ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

新美南吉ロシア語訳童話集「ごんぎつね」寄贈先一覧 (ベラルーシ国内 旧ソ連)

2018-11-08 |  新美南吉
 2016年から続けていました新美南吉ロシア語訳童話集「ごんぎつね」をベラルーシ国内、そして旧ソ連各地の図書館や学校に寄贈する活動について最終報告です。
 
 2018年に新美南吉ベラルーシ語訳童話集「手袋を買いに」をベラルーシ各地の図書館に寄贈するプロジェクトが開始したのに伴い、ロシア語訳童話集「ごんぎつね」を寄贈する活動はこれで完了となります。
(将来的に再版する可能性もありますが、現時点では寄贈を終了したということで、ご報告します。)

 寄贈するため必要な郵送費は全てチロ基金が負担しています。
 本書を出版するため、また郵送するために寄付金をお寄せくださった皆様、本当にありがとうございました。深く感謝申し上げます。

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新美南吉ロシア語訳童話集「ごんぎつね」寄贈先一覧 


「ベラルーシ国内」

<ミンスク>
日本文化情報センター
ミンスク市立児童図書館全館。(全18館)
ベラルーシ国立図書館
ベラルーシ国立学術技術図書館
ミンスク市立第190番学校
ミンスク市立第134番学校
ミンスク市立第19番ギムナジア
在ベラルーシ日本大使館閲覧室

<バラノビッチ>
バラノビッチ市立の全ての図書館

<べリョーザ>
べリョーザ市立第3番学校

<ボロブリャヌィ>
SOS子ども村母子ソーシャルセンター図書貸し出しコーナー

<ビテプスク>
ビテプスク市立外国文学図書館
ビテプスク市立中央図書館
ビテプスク市立図書館 全8館
ビテプスク市立児童図書館 全6館

<ゴメリ>
ゴメリ市立第4学校図書室

<グロドノ>
グロドノ市立中央児童図書館
グロドノ市立図書館 全7館

<カリンコビッチ>
カリンコビッチ市立第3番学校

<モロジェチノ>
モロジェチノ市立中央図書館
モロジェチノ市立図書館 全2館
モロジェチノ市立図書館「ベラソーク」
モロジェチノ市療養所学校

<モロジェチノ地区>
チスチ村立図書館
ラドシコビチ村立図書館

<オルシャ>
オルシャ市立中央図書館

<オストロベツ>
オストロベツ市立図書館
マリ町図書館
オストロベツ地区図書館(全14館)
オストロベツ市立第1ギムナジア図書室
マリ村立小学校図書室

<オシミャヌィ>
オシミャヌィ市立児童図書館
オシミャヌィ市立図書館 全2館

<オシミャヌィ地区>
パリャヌィ村立伝統文化部図書室
オシミャヌィ地区内の図書館計15館

<ポーロツク>
ポーロツク市立第3図書館
ポーロツク市役所教育・スポーツ・ツーリズム部内図書室
国立第1番ギムナジア、国立第2番ギムナジア
国立軍人養成学校図書室
ポーロツク市立学校図書室 (全14校)

<ポーロツク地区>
ポーロツク地区内の学校図書室 (全12校)

<プルジャヌィ>
プルジャヌィ市立児童図書館
プルジャヌィ市立第5図書館
ルジャンヌィ市立児童図書館
シェレシェフスキー市立図書館
クレパチスカヤ村立図書館
リノフスカヤ村立図書館
ノボザシモビチスカヤ村立図書館

<スベトロゴルスク>
スベトロゴルスク市立中央児童図書館
スベトロゴルスク市立第4児童図書館
スベトロゴルスク市立第6児童図書館
スベトロゴルスク市立中央図書館

<スルーツク>
スルーツク市立児童図書館

<ストルブツィ>
ストルブツィ市立児童図書館


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 「旧ソ連国内」

<アゼルバイジャン>
バクー市第225番学校

<カザフスタン>
カザフスタン日本人材開発センター(アルマトィ市)

<キルギス>
キルギス共和国日本人材開発センター(ビシュケク市)

<ラトビア>
リガ文化学校

<リトアニア>
アトギミモ小中学校(ドルスキニンカイ市)

<ロシア>
ペルミ市第3ギムナジア
ウラジオストク日本センター
沿海州児童図書館(ウラジオストク市)
ユジノ・サハリンスク第1ギムナジア
ニジニー・ノブゴロド日本センター
ニジニー・ノブゴロド言語学大学内日本センター
シベリア北海道文化センター (ノボシビルスク市)
モスクワ外国文学図書館「国際交流基金」文化事業部付属図書館
モスクワ大学付属アジア・アフリカ諸国大学図書館
モスクワ日本センター
ロシア国立児童図書館(モスクワ市)
モスクワ市立第1257学校図書室
モスクワ州立児童図書館(プーシキノ市)
ビードノエ市立中央児童図書館
フリャジノ市中央図書館
シチョルコヴォ児童図書館
サンクト・ペテルブルグ日本センター
サンクト・ペテルブルグ外国児童文学図書館(サンクト・ペテルブルグ市立第3児童図書館)
サンクト・ペテルブルグ市立第83番学校図書室
サンクト・ペテルブルグ市立第583番学校図書室
ハバロフスク日本センター
ヤロスラフ市立中央児童図書館
情報文化センター「日本」(エカテリンブルグ市)

<タジキスタン>
タジキスタン-ロシア・ギムナジウム『Hotam and P.V.』学校(ドゥシャンベ市)

<ウズベキスタン>
日本センターNORIKO学級(リシタン市)

<エストニア>
ラスナマエ・ギムナジア(タリン市)

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 寄贈先図書館施設のロシア語版、また詳細については、日本文化情報センターのべラルーシ人向けロシア語サイトをご参照ください。
 (こちらです。)

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第233回」

2018-11-07 |  ビタペクト配布活動
 11月7日にビタペクトと「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第233回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はビタペクトを3個と、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー2部を渡しました。  
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は2649個、セルロースの合計は150個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは2196部となりました。
 今回で通算249回目の配布となりました。
 延べ人数ですが、2649人の子どもにビタペクトを、約143人の子どもにセルロースを、2196家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります

(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)


http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html



(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/bb1fb7afb4cac464789e2684181e7d42


(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%89%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80


 チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。

 今回は2家族がゴメリ(チェルノブイリ原発から約140キロ)から保養滞在していました。

(家族A)

お母さんが10人の子どもを引率していました。この家族には2個のビタペクトを渡しました。
 それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果は以下のとおりです。○印の子どもにビタペクトを1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時13歳)8ベクレル
女子(14歳)17ベクレル  
女子(14歳)12ベクレル  
男子(13歳)19ベクレル
男子(13歳)18ベクレル 
男子(10歳)13ベクレル 
男子(10歳)16ベクレル 
男子 (6歳)24ベクレル ○
女子 (3歳)20ベクレル ○ 
男子 (4歳)16ベクレル  


 この家族は家庭タイプ孤児院といわれるもので、子ども全員が里子です。
 お母さんに子どもたちの健康状態を尋ねました。
 18ベクレルだった13歳の男の子は、偏頭痛持ちで、乗り物酔いもよく起こすそうです。
 子ども達は全員ではありませんが、毎年のようにイタリアに保養に行っているそうです。
 ほとんどの子どもたちが比較的健康だそうですが、6歳の男の子が一番問題があるそうです。

 アルコール中毒の両親の元で生まれ、ほとんど育児放棄されていたらしく、2才8ヶ月で保護されたときは、垢まみれ、父親から頭を殴られるなどの虐待も受けていたそうです。
 その後、今の養親に引き取られましたが、言葉の発達が遅く、暗記力もなく、6歳になっても、丸や三角の形の区別がつかない、色の名前も覚えられない、自分でくつをはいたり、上着のボタンを留められない、人の顔や名前もすぐ忘れてしまう、などの症状が出ているそうです。
 また頭痛をよく訴えるそうです。
 医者からは1年に1回、入院して投薬治療を受けるように言われ、そうしているのですが、薬の効き目はないそうです。
 病院で何を治療しているのか、お母さんのお話を聞いていてもよく分かりませんでした。
 学習障害なのか記憶障害なのかもよく分かりませんでした。
 以前、SOS子ども村で学習障害の女の子で、自分の名前のスペルすら書けないのに、絵画には飛びぬけた才能を持っている子がいましたが、今回の男の子は、一つ飛びぬけた才能があるわけでもなさそうで、お母さんは心配していました。
 生みの親から受けた暴力の記憶が残っていて、記憶障害を起こしている、とお母さんは話しており、それは一生消えることがないのでは、とも考えているようでした。
 父親から叩かれて、脳そのものに機能障害が残っているから、頭痛持ちなのでは? と私は思ったのですが、そのような検査は病院でしているだろうし、どんな薬を飲んでいるのかよく分かりません。 

