ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

相模原障害者施設殺傷事件とテロについて

2016-07-31 | Weblog
 日本で社会的な重大な事件のニュースを夫や娘に「今日、日本でこんなことがあったんだよ。」と話すことがあります。
 しかし7月26日に発生した相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件については、すぐに話したくなく、もう少し詳細が分かってから・・・と思っていました。
 ところが、最近ヨーロッパ各地で無差別テロ事件が起こっているせいで、こちらのマスコミも「日本でも無差別に大量殺人を狙ったテロか?」と敏感になっているらしく、すぐにニュースになりました。
 それをテレビで見て、私の話より先に事件を知った夫と子ども・・・。

 これはイスラム国による宗教テロではない、と私から話をし、それにしても毎日毎日大勢の人が殺されてしまうニュースばかり世界のあちこちから流れてくるのはどうしてなのかと全く暗い気持ちになりました。

 その後あれこれ考えたのですが、日本の事件のほうは、宗教は関係なくテロでもなく、大量殺人事件なのですが、根本は同じだと思いました。

 この事件の容疑者は「重度の知的障害者は死んだほうがいい」という理由で、無抵抗の施設入所者を次々と殺害しました。
 事件の前には「障害者を安楽死させられる法案を出せ」などと書かい手紙を持って、衆議院議長公邸を訪れてたり、周囲の人に「重度の知的障害者は不幸。」「いっしょに殺さないか。」などと持ちかけていました。
 容疑者には薬物を使用していた疑いもありますが、それにしても、周到に凶器を用意し、ある意味ににおいてはとても知的に緻密な計画を立てていました。さらにはそれをできる限り実行しようとする、強い意思の持ち主・・・。

 テロを起こす犯人と同じ人物像に思えます。
 バングラデシュでの人質立てこもり事件では、人質がイスラム教徒かどうか確認し、非イスラム教徒はすぐに殺害していました。
 この犯人からすれば「イスラム教徒でなければ殺したほうがいい。」という考えです。
 相模原の事件の犯人は「重度の知的障害者は殺したほうがいい。」という考えでそっくりです。
 ヒトラーに当てはめると「ユダヤ人は殺したほうがいい。」です。

 自ら望んで非イスラム教徒に生まれた人はいませんし、障害者になった人もいませんし、ユダヤ人に生まれた人もいません。
 つまり自分で決められないことや努力では変更できないことを条件に当てはめて、殺されてしまうわけです。
 そうなると「そんな理由で殺されるなんて、理不尽だ!」と多くの人は感じます。

 しかし殺す側からすると、社会のために非常によいことをしていると思っているのではないでしょうか。
 「世界の全ての人がイスラム教徒という世界。ああ、すばらしい。」と考えているイスラム国のテロリスト。
 「社会のお荷物である障害者を絶滅させる俺は善行を成し遂げることになるのだ。」と相模原の事件の容疑者は思い込んでいたのではないでしょうか。
 
 要するに「この世をよくするための社会貢献としての殺人」です。目標が立派なので、自分は悪いことをした、などとは思わないでしょう。

 問題なのはどうしてこういう極端な考えに走って、さらに凝り固まってしまう人が出てくるのか? という点です。
 その原因についてはこれからいろんな推測や、専門家の見解などがマスコミに出てくるでしょう。

 私がふと思ったのは、テロ事件にしろ相模原の事件にしろ、どうしてそこまで自分が理想とする美しくより完璧な社会を渇望するのだろう、という点です。
 確かに多くの人は、自分の周りの社会によく文句を言っています。不景気が云々、治安が云々。そしていつの時代でも「ああ、もっといい世の中にならないものか。」と思いながらみんな日々の生活を送っています。
 「この世をよくするためにその邪魔になっているものは排除する。それは何と言っても重度の知的障害者だ。」と思い立って、包丁を手にする・・・というようなことは、普通の人はしません。

