しい感じになるのか(本書はこちらだな)。いろんな解釈が可能である。いろんな解釈を吟味しながら楽しんでしまおう。独善にならず、きちんと論理づけながら、多少、好みや嗜好を反映させながら。
そういう立場は本書での著者と同じである。
本書にはグッとくるいい解釈や見解が見つかる。人によって違うだろうが、私が今日の気分で抜き出すと、次のような文を選ぶ(孔子のような人生を送っていないことが如実にわかるね)。
-仕事をしているオトナは、皮肉なことに、生きている意味を見失いがちである
-自分の考えたとおりに生きるべきである。さもないと自分の生きたとおりに考えてしまう
-「生きている意味はなにか」という問いの答えは、「自分はだれにとってかけがえのない他人でありえているか」という問いのなかにしか見つからないというのが、凡人の辿り着いた実感である
ただ、解釈等が必ずしも論語のテキストにぴったり沿ったものばかりではないことに留意することは必要だ。そういう意味で、論語の解釈を通して、著者自身の考え・思想を述べているわけだが、それはそれで特段の支障はない(と思う人は読んでほしい)。
本書は、いかに楽しく生きてゆくか、という大切なことに関するヒントが見つかる、「君子」への道しるべとなる本である。
孔子も言っている:
-君子は上に達し、小人は下に達す。
意味がよくわからないって?そういう人は、意味を知るためにぜひ読んでほしい。意味が違う気がするって?そういう人は、違いを知るためにぜひ読んでほしい。
私はこの感想を寝床で書いた。それで『寝床で書いた「論考」-これが本人(ほん・じん)の生きる道』という語呂あわせを考えたが、全くうまくないね。
孔子とはどんな人だったのだろう。聖人君子と見られるけれど、同じ人間だし、「普通の人」であったと思いたい気もする。
有名な「吾れ十有五にして…」というのは、70歳をすぎてからの言葉のはずだが、当時、彼はどんなふうだったんだろう。毅然として意気盛んだったのか、ニコニコと好々爺然としていたのか。その様子によって、言っている内容、ニュアンスが異なってくる。自慢げで傲慢な猛々しい感じになるか(定説はこちらかな)、懐かしげで多分に弱々しい感じになるのか(本書はこちらだな)。いろんな解釈が可能である。いろんな解釈を吟味しながら楽しんでしまおう。独善にならず、きちんと論理づけながら、多少、好みや嗜好を反映させながら。
そういう立場は本書での著者と同じである。
本書にはグッとくるいい解釈や見解が見つかる。人によって違うだろうが、私が今日の気分で抜き出すと、次のような文を選ぶ(孔子のような人生を送っていないことが如実にわかるね)。
-仕事をしているオトナは、皮肉なことに、生きている意味を見失いがちである
-自分の考えたとおりに生きるべきである。さもないと自分の生きたとおりに考えてしまう
-「生きている意味はなにか」という問いの答えは、「自分はだれにとってかけがえのない他人でありえているか」という問いのなかにしか見つからないというのが、凡人の辿り着いた実感である
ただ、解釈等が必ずしも論語のテキストにぴったり沿ったものばかりではないことに留意することは必要だ。そういう意味で、論語の解釈を通して、著者自身の考え・思想を述べているわけだが、それはそれで特段の支障はない(と思う人は読んでほしい)。
本書は、いかに楽しく生きてゆくか、という大切なことに関するヒントが見つかる、「君子」への道しるべとなる本である。
孔子も言っている:
-君子は上に達し、小人は下に達す。
意味がよくわからないって?そういう人は、意味を知るためにぜひ読んでほしい。意味が違う気がするって?そういう人は、違いを知るためにぜひ読んでほしい。
私はこの感想を寝床で書いた。それで『寝床で書いた「論考」-これが本人(ほん・じん)の生きる道』という語呂あわせを考えたが、全くうまくないね。
私にとって、中世は、わかりにくい時代で、あまり関心はなかったのだが、本書で興味を持つことができた。「おもしろかった」でとどまらず、興味が持てたところがよかった。
「なぜ上洛なのか」、「貴族とはどういった人たちか、何をしていたのか」、「京と関東での政権の二重性について」など、私にとって明快でなかったことが語られている。「熊谷直実が法然の門下だった」、「室町幕府では将軍固有の権力はほとんどなかった」、「信長は自分に逆らわない者はむやみに攻撃していない」等、多くのことを初めて知った。私は当時の実態・実像をつかめていなかったことに気づいた。徳川将軍のイメージで室町将軍をみていたり、現代の政治家のイメージで平安時代の貴族をみていたのだ。
信長の項が出色の出来である。「天下統一」とは信長の創出した世界観・行動様式だという識見にはなるほどと感じ入った。この点だけで本書を読む価値があると心から思う。