 ともかく、ベラルーシはアルコール中毒が1番の社会問題なので、このような両親の元に生まれてきたばかりに似たような症状の子どもがたくさんいるんだろうと思うと、知らないだけでその数と社会的損失は計り知れないのでは、と思いました。
 そのような子どもたちの心身のケアを政府は里親に丸投げしている感じがしないでもないですが、でも優しい里親の元で暮らせて、今はこの男の子も幸せだと思います。
 

(家族B)

お母さんが4人の子どもを引率していました。この家族には1個のビタペクトを渡しました。
 それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果は以下のとおりです。○印の子どもにビタペクトを1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時5歳)8ベクレル
長男(14歳) 11ベクレル 
長女(10歳) 21ベクレル ○
次女 (8歳) 15ベクレル 
三女 (6歳)  7ベクレル

 子ども達は比較的健康ということでした。長男は子どものとき髄膜炎にかかったのですが、早めに気づいて治療を始めたところ、完治したそうです。
 長女は病弱で、頭痛持ち、耳の痛みを訴えるなどの症状があったのですが、最近は落ち着いてきたとのこと。しかし、私がSOS子ども村へ行った日の前日、室内プールへみんなで泳ぎに行って、この子だけ体調不良になり寝ていました。プールの水を飲んでしまったからと、お母さんは話していましたが、他にも飲んだ子どもがいるのに、と思いました。

 今回も子どもたちに折り紙、折り鶴、着物から作った巾着袋、マグネット、日本語で子どもの名前を書いたカードなどをプレゼントしました。
 子ども達は、さっそく折り鶴を作っていましたが、すぐにたくさん折っていたので、びっくりしました。

 画像は記念撮影した様子です。病気で寝ていたなどの理由により写っていない子どももいます。 
 
 最後になりましたが、ビタペクトの購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に深くお礼申し上げます。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。

聞き取り調査

2018-11-07 | 放射能関連情報
 1986年のチェルノブイリ原発事故が起きたとき、ベラルーシの人たちはどうしていたのか、その後の健康状態はどうなのか・・・
 あくまで私の身近にいる人、偶然出会った人ですが質問してみました。
 内容は簡単ですし、対象となった人たちは医学の専門家でもありませんが、このブログでご紹介しようと思っています。

 質問事項ですが、
(A)性別 (B)事故当時の年齢 (C)事故当時住んでいた場所、現在住んでいる場所 (D)事故当時起きた症状 (E)現在の症状 (F)そのほか気がついたこと 
・・・となっています。

 この記事は回答が増えるたびに更新します。
 日本人の皆様に役立つ情報があれば、と思っています。

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(1)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。(D)なし (E)甲状腺肥大、高血圧、1年中止まらない咳 (F)高血圧と咳は遺伝によるものかもしれない。

(2)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク (D)なし (E)慢性的な頭痛。顔色がいつも悪い (F)子どもが2人いるが、甲状腺肥大で2人とも投薬治療中。

(3)(A)女性 (B)20代 (C)ナロブリャ。(チェルノブイリ原発から約60キロ)1992年にミンスクへ移住命令が出た。(D)頭痛。口だけではなく喉がとても乾いている感覚があった (E)免疫力の低下 (F)もっと早く移住したかった

(4)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故が起こった日、日光浴をした (D)なし (E)数年後から肺炎を繰り返すようになり、入退院を繰り返す。今は肺炎はおさまった。顔に血管がいつも浮き出て見えている 

(5)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし (F)妹は現在甲状腺肥大で投薬治療中。

(6)(5)の息子さん。(A)男性 (B)1歳 (C)ミンスク。事故当日、散歩をしていた。
 (D)首のリンパ腺が腫れた。暗赤色の斑点が全身にできた。医者は皮膚病と考え「何なのか分からない。」と言っていたが、後で内出血であることが分かった。その後症状はおさまる。18歳のとき兵役義務で軍隊に入ったが、その頃から体が弱くなったと感じるようになった。入隊していた軍事施設の周囲に住む住民にがん患者が多い、という話がある。今でも南風が吹くと、体調が悪くなる。

(7)(A)男性 (B)4歳 (C)ミンスク。事故のことは知らなかったが、偶然事故直後モスクワの親戚のところへ行っていた。 (D)なし (E)なし (F)ゴメリ州の食品は買わないようにしている。ベリー類は測定している。

(8)(A)女性 (B)20歳 (C) ミンスク (D)事故当日頭痛。子どもの寝つきが悪かった。(E) 子どもの免疫力低下。疲れやすい。

(9)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク。事故当時実家のあるカリンコビッチ(チェルノブイリ原発から約100キロ)へ家族全員で帰っていた。実家の畑でじゃがいもを植えて、はだしで土の上を歩いていた。5月9日ミンスクへ帰宅した。
 (D)なし (E)自分は特にないが、当時6歳だった娘は甲状腺機能に異常が出ている。今1歳の孫は健康。夫は5年前脳卒中で倒れ、現在リハビリ中。 (F)実家のある村は移住の対象にはなっていない、しかし人口が減り、特に若い人が減った。村の周りの森は測定されたが、場所によって線量にばらつきがあった。この森でとれたキノコを瓶詰めにして、ポーランドへ輸出しているのを見た。

(10)(A)女性 (B)38歳 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。風がきつかった記憶がある (D)なし (E)なし 
 (F)物理学研究所で働いていたので、5月中ごろ測定してもらった。事故当時来ていた服を着てくるよう言われたので、そうしたら、測定後に「その服は汚染されているのですぐ捨てなさい。」と言われ、全部捨てた。 

(11)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故当日一日中外出していた (D)なし (E)事故から8年後甲状腺の摘出手術を受けた

(12)(A)女性 (B)14歳 (C)ペトリコフ(チェルノブイリ原発から約130キロ) 事故当日おばあちゃんの家の畑ではだしになって草刈りをしていた。 (D)耐え切れないほどの眠気におそわれた (E)なし 
 (F)事故後、登校したら校内の菜園の手入れをするよう言われ、クラス全員で草むしりなどをした。後になって地域の測定が行われたが、地域内で一番線量が高かった場所が、その学校の菜園だったことが分かった。

(13)(A)女性 (B)20歳 (C)ミンスク (D)事故当日から数日間体がぐったりし、疲労感を感じた (E)甲状腺切除の手術を受けた。今は2児の母になっているが、健康。

(14)(A)女性 (B)8歳 (C)アゼルバイジャン。2年後ベラルーシへ引っ越した (D)なし (E)なし (F)29歳だった父はチェルノブイリの事故処理作業員として呼び出しを受け、4号炉で作業をした。防護服は支給されていた。作業中は父は何も感じなかったが、いっしょに働いている人で気分の悪さを訴えている人もいた。父は今55歳だが、3回の脳卒中に倒れ、リハビリ中。障害者認定を受けている。

(15)(A)女性 (B)28歳 (C)ゴメリ。事故当日竜巻のような強風が吹いた (D)なし (E)なし (F)息子は1986年1月生まれ。ずっと体が弱く、今でもよく病気になる。甲状腺機能にも問題がある。

(16)(A)女性 (B)14歳 (C)ゴメリ。事故当日は家族そろって公園で一日中遊んでいた (D)その日の晩から胃が痛くなり、断続的な吐き気を感じた。夜中から吐き始め、朝まで眠れなかった。 (E)なし

(17)(A)女性 (B)13歳 (C)カリンコビッチ (D)なし (E)関節痛
 (F)事故から1ヵ月後、学校の生徒全員が教師引率でエストニアに保養に行った。エストニアの保養所に夏休みの3ヶ月いて、9月からカリンコビッチに戻った。保養滞在中、エストニアの人から「チェルノブイリから来た子どもたち。放射能がうつる。」と差別された。しかし子どもたちは放射能のことがよく分からず、差別発言の意味も分かっていなかった。

