ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

聞き取り調査

2018-02-26 | 放射能関連情報
 1986年のチェルノブイリ原発事故が起きたとき、ベラルーシの人たちはどうしていたのか、その後の健康状態はどうなのか・・・
 あくまで私の身近にいる人、偶然出会った人ですが質問してみました。
 内容は簡単ですし、対象となった人たちは医学の専門家でもありませんが、このブログでご紹介しようと思っています。

 質問事項ですが、(A)性別 (B)事故当時の年齢 (C)事故当時住んでいた場所、現在住んでいる場所 (D)事故当時起きた症状 (E)現在の症状 (F)そのほか気がついたこと ・・・となっています。

 この記事は回答が増えるたびに更新します。
 日本人の皆様に役立つ情報があれば、と思っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。(D)なし (E)甲状腺肥大、高血圧、1年中止まらない咳 (F)高血圧と咳は遺伝によるものかもしれない。

(2)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク (D)なし (E)慢性的な頭痛。顔色がいつも悪い (F)子どもが2人いるが、甲状腺肥大で2人とも投薬治療中。

(3)(A)女性 (B)20代 (C)ナロブリャ。(チェルノブイリ原発から約60キロ)1992年にミンスクへ移住命令が出た。(D)頭痛。口だけではなく喉がとても乾いている感覚があった (E)免疫力の低下 (F)もっと早く移住したかった

(4)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故が起こった日、日光浴をした (D)なし (E)数年後から肺炎を繰り返すようになり、入退院を繰り返す。今は肺炎はおさまった。顔に血管がいつも浮き出て見えている 

(5)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし (F)妹は現在甲状腺肥大で投薬治療中。

(6)(5)の息子さん。(A)男性 (B)1歳 (C)ミンスク。事故当日、散歩をしていた。
 (D)首のリンパ腺が腫れた。暗赤色の斑点が全身にできた。医者は皮膚病と考え「何なのか分からない。」と言っていたが、後で内出血であることが分かった。その後症状はおさまる。18歳のとき兵役義務で軍隊に入ったが、その頃から体が弱くなったと感じるようになった。入隊していた軍事施設の周囲に住む住民にがん患者が多い、という話がある。今でも南風が吹くと、体調が悪くなる。

(7)(A)男性 (B)4歳 (C)ミンスク。事故のことは知らなかったが、偶然事故直後モスクワの親戚のところへ行っていた。 (D)なし (E)なし (F)ゴメリ州の食品は買わないようにしている。ベリー類は測定している。

(8)(A)女性 (B)20歳 (C) ミンスク (D)事故当日頭痛。子どもの寝つきが悪かった。(E) 子どもの免疫力低下。疲れやすい。

(9)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク。事故当時実家のあるカリンコビッチ(チェルノブイリ原発から約100キロ)へ家族全員で帰っていた。実家の畑でじゃがいもを植えて、はだしで土の上を歩いていた。5月9日ミンスクへ帰宅した。
 (D)なし (E)自分は特にないが、当時6歳だった娘は甲状腺機能に異常が出ている。今1歳の孫は健康。夫は5年前脳卒中で倒れ、現在リハビリ中。 (F)実家のある村は移住の対象にはなっていない、しかし人口が減り、特に若い人が減った。村の周りの森は測定されたが、場所によって線量にばらつきがあった。この森でとれたキノコを瓶詰めにして、ポーランドへ輸出しているのを見た。

(10)(A)女性 (B)38歳 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。風がきつかった記憶がある (D)なし (E)なし 
 (F)物理学研究所で働いていたので、5月中ごろ測定してもらった。事故当時来ていた服を着てくるよう言われたので、そうしたら、測定後に「その服は汚染されているのですぐ捨てなさい。」と言われ、全部捨てた。 

(11)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故当日一日中外出していた (D)なし (E)事故から8年後甲状腺の摘出手術を受けた

(12)(A)女性 (B)14歳 (C)ペトリコフ(チェルノブイリ原発から約130キロ) 事故当日おばあちゃんの家の畑ではだしになって草刈りをしていた。 (D)耐え切れないほどの眠気におそわれた (E)なし 
 (F)事故後、登校したら校内の菜園の手入れをするよう言われ、クラス全員で草むしりなどをした。後になって地域の測定が行われたが、地域内で一番線量が高かった場所が、その学校の菜園だったことが分かった。