 逮捕されたり、射殺されたり、死刑になるのが分かっていながらも、極端な「浄化思想」「排除思考」に走ってしまうのは、どうしてなのでしょう。
 
 人間は基本的に美しく安全な社会がを求めます。そうでないと、人類の歴史の中に文明など生まれなかったでしょう。しかしこの基本的な考えも行き過ぎると、テロになったり多くの人は理解できない理由での大量殺人が起きてしまうように思えました。
 つまり極端な理想主義は危険だ、ということです。

 と考え始めると今度は選挙などで、候補者が「私はこの国をよりよくするためにこれこれのことを公約します!」と大声で言っているのが、極端な思想に思えてきました。(笑)
 「世の中をよくするために、ああしなさいこうしなさい。」と子どもに繰り返し教えるのも、危ない教育ではないかとも思えてきました。

 もちろん、人間社会がよい方向へ進んでほしいと願うのをやめろ、と言っているわけではありません。
 極端な理想主義に凝り固まると、かえってよくないのでは・・・だから自分を自粛することもときには大切なのではないかと思った次第です。何でもかんでも「それは社会が悪いから。」「今の世の中が世知辛い」とか文句を言うのも、裏返して言えば理想的な世界を欲している心の裏側の気持ちなのでは、と思います。
 そういった気持ちをみな多かれ少なかれ抱えていると思います。
 相模原事件のような犯罪を実際に起こしてしまう人間はもちろんごくごく少数です。
 でもこのような犯罪者と、わずかでしょうが共通する気持ちをほとんど全ての人間が持っているのではないかと思いました。

 美しいものを求める美しいはずの心が、美しくないと自分の基準で判断したものを消したくなり、本当は美しい心ではなかった・・・ということです。

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 話は少しそれますが、相模原の事件の容疑者は「自分が事件を起こせば、それをきっかけにして法律も変わる。」と信じているようですが、この法律と言うのは、障害者を安楽死させる法律だそうです。

 実際、この事件のニュースを聞いて
「そうだよなー、共感できる。重度の障害者なんて社会のお荷物。殺すのはよくないけど、いなくなるほうが他の人の負担も減るし、正論だよ。」
と考える人が増えたかもしれません。
 こういう人が増えることは本当にいやなことだと、今障害を持っている人や、その家族、支援団体者など関係者は思っているでしょう。
 私自身も、障害者が社会のお荷物だなんてそんなことない、仕事をがんばっている人もいるし、身近にそんな人いないと言う人もテレビでパラリンピックを見てよーと思います。

 すると「いや、お荷物なのは仕事もできない、常に介護が必要で、社会貢献も何もできないような重度の障害者のことですよ。」と反論する人もいるでしょう。
 実際に相模原事件の容疑者も重度の障害者を優先して殺害すると決めていたようですね。

 でも本当に重度の障害者が社会のお荷物なのか? と私は疑問に思います。健常者でも無職の人はいるし、社会に貢献していないだけで安楽死、というなら、犯罪者はほぼ全員安楽死させないといけませんね。
 だいたい、健常者のあなたがある日突然、自分の落ち度ではない事故にあって、重度の障害者になったとたん、「はい、今日からあなたの存在は社会のお荷物になりましたので、安楽死していただきます。」と言われたら、どんな気持ちになりますか?

 「何のために生まれてきたのかな? かわいそー。」と言われていそうな障害者であっても、その存在そのものが、他者に大切な何かを教えてくれたり、気づかさせてくれたりするかもしれないのです。つまりすでに貢献している。
 健常者がつい無頓着になりがちな心や、驕りがちになる心を戒めてくれる、研磨剤ような存在、これが一見何もできないような障害者がこの世に存在している理由だと私は思います。
 そのために神様が世界に配置した特別要員なのだと思います。

 だから、障害者はいなくなるほうがいいと思わないでください。
 そういう考えはテロリストと根っこの部分は同じです。