(18)(A)女性 (B)13歳 (C)モズィリ (D)なし (E)疲労感、倦怠感
 (F)自分の周囲で30代前半でガンを発症する人が増えており、不安

  
(19)(A)女性 (B)20代前半 (C)ミンスク (D)なし (E)胃潰瘍 
 (F)事故当日、1歳だった息子をベビーカーに乗せて外出していた。息子は一日中機嫌が悪く、むずかっていた。
 一ヵ月後、夫とその妹の夫は汚染地域へ送られた。避難した後の無人になった住宅に盗みが入らないように、見張る役だった。当時いっしょにこの監視に携わっていた人(全員若い男性)のほとんどは、現在死亡している。夫は今でも健康だが、汚染地域に行ってから急に老けてしまい、今でも実年齢より年上に見られる。
 夫は汚染地域での任務が終わった後、ロシアのレニングラード(現在のサンクト・ぺテルブルグ)にいる親戚の家へ行った。その親戚は物理学者だったが、家のドアを開けてくれず、近くのホテルに泊まるように言った。夫はそのとき初めて放射能が危険なものなのだと理解し、その後着ていた服は全て処分した。息子は現在健康。

(20)(A)女性 (B)14歳 (C)モロジェチノ (D)生まれて初めての頭痛を起こした (E)なし

(21)(A)女性 (B)12歳 (C)ブレスト (D)なし (E)なし 
 (F)私の家族は他の家族より、被爆に神経質だったので、外出は禁じられた。事故のことをマスコミが詳しいニュースにする前に学校や町で、放射能が飛んできたらしいとうわさになり、あちこちでその話を話していたが、具体的な被爆対策についての情報はなかった。

(22)(A)男性 (B)8歳 (C)ミンスク。家の前の公園で毎日遊んでいた。(D)なし (E)12歳のとき難病にかかって、1年間入院生活を送った。退院したときに身体障害者認定を受け、現在に至る。

(23)(A)男性 (B)0歳 (C)ロシア (D)なし (E)なし
 (F)チェルノブイリ原発事故が起こる3ヶ月前にベラルーシで生まれた。父がロシア人で母がベラルーシ人。両親はロシアで出会って結婚し、ロシアで暮らしていたが、母がベラルーシの実家へ里帰り出産のため戻っていた。
 自分が生まれて二ヶ月のとき、父が子どもをつれて早くロシアの家へ帰ってくるようにしきりに訴えるという夢を母が見て、胸騒ぎを感じ、予定を早めてベラルーシの実家からロシアの父の元へ帰った。直後にチェルノブイリで事故が起きたので、自分は被爆しないですんだ。
 現在自分はベラルーシで暮らしているが、WBCの結果もごくわずかな被爆にとどまっている。母の決断に感謝している。


(24)(A)女性 (B)4歳 (C)コルマ (D)なし (E)なし 
(F)コルマから7キロ離れたところにきれいな森があり、その中に小さい村があったが、事故後高い汚染が認められ、若い世代は移住していった。しかし村を離れたくないという住民は残っていたので除染をすることになり、父がその除染作業に関わった。他の人たちといっしょに森を除染したり、人工の池を掘ったりしたが、被爆しているリスクがあるから、と「手当」と称するお金を給料に上乗せされた形でもらっていた。
その結果立ち入り禁止地区だった森は現在は入ってもよくなり、この村も消えることはなかった。しかし父は現在すでに亡くなっている。被爆との関係は分からない。
コルマは移住先に選ばれ多くの人が移住してきた。コルマのもともとの住民が移住者を差別するようなことは一切なく、みんな同情していた。
子どものとき、移住者の中に女性で髪の毛が一本も生えていない人がやってきたのを見たときは驚いた。現在もこの女の人は健在でコルマに住んでおり、今ではちゃんと髪の毛が普通に生えている。


(25)(A)女性 (B)30歳 (C)スラブゴロド。事故のことは何も知らずに1歳の娘と散歩していた。
 (D)自分自身は何もなかった。夏になってから子どもを連れて、グルジアに保養に行くよう勧められ、二ヶ月滞在した後、スラブゴロドに戻った。その後、娘が急性白血病になった。
 (E)自分は良性の甲状腺種ができている。娘はモギリョフやミンスクの専門病院に入院し、現在は病弱ながらも健在。事故当時3歳だった息子は事故から7年後の10歳になった頃、乾癬を発症。今年31歳になるが完治していない。乾癬は治療方法もまだきちんと確立されていない。
 スラブゴロドの周囲にある14の村が、汚染度が高いことが分かり、家屋全部が地中に埋められた。夫はその作業に従事した。そのため5年早く55歳で年金生活に入り年金をもらっている。しかし現在はしょっちゅう体のあちこちが痛くなり、1日の終わりはぐったりしてよく横になるようになった。
 (F)事故が起きたとき、偶然近所に線量計を持っている人がいた。事故のうわさが流れてきたので、その人は自宅周辺を計測し、近所がほとんど汚染されていることを公式発表より早く教えてくれた。
 夏になってから旧ソ連の各地へ保養に行った人がたくさんいた。現在50代、60代の人で足の痛みを訴える人が自分の周りには多くいる。原因は分からない。
 「埋葬」された村に残ったりんごの木から採れた実を測定したら、ほとんど汚染されておらず、食べてよいということだったが、現在も野生の鹿やいのししの肉は汚染度が高く検査の結果、食べられないと言われることがほとんど。自分自身は子どもに牛乳をあげることをいっさいやめた。周辺の村では1986年は農作物を作ることが一切禁止された。それでもいちごを作っていた人が、検査してみると汚染されていることが分かり、泣く泣く全て廃棄処分したそうだ。
 「埋葬」された村の住民にはミンスクなど移住先が提供されたが、村ごとの移住ではなく、バラバラになってしまい、村民のコミュニティが失われてしまった。移住先の家を売ってさらにどこかへ引越しする人も多くおり、消息が分からなくなっている場合も多い。
 娘が白血病になって、ミンスクの病院に入院しているとき、医者から自主的にどこかへ移住したほうがいいと言われたが、住むところを自分で探さないといけなかったうえ、夫が反対したので移住はしなかった。現在非汚染地域であっても病気になる人は増えてきているので、どこに住んでいようが関係ないという考えを持っている。今は無理して移住しなくてよかったと思っている。
 以前すぐ近所の一戸建てに娘の同級生の一家が暮らしていた。その子は10年ぐらいその家に住んでいたと思う。その後高校を卒業し、別の町にある大学へ進学した。その頃その子の両親は自宅を売りに出すことにした。買い手候補が下見にやってきたが、その人たちは線量計を持ってきていた。そして家の周囲や中をくまなく測定したところ、非常に高い線量だったので、その人たちは家屋を除染し、家の周りの土を全部はがして、新しい土を入れた上でその家を購入し、今も住んでいる。娘の同級生は大学生になってからがんになっていることが分かり、19歳で亡くなった。生きていたら娘と同じ29歳だったはず。住んでいた家が原因で被爆しがんになったと近所の人たちは話しているが、その子の弟は今も元気に暮らしているから、結局のところ発病の原因は分からないと言わざるをえない。


(26)(A)女性 (B)15歳 (C)事故当時住んでいた場所はスルーツク、現在住んでいる場所はミンスク (D)事故のことは何も知らず日光浴をしていた。少し気分が悪かったが、熱中症かもしれない。(E)健康に問題はない。
(F)当時母が10番目の子どもを妊娠していた。事故が起きたとき、母は気分が悪いと訴えていた。子どもは生まれたが、全ての内臓の大きさが通常の2倍の大きさで、生まれて10日目に亡くなった。母にとってこれが最後の子どもだったが。上の子ども9人にはこのような異常はなく、健康に育った。


(27)(A)女性 (B)14歳 (C)ブレスト州ピンスク地区にある村 (D)なし (E)甲状腺に多数のしこりができている 
(F)事故当時、事故のことは何も知らなかった。その頃雨が降り、水溜りに黄色い膜のようなものが張っていた。さらに泡もたくさん浮いていた。花粉が大量に浮かんでいるのだろうと思ったが、不自然な感じがした。
 自分たちが住んでいた地域は比較的安全とされていた地域で、地元の牛乳がいつも店で売られていたのに、事故後ゴメリ州やモギリョフ州など汚染地域の牛乳が並ぶようになった。比較的安全と言われていた地元の牛乳はロシアへの輸出用に回されていた。
 地元のコルホーズで飼われていた牛が次々と白血病になった。病気になった牛は処分されたが、その肉は加工工場で加工されて、市場に出回った。