(13)(A)女性 (B)20歳 (C)ミンスク (D)事故当日から数日間体がぐったりし、疲労感を感じた (E)甲状腺切除の手術を受けた。今は2児の母になっているが、健康。

(14)(A)女性 (B)8歳 (C)アゼルバイジャン。2年後ベラルーシへ引っ越した (D)なし (E)なし (F)29歳だった父はチェルノブイリの事故処理作業員として呼び出しを受け、4号炉で作業をした。防護服は支給されていた。作業中は父は何も感じなかったが、いっしょに働いている人で気分の悪さを訴えている人もいた。父は今55歳だが、3回の脳卒中に倒れ、リハビリ中。障害者認定を受けている。

(15)(A)女性 (B)28歳 (C)ゴメリ。事故当日竜巻のような強風が吹いた (D)なし (E)なし (F)息子は1986年1月生まれ。ずっと体が弱く、今でもよく病気になる。甲状腺機能にも問題がある。

(16)(A)女性 (B)14歳 (C)ゴメリ。事故当日は家族そろって公園で一日中遊んでいた (D)その日の晩から胃が痛くなり、断続的な吐き気を感じた。夜中から吐き始め、朝まで眠れなかった。 (E)なし

(17)(A)女性 (B)13歳 (C)カリンコビッチ (D)なし (E)関節痛
 (F)事故から1ヵ月後、学校の生徒全員が教師引率でエストニアに保養に行った。エストニアの保養所に夏休みの3ヶ月いて、9月からカリンコビッチに戻った。保養滞在中、エストニアの人から「チェルノブイリから来た子どもたち。放射能がうつる。」と差別された。しかし子どもたちは放射能のことがよく分からず、差別発言の意味も分かっていなかった。

(18)(A)女性 (B)13歳 (C)モズィリ (D)なし (E)疲労感、倦怠感
 (F)自分の周囲で30代前半でガンを発症する人が増えており、不安

  
(19)(A)女性 (B)20代前半 (C)ミンスク (D)なし (E)胃潰瘍 
 (F)事故当日、1歳だった息子をベビーカーに乗せて外出していた。息子は一日中機嫌が悪く、むずかっていた。
 一ヵ月後、夫とその妹の夫は汚染地域へ送られた。避難した後の無人になった住宅に盗みが入らないように、見張る役だった。当時いっしょにこの監視に携わっていた人(全員若い男性)のほとんどは、現在死亡している。夫は今でも健康だが、汚染地域に行ってから急に老けてしまい、今でも実年齢より年上に見られる。
 夫は汚染地域での任務が終わった後、ロシアのレニングラード(現在のサンクト・ぺテルブルグ)にいる親戚の家へ行った。その親戚は物理学者だったが、家のドアを開けてくれず、近くのホテルに泊まるように言った。夫はそのとき初めて放射能が危険なものなのだと理解し、その後着ていた服は全て処分した。息子は現在健康。

(20)(A)女性 (B)14歳 (C)モロジェチノ (D)生まれて初めての頭痛を起こした (E)なし

(21)(A)女性 (B)12歳 (C)ブレスト (D)なし (E)なし 
 (F)私の家族は他の家族より、被爆に神経質だったので、外出は禁じられた。事故のことをマスコミが詳しいニュースにする前に学校や町で、放射能が飛んできたらしいとうわさになり、あちこちでその話を話していたが、具体的な被爆対策についての情報はなかった。

(22)(A)男性 (B)8歳 (C)ミンスク。家の前の公園で毎日遊んでいた。(D)なし (E)12歳のとき難病にかかって、1年間入院生活を送った。退院したときに身体障害者認定を受け、現在に至る。

(23)(A)男性 (B)0歳 (C)ロシア (D)なし (E)なし
 (F)チェルノブイリ原発事故が起こる3ヶ月前にベラルーシで生まれた。父がロシア人で母がベラルーシ人。両親はロシアで出会って結婚し、ロシアで暮らしていたが、母がベラルーシの実家へ里帰り出産のため戻っていた。
 自分が生まれて二ヶ月のとき、父が子どもをつれて早くロシアの家へ帰ってくるようにしきりに訴えるという夢を母が見て、胸騒ぎを感じ、予定を早めてベラルーシの実家からロシアの父の元へ帰った。直後にチェルノブイリで事故が起きたので、自分は被爆しないですんだ。
 現在自分はベラルーシで暮らしているが、WBCの結果もごくわずかな被爆にとどまっている。母の決断に感謝している。


