新美南吉生誕100年のこの年、必死になって翻訳作業、推敲作業、さらにはいろんな編集部に掲載依頼のため、走り回っていたころであった、5月9日(ベラルーシでは第二次世界大戦の戦勝記念日)「ごんぎつね論争勃発」なる記事が出ました。
読んだ人もいると思いますが、せっかくなのでこのブログでもご紹介します。
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小学生が書いた「ごんぎつね」の感想で議論勃発 ごんは撃たれて当たり前?
小学校の国語の教科書では定番の童話「ごんぎつね」。この物語に対する1人の小学生の感想が、2ちゃんねるのスレッド「姪っ子のごんぎつねの感想が問題になっているんだが……」で議論を呼んでいます。
覚えていない方のために簡単にあらすじをご紹介。いたずら好きなきつねのごんは、ある日兵十が病気の母親のために用意したウナギをわざと逃がしてしまいます。ところが、その後母を失って落ち込む兵十を見てごんは反省、償いのために魚や栗を兵十の家に届けはじめます。しかし、そうとは知らない兵十はごんがまたいたずらをしにきたのだと勘違いし、ごんを火縄銃で撃ってしまう。そこではじめてごんが食べ物を運んでくれていたことに気付くというお話です。
多くの子供は「ごんがかわいそう」という感想を持ったようですが、投稿者の姪は「やったことの報いは必ず受けるもの」「こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない、(兵十はごんの反省を知らないのだから)撃たれて当たり前 」とシビアな感想を抱いたようです。この感想が学校で物議を醸しているそうで、スレッド内でも大きな議論に発展しています。
「小学生でそこまで考えられるのは凄い」「撃たれて当たり前って言うと物騒な子だと受け取るかも知れんが、これはこれで筋が通ってる」とこの感想を肯定的に評価する声がある一方、「ごんぎつねが悪いとしてもごんぎつねだって可哀想だろ」「ごんの気持ちも考えるように指導するのが大人」といった意見も。「感想」に対して問題があると指摘すること自体がおかしいという意見も多く出ていました。さまざまな捉え方ができるこの物語、あなたはどう思いますか?
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というわけで、この記事を読んだあなたはどう思いますか?
まず、私の一番の感想ですが、
「この記事書いた人! ここまであらすじを書くんだったら、ごんぎつねの作者は新美南吉だって、書いておいてよ! 今年生誕100年なんだからさ・・・!」
・・・でした。(^^;)
で、改めてごんぎつね論争についてですが、私も小学生のとき、教科書で読みましたよ、ごんぎつね。私の同級生には、このようなシビアな意見の子はいませんでしたね。(時代が変わったのか・・・。)
私も「死んじゃったごんがかわいそう。」と思いましたが、それ以上に、火縄銃を取り落とした兵十が、これからものすごく後悔するんだろうな・・・と思うと、胸が苦しくなる、と言うかどっちにとっても気の毒な終わり方の話なんだと思っていました。
この論争の元になる発言をしたという女の子ですが、私は「これはこれで筋が通っている。」と思いましたよ。
と言うのも、「ごんぎつね」のロシア語訳を読んだベラルーシ人は、どっちかと言うと、この女の子の考えに近い感想を持つようなのです。
南吉童話の作品のベラルーシ人の感想はちらほら集まってきており、まとめて翻訳して、新美南吉記念館にお渡しする予定です。
でもタイミングよく(?)日本のネット界でごんぎつね論争が起きたので、この場でもベラルーシ人の感想を紹介します。
すでに2作品「でんでん虫の悲しみ」「あめ玉」ロシア語版を掲載してくれた雑誌「ビブリヤテカ・プラパヌエ」の編集部長さんと副編集部長さんに「ごんぎつね」のベラルーシ語版も掲載してほしいとお願いし、原稿を渡してあるのですが、それを読んだ2人と私合わせて3人で、実はベラルーシでもごんぎつね論争をしていたのです。
内容はこんな感じです。
編集長(以下「編」)「ごんぎつね読んだ後、涙が出た。」
副編集長(以下「副編」)「本当にいい話ですね。」
私「日本ではこの話は小学4年生の教科書に載っていて、まあ、日本の子どももこの話を読んで、涙するわけです。」
編「小学4年生の教科書? 内容はとても子ども向けではないですね。」
副編「死が強くテーマになっていますからね。兵十の母親のお葬式のシーンや、人間が動物を撃って殺したり・・・。」
私「児童文学だけど、宗教的な要素が多いですね。」
編「日本は仏教の国でしょ。動物に対する殺生は罪ではないの?」