(28)(A)女性 (B)22歳(C)ボブルイスク (D)全身に湿疹のようなものができ、かゆくてたまらなかった。 (E)健康 (F)事故当時、妊娠初期だったので非常に心配していた。夏の間原発から離れた場所で保養するよう勧められ、サナトリウムで暮らした。生まれた子どもは健康。
 事故があった日、両親は郊外で畑仕事をしていた。頭上を変な雨雲が通過するのを見た。後から放射能雲だと分かったが、事故のことは長く知らされなかった。


(29)(A)男性 (B)13歳 (C)ミンスク (D)めまい (E)なし 
(F)事故が起きた日は同級生の誕生日で友人5人と集まってお祝いをしていた。みんなで外に出るとしばらくして小雨が降った。その後友人全員がめまいや気分の悪さを訴え、家に帰った。
 当時70代だった祖父もその日、生まれて初めてめまいを起こして自分自身驚いていた。


(30)(A)女性 (B)31歳 (C)トレスコフシナ村 (D)頭痛 (E)慢性的なせき。25年ぐらい続いていて、原因も分からず治らない。
(F)事故が起きた日は暑い日だった。日差しが尋常ではないほどまぶしかったように感じた。ちょうどその日は夫の誕生日で家に親戚が集まっていた。暑くて仕方ないので、誰も外に出たがらず、一日家にいた。親戚の多くが頭痛を訴えていた。夫は50歳代で死去。


(31)(A)女性 (B)29歳 (C)マチュリシチ (D)発熱 (E)両足の関節、骨盤部分の痛み。心臓の弁がちゃんと閉まらない病気。 
(F)事故後すぐ熱が出て、慢性的に微熱に悩まされるようになった。平熱が37度という状態が続き、病院へ行っても原因が分からない。1990年に夫の転勤に伴い、カムチャッカへ引っ越した。そのとたん熱が下がって健康になった。3年後、故郷に戻ってくるとまた熱が出て何年もたってからようやく平熱が36度台になった。

(32)(A)女性 (B)8歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし 
(F)事故が起きた日、ミンスクに放射能を含む雨が降った。その後できた水溜りを見ると、緑色をした泡が大量に表面に浮かんでいた。気持ち悪い色で今だに忘れられない。当時は放射能と言う言葉を知っている人も少なかった。何年か経ってから近所に汚染地域から移住してきた人が引っ越してきた。その人たちに、放射能ってどんなもの? ときいてみたが、ちゃんと答えられた人はいなかった。当時は多くの人が無知だった。


(33)(A)女性 (B)13歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)高血圧、心臓病、胃炎。ダイエットをしたら、改善した。 (F)事故当時はニュースにもならず、雨が降る中多くの人が外出していた。しばらくして学校へ行ったら、担任の先生が「原発で事故があり、放射能が出てしまった。」と話して初めて事故のことを知った。
 親戚が10人ほど「仕事のため」と説明してチェルノブイリ方面へ行ってしまった。約1年後全員ががんになり、時期の差はあったものの全員亡くなった。

(34)(A)女性 (B)9歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)胃潰瘍 (F)事故が起きて1ヶ月ほどして、多くの若い兵士がトラックに乗せられて、チェルノブイリへ事故処理のため移動していくのを見た。長い車列だったので、何台ぐらいになるのだろうと道端で数えていた。あまりにもトラックの数が多く、途切れないので疲れて台数を数えるのをやめた。
 しばらくして町中の店から牛乳がなくなり、売られなくなった。説明や理由はなかった。
 またしばらくして、牛乳を積み込んだ特別なトラックがやってきて、広場で量り売りを始めた。町の人たちは久しぶりに牛乳が飲めるので、喜んで容器を持って買いに行った。長蛇の列だったので、おつかいに買いに行かされた。
 弟が2人いるが、1人は事故当時生後5ヶ月で、もう1人も1年後に生まれた。妊娠中で乳児もいた母には被爆に関する情報などは何も知らされなかった。


(35)(A)女性 (B)11歳 (C)ビテプスク州ドクシツィ近くの村。ミンスク (D)なし (E)なし(F)学校では被災者のために寄付を集めることになり、おこづかいを持って行った。村から男性が事故処理作業のためチェルノブイリへ出かけていった。学校で放射能の話を先生がしていたが、ヨウ素剤を飲むような指示はいっさいなかった。ただ、天気の悪いときは外へ出ないように言われた。しばらくして汚染地域から3家族が村へ移住してきた。差別のようなことはなく、新しい住民として普通に接していた。

(36)(A)女性 (B)7歳 (C)ウクライナ北部、ゴメリ (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき、ウクライナにある祖母の家に行っていた。事故のことは何も知らずに森の中で遊んでいたら、突然強風が吹き、雨が降り出すかと思っていたが、降らなかった。しばらくして事故のことを知らされ、両親は心配してビタミン剤を買ってきて飲ませてくれた。毎年夏になると、姉妹そろって黒海沿岸地方やコーカサス地方にあるサナトリウムへ行った。

(37)(A)女性 (B)16歳 (C)ゴメリ。事故のことは何も知らず、メーデーのパレードに参加していた。とても日焼けをした。 (D)なし 
(E)事故が起きてからだいぶ時間が経ってから、事故のことを知った。母は慌ててヨウ素剤を買ってきて、飲ませてくれた。31歳のときに甲状腺の切除手術を受けた。それからホルモン剤を飲み続けている。心臓病も抱えている。
(F)事故から3年後の19歳のとき結婚し、長女が生まれた。生まれつき心臓に欠陥があり、その後卵巣にのう胞が見つかった。手術を何回か受けた。次女と三女にも持病があり、病名はばらばら。成人した長女は結婚し子どもも生まれたが、孫は健康。しかし将来病気になるのではないかと不安な気持ちは残っている。
 
(38)(A)女性 (B)10歳 (C)ピンスク。ゴメリ郊外 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき4歳だった弟は病弱。ピンスク出身の女性と結婚し、今はモスクワ郊外に住んでいるがその一人娘はアレルギー体質。弟一家は3人とも体が弱く、よく病気になっている。


(39)(A)女性 (B)7才(C)ビテプスク (D)なし (E)なし (F)事故当時妹が生後4ヶ月だった。生まれたときは健康だったが、1歳になる前、肝臓が病気になっていることが分かり、入院した。治療を受けて退院したが、今でも食事制限がある毎日を送っている。

(40)(A)男性 (B)9才 (C)ソリゴルスク、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故当時正式な発表がされる前、「原発で事故があったらしい。」という噂が流れ、母から外出しないように言われて、できる限り自宅にいるようにした。友達が遊びに誘っても断った。しばらく牛乳を飲まないようにしていた。これは数年前の話だが、伯父がミンスクから10キロ離れた森の中できのこを拾い集めた。安全な地域だったが、念のため親戚に測定をしてもらうと、針が振り切れるほどの高汚染だったので、廃棄処分した。

(41)(A)女性 (B)9才 (C)ブレスト (D)なし (E) 背中と足の慢性的な痛み 
(F)当時36歳だった父はトラック運転手として事故処理作業員となり、複数回事故現場で働いた。最後にチェルノブイリ原発へ要ったのは50才のとき。2年前63歳で腸のガンのため亡くなった。
 事故が起きてしばらくしてから汚染地域の住民がブレストに移住してきた。同じクラスの同級生だった女の子は脱毛が進み、中学3年生のときにはかつらをかぶって登校していた。移住者の子どもたちは他にも症状があったかもしれないが、心が痛む話題だったので学校内でそのことについて話すことはなかった。


(42)(A)女性 (B)15歳 (C)プレシチェ二ツィ (D)なし (E)なし 
(F)村に7家族が汚染地域から移住してきた。村民は同情しており、差別はなかった。当時35歳だった父は事故後1か月してチェルノブイリへ行った。事故処理作業員を現場から宿舎へ車両で送迎する仕事をするよう国からの命令だった。被爆を防ぐために服をこまめに交換し洗濯をするように言われていたが、それ以外の対策方法は特になかった。父はその後も病気知らずで元気だったが、56歳になってから突然腎臓病と肝臓病を同時に患い、現在に至るまで8年間闘病生活を送っている。


(43)(A)女性 (B)21歳 (C)ミンスク、プホビチ地区 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき長男を妊娠中で、非常に心配した。12月に長男は生まれたが、生まれつき心臓に雑音があり、幼少期はそれが消えることはなかった。その後雑音は消えて現在は健康に暮らしている。