(24)(A)女性 (B)4歳 (C)コルマ (D)なし (E)なし 
(F)コルマから7キロ離れたところにきれいな森があり、その中に小さい村があったが、事故後高い汚染が認められ、若い世代は移住していった。しかし村を離れたくないという住民は残っていたので除染をすることになり、父がその除染作業に関わった。他の人たちといっしょに森を除染したり、人工の池を掘ったりしたが、被爆しているリスクがあるから、と「手当」と称するお金を給料に上乗せされた形でもらっていた。
その結果立ち入り禁止地区だった森は現在は入ってもよくなり、この村も消えることはなかった。しかし父は現在すでに亡くなっている。被爆との関係は分からない。
コルマは移住先に選ばれ多くの人が移住してきた。コルマのもともとの住民が移住者を差別するようなことは一切なく、みんな同情していた。
子どものとき、移住者の中に女性で髪の毛が一本も生えていない人がやってきたのを見たときは驚いた。現在もこの女の人は健在でコルマに住んでおり、今ではちゃんと髪の毛が普通に生えている。


(25)(A)女性 (B)30歳 (C)スラブゴロド。事故のことは何も知らずに1歳の娘と散歩していた。
 (D)自分自身は何もなかった。夏になってから子どもを連れて、グルジアに保養に行くよう勧められ、二ヶ月滞在した後、スラブゴロドに戻った。その後、娘が急性白血病になった。
 (E)自分は良性の甲状腺種ができている。娘はモギリョフやミンスクの専門病院に入院し、現在は病弱ながらも健在。事故当時3歳だった息子は事故から7年後の10歳になった頃、乾癬を発症。今年31歳になるが完治していない。乾癬は治療方法もまだきちんと確立されていない。
 スラブゴロドの周囲にある14の村が、汚染度が高いことが分かり、家屋全部が地中に埋められた。夫はその作業に従事した。そのため5年早く55歳で年金生活に入り年金をもらっている。しかし現在はしょっちゅう体のあちこちが痛くなり、1日の終わりはぐったりしてよく横になるようになった。
 (F)事故が起きたとき、偶然近所に線量計を持っている人がいた。事故のうわさが流れてきたので、その人は自宅周辺を計測し、近所がほとんど汚染されていることを公式発表より早く教えてくれた。
 夏になってから旧ソ連の各地へ保養に行った人がたくさんいた。現在50代、60代の人で足の痛みを訴える人が自分の周りには多くいる。原因は分からない。
 「埋葬」された村に残ったりんごの木から採れた実を測定したら、ほとんど汚染されておらず、食べてよいということだったが、現在も野生の鹿やいのししの肉は汚染度が高く検査の結果、食べられないと言われることがほとんど。自分自身は子どもに牛乳をあげることをいっさいやめた。周辺の村では1986年は農作物を作ることが一切禁止された。それでもいちごを作っていた人が、検査してみると汚染されていることが分かり、泣く泣く全て廃棄処分したそうだ。
 「埋葬」された村の住民にはミンスクなど移住先が提供されたが、村ごとの移住ではなく、バラバラになってしまい、村民のコミュニティが失われてしまった。移住先の家を売ってさらにどこかへ引越しする人も多くおり、消息が分からなくなっている場合も多い。
 娘が白血病になって、ミンスクの病院に入院しているとき、医者から自主的にどこかへ移住したほうがいいと言われたが、住むところを自分で探さないといけなかったうえ、夫が反対したので移住はしなかった。現在非汚染地域であっても病気になる人は増えてきているので、どこに住んでいようが関係ないという考えを持っている。今は無理して移住しなくてよかったと思っている。
 以前すぐ近所の一戸建てに娘の同級生の一家が暮らしていた。その子は10年ぐらいその家に住んでいたと思う。その後高校を卒業し、別の町にある大学へ進学した。その頃その子の両親は自宅を売りに出すことにした。買い手候補が下見にやってきたが、その人たちは線量計を持ってきていた。そして家の周囲や中をくまなく測定したところ、非常に高い線量だったので、その人たちは家屋を除染し、家の周りの土を全部はがして、新しい土を入れた上でその家を購入し、今も住んでいる。娘の同級生は大学生になってからがんになっていることが分かり、19歳で亡くなった。生きていたら娘と同じ29歳だったはず。住んでいた家が原因で被爆しがんになったと近所の人たちは話しているが、その子の弟は今も元気に暮らしているから、結局のところ発病の原因は分からないと言わざるをえない。