私「罪ですよ。でもこのごんぎつねは、本当は動物ではなく、人間だと思います。本物の狐は栗を持って二本足歩行できないでしょ。」
副編「お伽話の中の動物の登場人物と同じで、動物の姿を借りている人間、ということですね。」
私「と言うことは兵十がごんを殺した殺人事件・・・。」
編「命もテーマになっていると思います。うなぎが食べられなかったから、兵十の母親は死んでしまい、つまりここで一つの命が消えてしまう。この一つの命の償いのために、ごんの命が一つ差し出された、という考えができますね。」
私「つまり贖罪がテーマの話ですね。でもごんはうなぎが食べたくて、盗んだのではないですね。他の魚も川に逃がしていたということは、魚の命をごんが救ったことになりますよ。うなぎも逃がそうとしていたようです。結果的に殺しちゃったけど、食べていない。」
編「でも兵十の母親が死んだのは自分のせいだと反省している。」
私「同じ一人ぼっちの境遇になった兵十に対して、親近感も感じています。本当は友だちになりたかったのかも。」
副編「でも人間と動物だから、共通言語がないことになっています。ごんが動物ではなく人間、という設定だったら、こんな
悲劇は生まれなかった。」
私「そうそう。言葉で説明できないから、こそこそ栗を持って行くしかなかったんですよね。その証拠に姿を見られたとたん、弁解の機会が与えられることなく、すぐ殺されてしまう・・・。」
編「罪を償うために栗やきのこを持って行っているけど、兵十が友だちから『それは神様からの贈り物だ。神様に感謝したらいい。』と言われたのを聞いて、ごんは本当に栗を持って行っているのは自分なのに、と不満に思っている。純粋に罪を償うつもりなら、自分ではなく神様に感謝する兵十に不満を感じることもないはず。」
副編「大体、神様には常に感謝しなくてはいけないですよ。」
私「こういうことをベラルーシでは子どもに教えているのですね。キリスト教の国だからでしょうか。」
編「そうですよ。神様に感謝するようにお話の中で教えることが大事です。だのに、それに対して反対の立場を取ったことに対する天罰として、ごんは殺される運命になった、という見方もあると思います。」
副編「動物は人間と比べて愚かで、神に感謝しないといけない、ということが分かってない。逆に人間である兵十やその友達は、宗教的に成熟しており、素直に神に感謝を捧げようとする。つまり、動物みたいに神様に感謝しないというのはだめですよ、とこのお話で、作者は読者を教育しようとしているのでは。」
私「うーん、日本はキリスト教の国ではなく、作者もクリスチャンではないので、そういう意図でこの作品を書いたのではないと思います。日本人の考える神様は、キリスト教の絶対神ではなくて、ヨーロッパ人の感覚で言えば精霊に近い感じです。」
編「じゃあ、天罰ではないってことですね。」
私「日本文学や童話に出てくる神様はもっと身近な親しみやすい存在ですね。最後に兵十が『ごん、お前だったのか。』ときくけれど、それに対してごんがうなずきますよね。もう死にかかっているのだから、何も言わずにあの世に答えを持って行くこともできたはずなのに、うなずく。これはやっぱり、神様じゃなくて自分こそが栗を持ってきていたことを兵十に認めてもらいたかった、心の表れだと思います。」
編「純粋な罪の償いの気持ちだけ持っていたなら、別に自分が持って来ていたことを兵十が知っていようが知っていまいが、どっちでもいいこと。なのに、最後の最後で、『自分が』というのが出てきて、兵十に伝えようとする。知ってもらおうとする。」
副編「純粋な贖罪の話ではないですね。」
私「罪滅ぼしがテーマではなく、ごんと兵十という2人の登場人物のコミュニケーションのあり方のほうにテーマの比重があると思います。」
編「この2人の間にはまるでコミュニケーションがないけどね。動物と人間で言葉も通じてない、という設定だし。共通の言葉を持たない者同士のコミュニケーションですね。」
私「成り立っていないコミュニケーションから発生する悲劇がテーマのように感じます。ごんと兵十が会話できていたら、ごんは死んでいなかったはず。」
編「死なないと理解し合えない、という状況の中、話が終わってしまいます。」
副編「とてもいい話だけど、やっぱり子ども向けの話ではないですね。大人向けの話だと思います。」
編「子どもは親や先生、大人といっしょに読むほうがいいと思います。」
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日本ではごんぎつねは、キリスト教的贖罪の話、として捉える考えもあるのですが、キリスト教徒のベラルーシ人は、そのようには感じなかったようです。
ともあれ、いろんな見方ができることが名作の条件だと私は思うのですが、みなさんはどうでしょうか?