(44)(A)女性 (B)15歳 (C)ウクライナのイワン・フランコフ、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故後2年目にミンスクへ移転。16歳の長男は腎臓肥大。三男はアデノイド。四男は遠視。職業は小児科医。実感として、チェルノブイリ原発事故後、子どものガン、アレルギーが増えた。特に大人には見られるけれど子どもにはなかった病気(初潮も始まっていないような年齢の女子の子宮がん、中学生男子が心臓発作、心筋梗塞を起こすなど)が起こるようになり、中高年男性の突然死も増えた。

(45)(A)女性 (B)0歳 (C)グロドノ (D)なし (E)頻脈 
(F)事故が起きたとき母は私を妊娠中だった。兄は3歳だった。母の実家はゴメリ州ブダ・コシェリョフで、祖母が1人で暮らしていた。母は祖母が48歳のときに生まれた子で、事故が起きたときは祖母は70代の高齢だった。事故が起きたと分かったのは3日後。父は事故処理作業員として呼び出された。母は祖母を心配してグロドノに引き取ることにして父が運転する車で迎えに行った。放射能に関する知識もなかったので、3歳の兄も連れて行った。
 祖母をグロドノへ避難させた後、父は事故処理作業のためチェルノブイリへ向かったが、その後書類手続きの不備で事故処理作業員であると言う証明がもらえなかったので、補償も受けられなかった。父は現在63歳で高血圧で悩んでいる。
 避難した祖母はその後胃がんになりおよそ1年後グロドノで亡くなった。
 3歳だった兄は5年後、病気になった。今年33歳になるが、心臓病、高血圧、不整脈といった病気を抱えている。免疫力が低くよく風邪を引いている。私自身は頻脈。3人の子どものうち1人は生まれつき心臓の壁に穴が二つ開いており頻脈。


(46)(A)女性 (B)8歳 (C)バラノビッチ (D)なし (E)特になし 
(F)事故当時は報道もなくしばらく普通に暮らしていたが事故のことが明るみに出て数日学校が休校になった。父は事故処理作業員として原発へ向かった。9年後17歳で結婚・妊娠した。検査をしたら胎児に脊髄がないこと、脳に腫瘍があると認められ死産になるからと中絶した。4年後妊娠し、元気な子どもが生まれた。さらに3年後再び妊娠。そのときも第1子同様、胎児に脊髄の一部がなく脳腫瘍があると言われて中絶。1年後4回目の妊娠。このときは健康な子どもが生まれた。2人の胎児に異常が出た原因は分からない。自分自身気になり遺伝子の検査を受けたことがあるが異常は見つからなかった。
 今年65歳になる父は10年前に喉に腫瘍ができたが良性で現在も健康。


(47)(A)女性 (B)21歳 (C)ブレス都市近郊の村。(D)なし (E)甲状腺がん (F)第1子を妊娠中事故が起きた。5ヵ月後出産。娘は健康でその子どもも健康。
 ブレストはポーランド国境に近い町で、さまざまな物資がブレストの駅を通る。チェルノブイリで事故が起きる前その駅の引込み線で高い線量の放射能が外国人によって偶然検出されたが、公式な原因の発表はなかった。地元住民は「ソ連からポーランド(あるいはその先にある国)にウラン鉱石が運ばれたからだ。」とうわさしたが真偽のほどは分からない。その後その引込み線は廃止され、現在は別の場所に引込み線が作られている。知らなかっただけで原発事故が起きるずっと前からいろんな場所が放射能汚染されていたのではないか。


(48)(A)女性 (B)4歳 (C)ボリシエ・ビコロビチ村(ウクライナ国境近く。チェルノブイリ原発から約220キロ) ブレスト (D)なし (E)頭痛 
(F)事故が起きてから3年後小学校に入学した。外国の支援で給食にたくさんのバナナやオレンジが出て、毎日たくさん食べていた。学校内で何回かWBCの測定を受けたことがある。ドイツやオランダ、ロシアなどに保養に子どもは集団で毎年行っている。村には80人ぐらい子どもが住んでいるが、健康な子供はほとんどいない。
 事故後40代50代の女性のガンが増えた。母も子宮がんになり手術を受けた。細胞検査の結果は「未知の種類のがん細胞。」
 父は4人の兄弟姉妹がいるが、全員ガンになった。みんな同じ村に住んでいる。
 35歳になる姉は慢性頭痛。いとこは甲状腺肥大。中年のがん、糖尿病、甲状腺の病気がとても多い。
 村でとれた牛乳は放射能の検査を受けている。基準値以下だと販売に回される。基準値以上だと正規の販売ルートでは売れないので、村のご近所さんに安く売っておりみんな基準値以上だと理解した上でそれを飲んでいる。

(49)(A)女性 (B)4歳 (C)ブレスト州ドロギチン地区、ボブルイスク(D)なし (E)なし (F)事故当時30歳だった母は同じ地区にに住み続けていた。2年前58歳にガンで亡くなった。事故前この地区でガンでなくなる人はほとんどいなかった。母がなくなった同じ年、1年間で、母の同級生4人がガンでなくなった。

(50)(A)女性 (B)18歳 (C)モギリョフ (D)なし(E)甲状腺種。関節痛。(F)当時おじが長距離トラックの運転手をしていた。事故が起こった次の日、ちょうどウクライナからベラルーシへおじが戻ってきた。すると、「原発で何かあったらしい。外出しないほうがいい。」と言われて、5月1日のメーデーの行進には行かなかった。おじさんに感謝している。政府は原発事故をすぐにニュースにして、避難は無理でも、国民全員に外出しないように言うべきだった。

(51)(A)女性 (B)9歳 (C)ゴメリ市 (D)特になし。3年後に甲状腺肥大。 (E)婦人科系の病気 (F)事故が起きたとき、外出していた。突然竜巻が起こった。黄色に濁った水溜りを見た。夏休みの間、ロシアへ3ヵ月間保養に行った。新学期が始まり、しばらくすると、学校の給食に海草が毎日のように出るようになった。
 親戚の一人が当時ブラーギン地区で道路工事作業をしていた。現在甲状腺がんと戦っている。別の親戚は当時チェルノブイリ原発の空調設備の管理をしていた。事故前日定時に帰宅し、翌朝、出勤しないように言われ、その後ロシアにある原発に配属された。その後被災者認定を受けている。健康状態はよいらしい。

(52)(A)女性 (B)11歳 (C)モギリョフ州ムィシコヴィチ (D)なし (E)血圧が安定しない。 
(F)事故が起きたことはすぐに知らされなかった。しばらくすると汚染地域に指定され、牛乳を飲むことが禁止された。その後「きれいな」牛乳が商店で売られるようになり、食肉が商店から消え、代わりに缶詰を食べることを奨励された。
 夏休みになって、母が私をロシアのエカテリンブルグに住んでいる祖母の下へ疎開させた。エカテリンブルグに到着すると、「チェルノブイリ地域から来た子ども」と言うことで、被曝していないか検査を受けた。その結果、私がはいていたサンダルは、非常に高い数値を示したので、その場で廃棄処分が決められた。祖母は急いで新しいサンダルを買ってくれた。それがおしゃれだったので気が晴れた。夏休みが終わって、家に帰ることになっても、母は、「ベラルーシに戻ってこない方がいいのでは。」とまで、言って少しでも長くエカテリンブルグにいてほしいとを話していたが、結局新学期に合わせて帰った。
 その後すぐではないが、母はがんで死去。今22歳の長男は体のあちこちに病気があり、ホルモンの状態など検査したが、異常はないと医者に言われて、特に治療を受けていない。

(53)(A)女性 (B)25歳 (C)モギリョフ州ヴェプリン村。キロフスク市 (D)なし (E)腫瘍ができ、腎臓を一つ摘出。 
(F)生まれ故郷の村は1999年に汚染地域に指定され、当時住んでいた村人、約1000人は強制移住させられた。移住先はチェリコフ市。しかしその町も汚染されていて、「希望したければ自由に出て行ける地域」とされていた。今はチェリコフ市は「きれいな」町ということになっている。自分はチェリコフ市に住んでいたが、現在はキロフスク市に一軒屋を建てたので引越しした。