(26)(A)女性 (B)15歳 (C)事故当時住んでいた場所はスルーツク、現在住んでいる場所はミンスク (D)事故のことは何も知らず日光浴をしていた。少し気分が悪かったが、熱中症かもしれない。(E)健康に問題はない。
(F)当時母が10番目の子どもを妊娠していた。事故が起きたとき、母は気分が悪いと訴えていた。子どもは生まれたが、全ての内臓の大きさが通常の2倍の大きさで、生まれて10日目に亡くなった。母にとってこれが最後の子どもだったが。上の子ども9人にはこのような異常はなく、健康に育った。


(27)(A)女性 (B)14歳 (C)ブレスト州ピンスク地区にある村 (D)なし (E)甲状腺に多数のしこりができている 
(F)事故当時、事故のことは何も知らなかった。その頃雨が降り、水溜りに黄色い膜のようなものが張っていた。さらに泡もたくさん浮いていた。花粉が大量に浮かんでいるのだろうと思ったが、不自然な感じがした。
 自分たちが住んでいた地域は比較的安全とされていた地域で、地元の牛乳がいつも店で売られていたのに、事故後ゴメリ州やモギリョフ州など汚染地域の牛乳が並ぶようになった。比較的安全と言われていた地元の牛乳はロシアへの輸出用に回されていた。
 地元のコルホーズで飼われていた牛が次々と白血病になった。病気になった牛は処分されたが、その肉は加工工場で加工されて、市場に出回った。


(28)(A)女性 (B)22歳(C)ボブルイスク (D)全身に湿疹のようなものができ、かゆくてたまらなかった。 (E)健康 (F)事故当時、妊娠初期だったので非常に心配していた。夏の間原発から離れた場所で保養するよう勧められ、サナトリウムで暮らした。生まれた子どもは健康。
 事故があった日、両親は郊外で畑仕事をしていた。頭上を変な雨雲が通過するのを見た。後から放射能雲だと分かったが、事故のことは長く知らされなかった。


(29)(A)男性 (B)13歳 (C)ミンスク (D)めまい (E)なし 
(F)事故が起きた日は同級生の誕生日で友人5人と集まってお祝いをしていた。みんなで外に出るとしばらくして小雨が降った。その後友人全員がめまいや気分の悪さを訴え、家に帰った。
 当時70代だった祖父もその日、生まれて初めてめまいを起こして自分自身驚いていた。


(30)(A)女性 (B)31歳 (C)トレスコフシナ村 (D)頭痛 (E)慢性的なせき。25年ぐらい続いていて、原因も分からず治らない。
(F)事故が起きた日は暑い日だった。日差しが尋常ではないほどまぶしかったように感じた。ちょうどその日は夫の誕生日で家に親戚が集まっていた。暑くて仕方ないので、誰も外に出たがらず、一日家にいた。親戚の多くが頭痛を訴えていた。夫は50歳代で死去。


(31)(A)女性 (B)29歳 (C)マチュリシチ (D)発熱 (E)両足の関節、骨盤部分の痛み。心臓の弁がちゃんと閉まらない病気。 
(F)事故後すぐ熱が出て、慢性的に微熱に悩まされるようになった。平熱が37度という状態が続き、病院へ行っても原因が分からない。1990年に夫の転勤に伴い、カムチャッカへ引っ越した。そのとたん熱が下がって健康になった。3年後、故郷に戻ってくるとまた熱が出て何年もたってからようやく平熱が36度台になった。

(32)(A)女性 (B)8歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし 
(F)事故が起きた日、ミンスクに放射能を含む雨が降った。その後できた水溜りを見ると、緑色をした泡が大量に表面に浮かんでいた。気持ち悪い色で今だに忘れられない。当時は放射能と言う言葉を知っている人も少なかった。何年か経ってから近所に汚染地域から移住してきた人が引っ越してきた。その人たちに、放射能ってどんなもの? ときいてみたが、ちゃんと答えられた人はいなかった。当時は多くの人が無知だった。