読んだ人もいると思いますが、せっかくなのでこのブログでもご紹介します。
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小学生が書いた「ごんぎつね」の感想で議論勃発 ごんは撃たれて当たり前?
小学校の国語の教科書では定番の童話「ごんぎつね」。この物語に対する1人の小学生の感想が、2ちゃんねるのスレッド「姪っ子のごんぎつねの感想が問題になっているんだが……」で議論を呼んでいます。
覚えていない方のために簡単にあらすじをご紹介。いたずら好きなきつねのごんは、ある日兵十が病気の母親のために用意したウナギをわざと逃がしてしまいます。ところが、その後母を失って落ち込む兵十を見てごんは反省、償いのために魚や栗を兵十の家に届けはじめます。しかし、そうとは知らない兵十はごんがまたいたずらをしにきたのだと勘違いし、ごんを火縄銃で撃ってしまう。そこではじめてごんが食べ物を運んでくれていたことに気付くというお話です。
多くの子供は「ごんがかわいそう」という感想を持ったようですが、投稿者の姪は「やったことの報いは必ず受けるもの」「こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない、(兵十はごんの反省を知らないのだから)撃たれて当たり前 」とシビアな感想を抱いたようです。この感想が学校で物議を醸しているそうで、スレッド内でも大きな議論に発展しています。
「小学生でそこまで考えられるのは凄い」「撃たれて当たり前って言うと物騒な子だと受け取るかも知れんが、これはこれで筋が通ってる」とこの感想を肯定的に評価する声がある一方、「ごんぎつねが悪いとしてもごんぎつねだって可哀想だろ」「ごんの気持ちも考えるように指導するのが大人」といった意見も。「感想」に対して問題があると指摘すること自体がおかしいという意見も多く出ていました。さまざまな捉え方ができるこの物語、あなたはどう思いますか?
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というわけで、この記事を読んだあなたはどう思いますか?
まず、私の一番の感想ですが、
「この記事書いた人! ここまであらすじを書くんだったら、ごんぎつねの作者は新美南吉だって、書いておいてよ! 今年生誕100年なんだからさ・・・!」
・・・でした。(^^;)
で、改めてごんぎつね論争についてですが、私も小学生のとき、教科書で読みましたよ、ごんぎつね。私の同級生には、このようなシビアな意見の子はいませんでしたね。(時代が変わったのか・・・。)
私も「死んじゃったごんがかわいそう。」と思いましたが、それ以上に、火縄銃を取り落とした兵十が、これからものすごく後悔するんだろうな・・・と思うと、胸が苦しくなる、と言うかどっちにとっても気の毒な終わり方の話なんだと思っていました。
この論争の元になる発言をしたという女の子ですが、私は「これはこれで筋が通っている。」と思いましたよ。
と言うのも、「ごんぎつね」のロシア語訳を読んだベラルーシ人は、どっちかと言うと、この女の子の考えに近い感想を持つようなのです。
南吉童話の作品のベラルーシ人の感想はちらほら集まってきており、まとめて翻訳して、新美南吉記念館にお渡しする予定です。
でもタイミングよく(?)日本のネット界でごんぎつね論争が起きたので、この場でもベラルーシ人の感想を紹介します。
すでに2作品「でんでん虫の悲しみ」「あめ玉」ロシア語版を掲載してくれた雑誌「ビブリヤテカ・プラパヌエ」の編集部長さんと副編集部長さんに「ごんぎつね」のベラルーシ語版も掲載してほしいとお願いし、原稿を渡してあるのですが、それを読んだ2人と私合わせて3人で、実はベラルーシでもごんぎつね論争をしていたのです。
内容はこんな感じです。
編集長(以下「編」)「ごんぎつね読んだ後、涙が出た。」
副編集長(以下「副編」)「本当にいい話ですね。」
私「日本ではこの話は小学4年生の教科書に載っていて、まあ、日本の子どももこの話を読んで、涙するわけです。」
編「小学4年生の教科書? 内容はとても子ども向けではないですね。」
副編「死が強くテーマになっていますからね。兵十の母親のお葬式のシーンや、人間が動物を撃って殺したり・・・。」
私「児童文学だけど、宗教的な要素が多いですね。」
編「日本は仏教の国でしょ。動物に対する殺生は罪ではないの?」
私「罪ですよ。でもこのごんぎつねは、本当は動物ではなく、人間だと思います。本物の狐は栗を持って二本足歩行できないでしょ。」