(54)(A)女性 (B)7歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし 
(F)私の母はゴメリ州出身。母の姉(私の伯母)はホイニキ地区に住んでいた。そこは事故後汚染地域に認定されたので、事故が起きてからほとんどすぐに伯母は自分の娘(私のいとこ)を連れて、ミンスクの母の家に避難した。(ホイニキの妹がミンスクの姉の家に身を寄せた形。)
 伯母一家は夏の間、ミンスクで暮らしていたが、仕事や学校のことなどで結局ホイニキの家に戻った。その1、2年後移住することになり、ブレスト州のコブリンに住居をもらい、伯母一家は引っ越した。しかしその後伯母は40代でがんになって亡くなった。私のいとこは結婚して、息子が生まれたが生まれつき腎臓病。16歳になったが、病気は治っておらず完治は難しそう。
 伯母のように私の母方の親戚のうち事故のときすでに生まれていた人は、このいとこ以外、全員若死にし、今は一人も残っていない。
 現在ホイニキは除染も完了し、放射能がない地域に認定されて、かつての住民に戻ってくるよう誘致している。農地も再び利用されている。私自身はこのことを懐疑的に思う。政府が安全宣言しても、住みたくないし、そこで作られている農作物などは食べたくない。しかし、ホイニキのようなかつての汚染地域で作られたもので、ミンスクで売られているものを購入して知らない間に食べていると思う。


(55)(A)女性 (B)20歳 (C)ピンスク、ブレスト (D)なし (E)なし 
(F)原発で事故があり、外に出るのは危険だといううわさを聞いたが、放射能が何なのかよく分かっておらず、同じ年の友人と2人、屋根の上に上がって日光浴をした。4月とは思えないほど暑い日で、長く日光浴はできず、2人とも屋根から下りた。数年後自分は就職を機にブレストへ引っ越したが、友人はそのままピンスクに住み続けた。事故から8年後、友人は28歳で白血病になり入院。治療を受け続け、現在は完治した。
 自分の息子は事故が起きてから13年後の生まれ。10歳のとき、脳卒中を起こして倒れ病院へ運ばれた。脳卒中は子どもに発症する病気だとは思ってもいなかったので、ショックだった。その後心臓の肥大も見つかり、体の右側に麻痺が残ったが、リハビリの結果、再び通学できるまで回復した。それでも当時は字が早く書けなかったり、記憶障害があって、同級生の顔や名前が思い出せず、学校生活を送る上で精神的ストレスを抱えていた。つらい時期もあったが、時間の流れとともに心身ともに改善して安心した。しかし今19歳になった息子の健康状態が突然不安定になるのではないかと、母親として常に健康に気遣っている。


(56)(A)女性 (B)生後2ヶ月 (C)ブレスト州ルィシチツィ村 (D)なし (E)甲状腺がんのため、甲状腺を全摘出。
(F)事故当時、事故のことも放射能のことも知らず、乳母車に乗せられて、戸外でお散歩をしていたと後から母に聞かされた。28歳のとき甲状腺がんのため、甲状腺を全て摘出。ホルモン剤とカリウムサプリを飲み続けている。障碍者認定を受けている。ベラルーシの法律では甲状腺がんで全摘出手術を受けると障害者認定を受けるが、チェルノブイリ原発事故や放射能被曝との因果関係は証明されていないし、それが認定の理由でもない。


(57)(A)女性 (B)5歳 (C)ゴメリ (D)特になし。(E)特になし 
(F)事故が起きてから4年後9歳のときに慢性肺炎になり、心配した父が医者のアドバイスを受け、ウクライナの黒海沿岸地方に一家そろって引っ越した。そこは保養地として有名なところで、庭付きの一軒屋に暮らして、野菜を家庭菜園で作って食べていた。またくるみをよく食べるようにしていた。その結果元気になった。7年間ウクライナで暮らして健康になったので、ゴメリに戻った。その後家族はみんなゴメリに暮らしているが、父は数年前がんで亡くなった。
 自分より11歳年上の兄は甲状腺肥大のためか、とても太ってしまい、性格も怒りっぽくなってしまった。兄の妻は甲状腺がんになって、最近切除手術を受けた。 

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第232回」

2018-10-15 |  ビタペクト配布活動
 10月15日にビタペクトと「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第232回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はビタペクトを10個と、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー1部を渡しました。  
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は2646個、セルロースの合計は150個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは2194部となりました。
 今回で通算248回目の配布となりました。
 延べ人数ですが、2646人の子どもにビタペクトを、約143人の子どもにセルロースを、2194家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)


http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html



(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/bb1fb7afb4cac464789e2684181e7d42


(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%89%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80


 チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。

 今回は2家族がべトカ(チェルノブイリ原発から約150キロ)から保養滞在していました。

(家族A)

 この家族はいわゆる家庭タイプ孤児院の家庭です。お母さんが8人の養子や里子を引率していました。
 2013年にも保養滞在していたことがあります。そのときの様子はこちらをご覧ください。
チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第144回」

 ただし、前回の保養にも今回の保養にも参加したのは、母親と男の子一人だけです。
 この家族には5個のビタペクト3を渡しました。それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果は以下のとおりです。○印の子どもにビタペクト3を1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時25歳)45ベクレル
養女(11歳) 30ベクレル ○ 
養女 (8歳) 18ベクレル  
養女 (6歳) 22ベクレル ○
養子 (4歳) 25ベクレル ○
男子(14歳) 16ベクレル 
男子(13歳) 30ベクレル ○ → 22ベクレル ○
男子(12歳) 28ベクレル ○
女子 (5歳) 18ベクレル  

 このうち養子の4人は兄弟で、両親、両祖父母全員が若くして亡くなったとかで、このお母さんの一家の養子に最近入ったそうです。
 4歳の男の子はアレルギー体質、14歳の男の子は喘息を持っており、13歳の男の子は歩行困難の障碍があります。
 このお母さんは長年、恵まれない子どもを引き取っては育て続けていますが、最近はさまざまな子ども手当が減ってきているそうです。
 この家の子ども達はイタリアやベルギーに保養に行っていますが、毎年全員行っているわけではなく、やはり予算の関係で、行ける年もあれば、行けない年もあり、いわゆるチェルノブイリの子どもたちのための海外保養の機会も縮小傾向にあるようです。
 歩行が難しい13歳の男の子ですが、2回の手術を受けて、だいぶ歩けるようになりました。
 しかし、このような手術を障碍児認定されている子どもは無料で受けられるはずが、
「最近は個人負担です。」
と病院側から言われて仕方なく、イタリアで保養を受け入れた家族から援助してもらって、手術代を工面したそうです。
 お母さん自身は糖尿病患者ですが、インスリンは国から無料で受け取っています。


(家族B)

 お母さんが6人の子どもを引率していました。この家族には5個のビタペクト3を渡しました。
 それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果は以下のとおりです。○印の子どもにビタペクト3を1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時14歳) 15ベクレル
養子 (6歳) 27ベクレル ○
養子 (5歳) 19ベクレル 
男子(11歳) 26ベクレル ○
女子 (9歳) 27ベクレル ○ 
女子 (9歳) 29ベクレル ○ 
男子 (8歳) 25ベクレル ○
 
 お母さんにお話を伺いましたが、子ども達は比較的健康だそうです。
 お母さん自身は甲状腺肥大と関節痛に悩んでおり、お父さんは胃潰瘍だそうです。
 数年前に一軒屋に引越し、化学肥料は一切使わない自然農法で育てた野菜と果物だけ食べるようにしている、と話していました。
 昔、近くの森できのこを集めて、洗ったり、ゆでたりして、放射能を除去したと思ったものの、念のため検査してもらったら、「やっぱり食べてはだめなレベル」の放射能が検出されて、捨てたそうです。それ以来、きのこを森で集めて食べるのは一切やめた、ということでした。
 どうしてもきのこが食べたい場合は、室内栽培されているマッシュルームを店で買ってくるそうです。
 
 チェルノブイリ原発事故が起きた日、このお母さんの祖母(当時70代)は、、
「手足の関節が痛い。」
と訴えていたそうです。中学生だったお母さんは、
「年のせいだろう。」
と軽く考えていましたが、その後、べトカでは、30代40代で、関節痛に悩む人が増えたそうです。
 さらに小児がんが増え、生まれてすぐにがんが見つかるケースすらあった、とこのお母さんは話していました。