(33)(A)女性 (B)13歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)高血圧、心臓病、胃炎。ダイエットをしたら、改善した。 (F)事故当時はニュースにもならず、雨が降る中多くの人が外出していた。しばらくして学校へ行ったら、担任の先生が「原発で事故があり、放射能が出てしまった。」と話して初めて事故のことを知った。
 親戚が10人ほど「仕事のため」と説明してチェルノブイリ方面へ行ってしまった。約1年後全員ががんになり、時期の差はあったものの全員亡くなった。

(34)(A)女性 (B)9歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)胃潰瘍 (F)事故が起きて1ヶ月ほどして、多くの若い兵士がトラックに乗せられて、チェルノブイリへ事故処理のため移動していくのを見た。長い車列だったので、何台ぐらいになるのだろうと道端で数えていた。あまりにもトラックの数が多く、途切れないので疲れて台数を数えるのをやめた。
 しばらくして町中の店から牛乳がなくなり、売られなくなった。説明や理由はなかった。
 またしばらくして、牛乳を積み込んだ特別なトラックがやってきて、広場で量り売りを始めた。町の人たちは久しぶりに牛乳が飲めるので、喜んで容器を持って買いに行った。長蛇の列だったので、おつかいに買いに行かされた。
 弟が2人いるが、1人は事故当時生後5ヶ月で、もう1人も1年後に生まれた。妊娠中で乳児もいた母には被爆に関する情報などは何も知らされなかった。


(35)(A)女性 (B)11歳 (C)ビテプスク州ドクシツィ近くの村。ミンスク (D)なし (E)なし(F)学校では被災者のために寄付を集めることになり、おこづかいを持って行った。村から男性が事故処理作業のためチェルノブイリへ出かけていった。学校で放射能の話を先生がしていたが、ヨウ素剤を飲むような指示はいっさいなかった。ただ、天気の悪いときは外へ出ないように言われた。しばらくして汚染地域から3家族が村へ移住してきた。差別のようなことはなく、新しい住民として普通に接していた。

(36)(A)女性 (B)7歳 (C)ウクライナ北部、ゴメリ (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき、ウクライナにある祖母の家に行っていた。事故のことは何も知らずに森の中で遊んでいたら、突然強風が吹き、雨が降り出すかと思っていたが、降らなかった。しばらくして事故のことを知らされ、両親は心配してビタミン剤を買ってきて飲ませてくれた。毎年夏になると、姉妹そろって黒海沿岸地方やコーカサス地方にあるサナトリウムへ行った。

(37)(A)女性 (B)16歳 (C)ゴメリ。事故のことは何も知らず、メーデーのパレードに参加していた。とても日焼けをした。 (D)なし 
(E)事故が起きてからだいぶ時間が経ってから、事故のことを知った。母は慌ててヨウ素剤を買ってきて、飲ませてくれた。31歳のときに甲状腺の切除手術を受けた。それからホルモン剤を飲み続けている。心臓病も抱えている。
(F)事故から3年後の19歳のとき結婚し、長女が生まれた。生まれつき心臓に欠陥があり、その後卵巣にのう胞が見つかった。手術を何回か受けた。次女と三女にも持病があり、病名はばらばら。成人した長女は結婚し子どもも生まれたが、孫は健康。しかし将来病気になるのではないかと不安な気持ちは残っている。
 
(38)(A)女性 (B)10歳 (C)ピンスク。ゴメリ郊外 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき4歳だった弟は病弱。ピンスク出身の女性と結婚し、今はモスクワ郊外に住んでいるがその一人娘はアレルギー体質。弟一家は3人とも体が弱く、よく病気になっている。


(39)(A)女性 (B)7才(C)ビテプスク (D)なし (E)なし (F)事故当時妹が生後4ヶ月だった。生まれたときは健康だったが、1歳になる前、肝臓が病気になっていることが分かり、入院した。治療を受けて退院したが、今でも食事制限がある毎日を送っている。

(40)(A)男性 (B)9才 (C)ソリゴルスク、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故当時正式な発表がされる前、「原発で事故があったらしい。」という噂が流れ、母から外出しないように言われて、できる限り自宅にいるようにした。友達が遊びに誘っても断った。しばらく牛乳を飲まないようにしていた。これは数年前の話だが、伯父がミンスクから10キロ離れた森の中できのこを拾い集めた。安全な地域だったが、念のため親戚に測定をしてもらうと、針が振り切れるほどの高汚染だったので、廃棄処分した。