そんな卓見ばかりを次から次へと繰り出してくれるとなお良かったのだが、惜しいことに、そうはできていない。惜しいと言うのは、もう少し直截簡明に書き述べてあればそうなったはずだ、と信じるからである。
また、類型化が巧みでわかりやすい。類型化では、単に分類するだけではダメで、比較・対比した結果、相違がクリアになって初めて効果的になるが、それがうまくいっていると感じた。
ただ、構成にいくつか不満がある。
第一に、「誰を対象に書かれたのかはっきりしない」ということ。ターゲットとする読者像があいまいである。さすがに、著者が嘆いているような、聖徳太子を女性と認識している方を対象としているわけではないだろう。しかし、取り上げられている人物が著名人ではないので、略伝を示されてもピンとこない。もう少し詳しく解説をしてほしい。
第二に、「はたして人物史たりえているのか」ということ。略伝(というか人物史ならば、本来、略伝を載せること自体、構成上いかがなものか)はあるし、本文でもそれなりにはふれられるが、文字どおりの人物史ではない。なかには、他の人の話でほとんど占められている人物もあるぐらいで、スタイルがなんとも中途半端な感じだ。
第三に、「語り口が何やら屈折している」ということ。もっとスマートに語りきればいいのにと思う。また、「説明が意識的に省かれている」ところも気になる。ロジカルに、理由を説明してくれれば、誰がなんと言おうと賛同するとか説得力がなく納得できないとか、読者がいろいろと判断・議論ができるのに至極残念である。私たちにも考える材料を提示してもらいたい。楽しみを逃した感じがする。
不満を少し書きすぎた。構成は棚に上げて、内容に戻ろう。
本書の内容に関して、最後に強調したいことは、本書にきちんと描かれているのは、実は「中世の政治史」だということ。はっきりいうと、「人物史」という「脚色」のせいで、わかりにくくなってしまった。「おわりに」を最初にもってきて全体のながれを示して、ことさら人物史にこだわらず、真正面から中世における統治の成立の歴史を語ってくれたほうが、いっそうおもしろい読み物になったのではないか。AとBの対談を増やすと、なお楽しさが増したと思う。
そういうわけで、私の結論は、本書は中世の政治史だと思って一読することをお勧めする、というものである。政治史というと難しいと感じられるかもしれない。しかし、どういうしかけで世の中が運営されていたか、どういうしくみで自他の利害が調整されていたかについての歴史なのだ。「へぇ、そうだったんだ」と思えることがきっと見つかることでしょう。
「なぜ上洛なのか」、「貴族とはどういった人たちか、何をしていたのか」、「京と関東での政権の二重性について」など、私にとって明快でなかったことが語られている。「熊谷直実が法然の門下だった」、「室町幕府では将軍固有の権力はほとんどなかった」、「信長は自分に逆らわない者はむやみに攻撃していない」等、多くのことを初めて知った。私は当時の実態・実像をつかめていなかったことに気づいた。徳川将軍のイメージで室町将軍をみていたり、現代の政治家のイメージで平安時代の貴族をみていたのだ。
信長の項が出色の出来である。「天下統一」とは信長の創出した世界観・行動様式だという識見にはなるほどと感じ入った。この点だけで本書を読む価値があると心から思う。
そんな卓見ばかりを次から次へと繰り出してくれるとなお良かったのだが、惜しいことに、そうはできていない。惜しいと言うのは、もう少し直截簡明に書き述べてあればそうなったはずだ、と信じるからである。
また、類型化が巧みでわかりやすい。類型化では、単に分類するだけではダメで、比較・対比した結果、相違がクリアになって初めて効果的になるが、それがうまくいっていると感じた。
ただ、構成にいくつか不満がある。
第一に、「誰を対象に書かれたのかはっきりしない」ということ。ターゲットとする読者像があいまいである。さすがに、著者が嘆いているような、聖徳太子を女性と認識している方を対象としているわけではないだろう。しかし、取り上げられている人物が著名人ではないので、略伝を示されてもピンとこない。もう少し詳しく解説をしてほしい。
第二に、「はたして人物史たりえているのか」ということ。略伝(というか人物史ならば、本来、略伝を載せること自体、構成上いかがなものか)はあるし、本文でもそれなりにはふれられるが、文字どおりの人物史ではない。なかには、他の人の話でほとんど占められている人物もあるぐらいで、スタイルがなんとも中途半端な感じだ。
第三に、「語り口が何やら屈折している」ということ。もっとスマートに語りきればいいのにと思う。また、「説明が意識的に省かれている」ところも気になる。ロジカルに、理由を説明してくれれば、誰がなんと言おうと賛同するとか説得力がなく納得できないとか、読者がいろいろと判断・議論ができるのに至極残念である。私たちにも考える材料を提示してもらいたい。楽しみを逃した感じがする。