 この2家族が住んでいるべトカは汚染地域に指定されていましたが、今では汚染地域ではなくなり、住んでよい地域になっています。若い人向けの住宅も建設され、18歳になると優先して入居できます。ただし、入居を始めてから5年以内に規定の価格を支払えば、自分の持ち家になりますが、それができなかった場合、借家住まい扱いになり、家賃を払い続ける、という決まりだそうです。
 べトカの人口は増え続けており、安心な地域、ということになっていますが、実際にはそこに住む子ども達は内部被曝を受けています。
 また、安全宣言を出されていますが、周囲には「放射能があるため、立ち入り禁止の森」もたくさんあります。
 またべトカにはWBCのある病院があり、無料で検査を受けられます。
「これで本当に安全な地域と言えるの?」
とお母さんたちは話していました。


 今回も子どもたちに折り紙、折り鶴、日本語で子どもの名前を書いたカードなどをプレゼントしました。
 子ども達は、日本語に強い関心を示して、
「日本語を勉強したい。」「日本に行ってみたい。」
と口々に話していました。
 それぞれ悩みを抱えた子どもたちだと思うのですが、明るい夢を持ってほしいなあ、と思いました。

 画像は記念撮影した様子です。この後も、ツーショット写真をみんなからせがまれて大変でした。(^^) 
 
 最後になりましたが、ビタペクトの購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に深くお礼申し上げます。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。

田中将浩さんと日本語で歌おう会 9

2018-09-30 | 日本文化情報センター
 しかし、大トリの歌は「カチューシャ」でした。
 ロシア語の歌詞も日本語の歌詞もある歌で、みんなよく知っていて、楽譜もあって・・・という条件下、この曲にしました。

 これは会場の全員が参加。田中さんとエヴゲーニイさんのギターに合わせて、まず日本語で歌って、次にロシア語で歌いました。
 私も日本語のほうは、余裕で歌いました。(プロのギタリストに伴奏してもらいながら歌えるのなんて大変光栄です。)
 しかし、生徒のみんなは必死で歌う人、ときどき黙る人、歌いながらえへらえへら(自分で自分を笑いながら)歌う人がたくさんいました。
 でも、次にロシア語になると、みんな上手に歌っていました。(私はところどころ舌が回っていなかった。やっぱり、非母国語で歌を歌うのは難しいですね。)
 
 だけど、みんな楽しく歌ってくれたと思います。(少しでも日本語の勉強になったかな?)

 このように大盛会のうちにお開きとなったコンサート。田中さんを囲んで記念撮影しました。
 この後もサイン会があり、みんな大喜び。

 またいつか必ず田中さんと再会して、再びいっしょに日本語で歌いましょう! と誓い合ったのでした。
 (と勝手に田中さんの都合は無視して、激しく期待するベラルーシ人。)
 これからも日本語の鍛錬を続けなくてはいけませんねえ。

 一方で、このコンサートに参加して、
「そうだ、歌いながら日本語を勉強しよう。そのほうが楽しいし。」
と考える生徒が増えてくれたら、と期待しています。

 貴重な機会を与えてくださった田中将浩さん、準備時間もあまりなかったのに、こちらからの要望に細かく答えて下さって本当にありがとうございます。
 ぜひまたベラルーシへ来てください! 
 
・・・・・・・・・・・・・・・

 10月7日の追記です。
 ベラルーシからウクライナに移動した田中さんは、キエフで行われたフルマラソンに参加し、完走しました! 
 フルマラソンですよ! 感動しました!

田中将浩さんと日本語で歌おう会 8

2018-09-30 | 日本文化情報センター
 そして、プロミュージシャンのオリガ・ボイノワさんの登場です。
 (この記事の最初に、ベラルーシ人出演者にプロはいない、と書いたけど、一人プロがいました。)
 オリガさんはふだんはアイルランドのフォークミュージックを演奏している竪琴奏者です。
 日本語で歌えるのはジブリアニメの「千と千尋の神隠し」のエンディング「いつも何度でも」だけということで、それを知っていた私からぜひにとお願いしました。
 オリガさんはいつもはこの曲を自分で竪琴を弾きながら歌っているのですが、せっかくなので、日本のプロギタリストと夢の競演がしたい、ということで、本当に夢が叶いましたね。

 やっぱりリハーサルのときから、オリガさんは完璧でしたね。
 (歌詞の翻訳も完璧でした。)
 この歌をトリにして正解でした。
 
 

田中将浩さんと日本語で歌おう会 7

2018-09-30 | 日本文化情報センター
 次の曲は田中さんとエヴゲーニイ・パンチュホフさんの2人のギターによるブルース・セッションです。
 きゃー、かっこいい!!!
 とその場にいた人はみんなそう思いながら聞き惚れていたはず。
 2人でいっしょに練習する時間もあまりなかったのにもかかわらず、息がぴったりでしたね。感動。
 

田中将浩さんと日本語で歌おう会 6

2018-09-30 | 日本文化情報センター
 次はスピッツの「チェリー」です。
 この曲のときは田中さんは一回休憩で、歌もギター演奏もエヴゲーニイ・パンチュホフさんが担当しました。
 やっぱり「日本語で歌える歌はないですか?」と尋ねたら、
「『チェリー』なら歌えます。」
と即答。
 自分のレパートリーがあるのはすばらしいことですね。しかも母国語じゃないのに・・・
 でも、この歌の歌詞の翻訳が一番難しかったです。
 タイトルの「チェリー」という言葉が、歌詞の中に出てこないし。(こういうの、最近のJ-POPに多くないですか? 翻訳者泣かせです。)
 
 会場はちゃんとしたコンサートホールでもライブハウスでもなく、児童図書館内であったため、マイクすらない状態で、ちゃんと歌っている声が聞こえるか心配していたんですが、実際には思ったよりよく歌が聞こえてよかったです。(^^)

田中将浩さんと日本語で歌おう会 5

2018-09-30 | 日本文化情報センター
 続いては谷村新司「昴」です。
 歌うのはワレリー・ビクチェンタエフさんです。
 このコンサート開催の話が出たときに
「何か、日本語で歌える歌はないですか?」
と尋ねたら、
「『昴』が歌えます。」
と即答したワレリーさん。(でもずっとプログラムの歌詞を実ながら歌ってますね。)(笑)
 やっぱり自分が好きな歌を歌うというのがいいですね。
 
 

田中将浩さんと日本語で歌おう会 4

2018-09-30 | 日本文化情報センター
 次の曲は坂本九の「上を向いて歩こう」です。
 なぜか60年代の日本の歌が好きと言うベラルーシ在住の高校生、辰巳結重さんが歌いました。
 やっぱり、緊張した・・・と後で話していました。
 田中さんのギター伴奏は、明るい曲調だったんですが。
 日本語の勉強という意味では、60年代ごろの歌の歌詞はうってつけですね。
 ちなみに、プログラムには各曲の歌詞のロシア語訳を載せました。
 聞いている人の中にはまだ日本語が上手ではない生徒もいるので。
 ロシア語訳は歌を担当した生徒がそれぞれ担当しました。
 (誤訳部分は私が修正しましたが、最近のJ-POPの歌詞はかえって内容が難しくて、また「リスナーは歌詞の行間を察して!」と主張しているものが多く、翻訳作業はスムーズなものではありませんでした。「上を向いて歩こう」は翻訳が一番簡単でした。(^^))

田中将浩さんと日本語で歌おう会 3

2018-09-30 | 日本文化情報センター
 続いては Kiroroの「未来へ」。
 歌うのは現在子育て真っ最中のオリガ・ユシュケーヴィチさん。
 とても好きな日本の歌で、日本語で歌えるということだったので、登場してもらいました。 歌詞の内容がオリガさんにぴったりですね。
 しかし、日本のプロの方の伴奏ということで、緊張気味・・・
 歌詞が一部抜けてしまいましたが、ちゃんと田中さんがフォローしてくれました。(さすがプロ。)
 歌い終わった後はオリガさんも笑顔でした。(^^)
 

田中将浩さんと日本語で歌おう会 2

2018-09-30 | 日本文化情報センター
 ・・・そして最初に登場するのは田中さんではなく、尺八です。
 尺八をギター曲の前座にしてしまうわけです。(笑)
(もちろん、この曲に関してはギターとの合奏ではなく、あくまで尺八のソロ演奏です。)

 曲目は、尺八楽古典本曲「虚鈴(きょれい)」です。
 演奏はエヴゲーニイ・ブラトゥンさん。日本語を勉強しながら尺八も修行している人です。
 尺八用の楽譜も見せてもらいましたが、全然意味が分かりませんでした。
 こんな人がベラルーシにいるんですね。
 せっかくだからみんな(他の生徒)の前で吹いてほしいと、頼んでみてよかったです。
 日本人も意外と和楽器のことが分かっていなかったりするので、大変勉強になりました。

田中将浩さんと日本語で歌おう会 1

2018-09-30 | 日本文化情報センター
 日本文化情報センターにとって大変運がいいことに、ベラルーシを旅行滞在中のギタリスト田中将浩さんのご厚意により、日本語教室の生徒が日本語で歌を歌う機会に恵まれました。
 田中将浩さんは、プロのギタリストでマラソンランナーでもあり、世界を旅しているという多才なミュージシャンです。
 こんなプロのギタリストに伴奏をお願いするなど、非常におこがましいのですが、日本語で歌が歌えるという生徒にとってはまたとない機会です。
 ご厚意に甘えて、準備時間もあまりないなか、無理矢理に・・・でもけっこう盛りだくさんの内容で(あくまで自分たちの日本語学習用の)コンサートを開催することができました。
 田中さん、本当にありがとうございます!