副編「お伽話の中の動物の登場人物と同じで、動物の姿を借りている人間、ということですね。」
私「と言うことは兵十がごんを殺した殺人事件・・・。」
編「命もテーマになっていると思います。うなぎが食べられなかったから、兵十の母親は死んでしまい、つまりここで一つの命が消えてしまう。この一つの命の償いのために、ごんの命が一つ差し出された、という考えができますね。」
私「つまり贖罪がテーマの話ですね。でもごんはうなぎが食べたくて、盗んだのではないですね。他の魚も川に逃がしていたということは、魚の命をごんが救ったことになりますよ。うなぎも逃がそうとしていたようです。結果的に殺しちゃったけど、食べていない。」
編「でも兵十の母親が死んだのは自分のせいだと反省している。」
私「同じ一人ぼっちの境遇になった兵十に対して、親近感も感じています。本当は友だちになりたかったのかも。」
副編「でも人間と動物だから、共通言語がないことになっています。ごんが動物ではなく人間、という設定だったら、こんな
悲劇は生まれなかった。」
私「そうそう。言葉で説明できないから、こそこそ栗を持って行くしかなかったんですよね。その証拠に姿を見られたとたん、弁解の機会が与えられることなく、すぐ殺されてしまう・・・。」
編「罪を償うために栗やきのこを持って行っているけど、兵十が友だちから『それは神様からの贈り物だ。神様に感謝したらいい。』と言われたのを聞いて、ごんは本当に栗を持って行っているのは自分なのに、と不満に思っている。純粋に罪を償うつもりなら、自分ではなく神様に感謝する兵十に不満を感じることもないはず。」
副編「大体、神様には常に感謝しなくてはいけないですよ。」
私「こういうことをベラルーシでは子どもに教えているのですね。キリスト教の国だからでしょうか。」
編「そうですよ。神様に感謝するようにお話の中で教えることが大事です。だのに、それに対して反対の立場を取ったことに対する天罰として、ごんは殺される運命になった、という見方もあると思います。」
副編「動物は人間と比べて愚かで、神に感謝しないといけない、ということが分かってない。逆に人間である兵十やその友達は、宗教的に成熟しており、素直に神に感謝を捧げようとする。つまり、動物みたいに神様に感謝しないというのはだめですよ、とこのお話で、作者は読者を教育しようとしているのでは。」
私「うーん、日本はキリスト教の国ではなく、作者もクリスチャンではないので、そういう意図でこの作品を書いたのではないと思います。日本人の考える神様は、キリスト教の絶対神ではなくて、ヨーロッパ人の感覚で言えば精霊に近い感じです。」
編「じゃあ、天罰ではないってことですね。」
私「日本文学や童話に出てくる神様はもっと身近な親しみやすい存在ですね。最後に兵十が『ごん、お前だったのか。』ときくけれど、それに対してごんがうなずきますよね。もう死にかかっているのだから、何も言わずにあの世に答えを持って行くこともできたはずなのに、うなずく。これはやっぱり、神様じゃなくて自分こそが栗を持ってきていたことを兵十に認めてもらいたかった、心の表れだと思います。」
編「純粋な罪の償いの気持ちだけ持っていたなら、別に自分が持って来ていたことを兵十が知っていようが知っていまいが、どっちでもいいこと。なのに、最後の最後で、『自分が』というのが出てきて、兵十に伝えようとする。知ってもらおうとする。」
副編「純粋な贖罪の話ではないですね。」
私「罪滅ぼしがテーマではなく、ごんと兵十という2人の登場人物のコミュニケーションのあり方のほうにテーマの比重があると思います。」
編「この2人の間にはまるでコミュニケーションがないけどね。動物と人間で言葉も通じてない、という設定だし。共通の言葉を持たない者同士のコミュニケーションですね。」
私「成り立っていないコミュニケーションから発生する悲劇がテーマのように感じます。ごんと兵十が会話できていたら、ごんは死んでいなかったはず。」
編「死なないと理解し合えない、という状況の中、話が終わってしまいます。」
副編「とてもいい話だけど、やっぱり子ども向けの話ではないですね。大人向けの話だと思います。」
編「子どもは親や先生、大人といっしょに読むほうがいいと思います。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本ではごんぎつねは、キリスト教的贖罪の話、として捉える考えもあるのですが、キリスト教徒のベラルーシ人は、そのようには感じなかったようです。
ともあれ、いろんな見方ができることが名作の条件だと私は思うのですが、みなさんはどうでしょうか?