不満を少し書きすぎた。構成は棚に上げて、内容に戻ろう。
本書の内容に関して、最後に強調したいことは、本書にきちんと描かれているのは、実は「中世の政治史」だということ。はっきりいうと、「人物史」という「脚色」のせいで、わかりにくくなってしまった。「おわりに」を最初にもってきて全体のながれを示して、ことさら人物史にこだわらず、真正面から中世における統治の成立の歴史を語ってくれたほうが、いっそうおもしろい読み物になったのではないか。AとBの対談を増やすと、なお楽しさが増したと思う。
そういうわけで、私の結論は、本書は中世の政治史だと思って一読することをお勧めする、というものである。政治史というと難しいと感じられるかもしれない。しかし、どういうしかけで世の中が運営されていたか、どういうしくみで自他の利害が調整されていたかについての歴史なのだ。「へぇ、そうだったんだ」と思えることがきっと見つかることでしょう。
最近、読んだ本より…。
読み始めたとき、なぜか夏目漱石の『坊ちゃん』を思い浮かべた。主人公の境遇や性格が似ているから、ということではない(多少は似ているかもしれない)。文の調子というか格調-文体というのかな-に何か近しいものを感じた。別に二人の作家を読み込んでいるわけではないのだが、お二人の経験に似通ったところがあるのかもしれない。
さて、私でも2時間ほどで読み終えてしまうほどの小さな本である。連作短編というべき形式を採っている。花木が題名になっていて、季節感豊かに、話は進んでいく。主人公はあまり売れていない物書きで、家守をしている。時代はまだ「頼りはやはり洋燈(ランプ)」という頃で、はっきりしないものの、滋賀あたりが舞台のようだ。
奇妙な物語である。不思議な世界である。狐狸妖怪の類、河童、小鬼、白竜などが登場する。忘れてはいけない。湖で行方不明になった友人との「交友」も描かれる。脇役もいい。飼い犬のゴロー、和尚や近所のおかみさん。そして、繰り返しになるが、花木と四季折々の風物・風情が味わい深い。季節は移ろいながら、粛々と話は進む。粛々と話は進み、主人公はしだいに異界に引き込まれ…(結末を詳らかにするのはやめておこう)。
読み進めるうちに、いつのまにか狐狸妖怪たちに違和感はなくなり、私も思わず引き込まれそうになっていることに気づく。物語のそこかしこに、妙に魅かれる、共鳴するところを見出すのである。主人公はこう書いている:
「畢竟(ひっきょう)自分の中にある以上のもの、または自分の中にある以下のものは見えぬ仕組みなのだ」
いつもは気がついていないか、見失っているけれど、確かに私の中にあるものが、何やら見えた気がする。それは、将来に対する不安だったり、うっすらとした光明だったり、幾ばくかの活力だったりする。忘れていたものが見つかった心持ちである。
装丁がなかなか凝っていて、楽しい。ゆっくり、ゆったりと読むことをお勧めしたい。それから、解説はできるだけ読後に読むべし。
読み始めたとき、なぜか夏目漱石の『坊ちゃん』を思い浮かべた。主人公の境遇や性格が似ているから、ということではない(多少は似ているかもしれない)。文の調子というか格調-文体というのかな-に何か近しいものを感じた。別に二人の作家を読み込んでいるわけではないのだが、お二人の経験に似通ったところがあるのかもしれない。
さて、私でも2時間ほどで読み終えてしまうほどの小さな本である。連作短編というべき形式を採っている。花木が題名になっていて、季節感豊かに、話は進んでいく。主人公はあまり売れていない物書きで、家守をしている。時代はまだ「頼りはやはり洋燈(ランプ)」という頃で、はっきりしないものの、滋賀あたりが舞台のようだ。
奇妙な物語である。不思議な世界である。狐狸妖怪の類、河童、小鬼、白竜などが登場する。忘れてはいけない。湖で行方不明になった友人との「交友」も描かれる。脇役もいい。飼い犬のゴロー、和尚や近所のおかみさん。そして、繰り返しになるが、花木と四季折々の風物・風情が味わい深い。季節は移ろいながら、粛々と話は進む。粛々と話は進み、主人公はしだいに異界に引き込まれ…(結末を詳らかにするのはやめておこう)。
読み進めるうちに、いつのまにか狐狸妖怪たちに違和感はなくなり、私も思わず引き込まれそうになっていることに気づく。物語のそこかしこに、妙に魅かれる、共鳴するところを見出すのである。主人公はこう書いている:
「畢竟(ひっきょう)自分の中にある以上のもの、または自分の中にある以下のものは見えぬ仕組みなのだ」
いつもは気がついていないか、見失っているけれど、確かに私の中にあるものが、何やら見えた気がする。それは、将来に対する不安だったり、うっすらとした光明だったり、幾ばくかの活力だったりする。忘れていたものが見つかった心持ちである。
装丁がなかなか凝っていて、楽しい。ゆっくり、ゆったりと読むことをお勧めしたい。それから、解説はできるだけ読後に読むべし。