(田中将浩さんのインスタグラムはこちらです。)

 それから、初めに明記しておきますね。
 会場になったのはミンスク市立第5児童図書館内で、会場費無料。
 日本語の授業の一環として行った音楽会で、入場料無料。
 そもそも日本文化情報センターの日本語教室の授業料が無料。
 田中さんはノーギャラで演奏してくださいました。(プロなのに申し訳ない・・・)
 もちろん、歌った生徒たちもアマチュアなので、ノーギャラです。
 
 ・・・と明記しておきます。
(でないとJASRACが「著作権がどうの」と言ってきそうなので。
 ちなみにJASRACのHPによると・・・
著作権法第38条第1項は、公表された著作物は、以下の3つの要件を全て充たしている場合には、権利者の許諾を得ることなく演奏できると定めています。
(1)営利を目的としていない
(2)聴衆または観衆から、入場料ほか料金を徴収しない
(3)出演者等に報酬が支払われない
したがいまして、上記の3要件を全て充たしている演奏会については、JASRACへの手続きは必要ありませんが、ひとつでも該当しない場合は、手続きが必要となります。

 ・・・とありますが、今回の「田中将浩さんと日本語で歌おう会」は上記全ての条件を満たしています、と明記しておきます。)

ニュース 野生キノコ「サクラシメジ」から基準値超える放射性物質

2018-09-22 | 放射能関連情報
野生キノコ「サクラシメジ」から基準値超える放射性物質・販売施設が自主回収 山形
9/22(土) 18:47配信 さくらんぼテレビ
山形県の大江町と尾花沢市で販売された野生キノコ「サクラシメジ」から、基準値を超える放射性セシウムが検出されたことが分かった。

これは、厚生労働省が9月19日に行なった買い上げ調査で判明した。県によると、大江町の「道の駅おおえ」では、販売していた山形市産のサクラシメジから基準値の3倍にあたる1キロあたり300ベクレルの放射性セシウムが検出された。すでに1箱350グラム入りが6箱販売され、現在自主回収を進めている。

また、尾花沢市の「道の駅尾花沢」で販売していた市内産のサクラシメジからも、基準値を超える放射性セシウムが検出された。こちらの販売は、厚生労働省が調査のため買い上げたものに限られ、他への流通はないという。

県は25日以降に山形市と尾花沢市とその周辺市町から採取した検体を調べ、基準値を超えた場合、採取地の市と町に野生キノコ全てについて出荷の自粛を要請する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このニュースを見て、思ったことの箇条書きです。
・測定して、結果を公表、回収や出荷の自粛を進めようとしているのはすばらしい。
・やはりキノコはセシウムなど吸収しやすいので、注意が必要。
・このキノコを採集した場所は確認できているのか? その場所の放射能を測定するほうがよい。
・福島産の食品が危ないと言われるが、福島産でなければ、安全ということにはならない。
・1キロあたり300ベクレル検出されたキノコでも、ゆでてそのゆで汁を捨てるなどして、放射能を10分の1にすることができる。
 それでも1キロあたり30ベクレル。
 このキノコを「平気、食べられる。」という人と「いや、1ベクレルでも放射能が含まれているキノコは食べられない。」という人に分かれると思う。
 どちらを選ぶかは、消費者次第です。
・別の考え方をすると、後者は理想。(個人が被爆するのを防ぐ。)
 前者は、日本の経済を考えると、手助けになっている。(いわゆる「食べて応援」。日本の景気を支える。)
 
 さまざまな考えがあると思います。
(私の立場としては、念のため定期的にペクチンサプリを飲んで、体内の放射能を排出するのが、安価で実行できる被曝対策だと考え、チロ基金の活動をベラルーシで続けているわけです。)
 
   

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第231回」

2018-09-19 |  ビタペクト配布活動
 9月19日にビタペクト3と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第231回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はビタペクトを6個を渡しました。  
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は2636個、セルロースの合計は150個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは2193部となりました。
 今回で通算247回目の配布となりました。
 延べ人数ですが、2636人の子どもにビタペクトを、約143人の子どもにセルロースを、2193家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。


(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)


http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html



(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/bb1fb7afb4cac464789e2684181e7d42


(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%89%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80


 チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。

 今回は2家族が保養滞在していました。

<家族A>
 
 モギリョフ州オシポビッチ地区リペニ村(チェルノブイリ原発から約240キロ)から来た家族。この家族は2008年8月と2014年2月にもSOS子ども村に保養滞在したことがあります。そのときの様子はこちらをご覧ください。
チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第78回」(家族A)
チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第160回」(家族A)

 家庭タイプ型孤児院の家庭で、お母さんと里子6人が一緒に保養に来ていました。この家族には2個のビタペクトを渡しました。
 それぞれの体内放射能値は次のとおりです。○印の子どもにビタペクトを渡しました。前回の滞在のときに測定した人の結果も表記しています。

母親(事故発生時25歳)18ベクレル → 8ベクレル (今回測定せず)
男子(16歳)38ベクレル ○ → 38ベクレル ○ → 10ベクレル
男子(15歳)12ベクレル
男子(14歳)18ベクレル → 16ベクレル
女子(14歳)12ベクレル
母親(事故発生時3歳)13ベクレル
女子 (7歳)20ベクレル ○
女子 (4歳)30ベクレル ○

 もう一人「お母さん」がいますが、この人は引率していたお母さんの里子の一人で、現在は結婚し、7歳と4歳の実子がいます。
 祖母と娘(里子)と孫も、いっしょに保養に来た、という形です。

 子どもたちの健康状態についてもお母さんにお聞きしました。子ども達は比較的健康だそうです。
 16歳の男の子は背骨が歪んでいるそうですが、特に治療は受けていないということでした。


(家族B)

 オシポヴィチ市(チェルノブイリ原発から約230キロ)から来た家族。
 お母さんが6人の里子を引率していました。この家族には4個のビタペクトを渡しました。
 このお母さんは2009年2月にも里子を連れて保養滞在したことがありますが、当時の里子は「卒業(独立)」し、今回は初めてSOS子ども村で保養滞在するこどもたちばかりでした。
 それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果は以下のとおりです。○印の子どもにビタペクトを1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時26歳)12ベクレル → 13ベクレル
女子(17歳)20ベクレル ○ 
女子(16歳)12ベクレル  
女子(14歳)27ベクレル ○ 
男子(13歳)17ベクレル 
男子(11歳)20ベクレル ○
女子(11歳)20ベクレル ○ 

 お母さんに子どもたちの健康状態についておききしました。
 17歳の女の子はよく鼻血が出るので、医者に相談したら、ビタミンCのサプリを飲むように言われて、それを飲んでいるが、あまり改善されていない、ということでした。
 また17歳の女の子と14歳の女の子は偏平足だそうです。
 13歳の男の子は斜視で、それを治すめがねをかけたり、目の体操などをし続けた結果、ほとんど治りました。お母さんの努力が大きいですね。
 
 今回も子どもたちに折り紙、折り鶴、日本語で子どもの名前を書いたカードなどをプレゼントしました。
 折り紙にすごく興味を示して、すぐ作り始めていました。
 さらに「日本のことで、何か知りたいことはないですか?」と尋ねたら、
「天皇制について教えてください。」
と男子小学生にきかれたので、びっくりしました。
 (頭のいい子たちばかり、という印象です。)

 画像は記念撮影した様子です。
 ただ、家族Aのもう一人のお母さんと年長の子ども達は通学などにより、ここには写っていません。
 保養滞在中でもちゃんと学校へ行くんですね。  


 最後になりましたが、ビタペクトの購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に深くお礼申し上げます。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。