(41)(A)女性 (B)9才 (C)ブレスト (D)なし (E) 背中と足の慢性的な痛み 
(F)当時36歳だった父はトラック運転手として事故処理作業員となり、複数回事故現場で働いた。最後にチェルノブイリ原発へ要ったのは50才のとき。2年前63歳で腸のガンのため亡くなった。
 事故が起きてしばらくしてから汚染地域の住民がブレストに移住してきた。同じクラスの同級生だった女の子は脱毛が進み、中学3年生のときにはかつらをかぶって登校していた。移住者の子どもたちは他にも症状があったかもしれないが、心が痛む話題だったので学校内でそのことについて話すことはなかった。


(42)(A)女性 (B)15歳 (C)プレシチェ二ツィ (D)なし (E)なし 
(F)村に7家族が汚染地域から移住してきた。村民は同情しており、差別はなかった。当時35歳だった父は事故後1か月してチェルノブイリへ行った。事故処理作業員を現場から宿舎へ車両で送迎する仕事をするよう国からの命令だった。被爆を防ぐために服をこまめに交換し洗濯をするように言われていたが、それ以外の対策方法は特になかった。父はその後も病気知らずで元気だったが、56歳になってから突然腎臓病と肝臓病を同時に患い、現在に至るまで8年間闘病生活を送っている。


(43)(A)女性 (B)21歳 (C)ミンスク、プホビチ地区 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき長男を妊娠中で、非常に心配した。12月に長男は生まれたが、生まれつき心臓に雑音があり、幼少期はそれが消えることはなかった。その後雑音は消えて現在は健康に暮らしている。

(44)(A)女性 (B)15歳 (C)ウクライナのイワン・フランコフ、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故後2年目にミンスクへ移転。16歳の長男は腎臓肥大。三男はアデノイド。四男は遠視。職業は小児科医。実感として、チェルノブイリ原発事故後、子どものガン、アレルギーが増えた。特に大人には見られるけれど子どもにはなかった病気(初潮も始まっていないような年齢の女子の子宮がん、中学生男子が心臓発作、心筋梗塞を起こすなど)が起こるようになり、中高年男性の突然死も増えた。

(45)(A)女性 (B)0歳 (C)グロドノ (D)なし (E)頻脈 
(F)事故が起きたとき母は私を妊娠中だった。兄は3歳だった。母の実家はゴメリ州部だ・コシェリョフで、祖母が1人で暮らしていた。母は祖母が48歳のときに生まれた子で、事故が起きたときは祖母は70代の高齢だった。事故が起きたと分かったのは3日後。父は事故処理作業員として呼び出された。母は祖母を心配してグロドノに引き取ることにして父が運転する車で迎えに行った。放射能に関する知識もなかったので、3歳の兄も連れて行った。
 祖母をグロドノへ避難させた後、父は事故処理作業のためチェルノブイリへ向かったが、その後書類手続きの不備で事故処理作業員であると言う証明がもらえなかったので、補償も受けられなかった。父は現在63歳で高血圧で悩んでいる。
 避難した祖母はその後胃がんになりおよそ1年後グロドノで亡くなった。
 3歳だった兄は5年後、病気になった。今年33歳になるが、心臓病、高血圧、不整脈といった病気を抱えている。免疫力が低くよく風邪を引いている。私自身は頻脈。3人の子どものうち1人は生まれつき心臓の壁に穴が二つ開いており頻脈。


(46)(A)女性 (B)8歳 (C)バラノビッチ (D)なし (E)特になし 
(F)事故当時は報道もなくしばらく普通に暮らしていたが事故のことが明るみに出て数日学校が休校になった。父は事故処理作業員として原発へ向かった。9年後17歳で結婚・妊娠した。検査をしたら胎児に脊髄がないこと、脳に腫瘍があると認められ死産になるからと中絶した。4年後妊娠し、元気な子どもが生まれた。さらに3年後再び妊娠。そのときも第1子同様、胎児に脊髄の一部がなく脳腫瘍があると言われて中絶。1年後4回目の妊娠。このときは健康な子どもが生まれた。2人の胎児に異常が出た原因は分からない。自分自身気になり遺伝子の検査を受けたことがあるが異常は見つからなかった。
 今年65歳になる父は10年前に喉に腫瘍ができたが良性で現在も健康。


(47)(A)女性 (B)21歳 (C)ブレス都市近郊の村。(D)なし (E)甲状腺がん (F)第1子を妊娠中事故が起きた。5ヵ月後出産。娘は健康でその子どもも健康。
 ブレストはポーランド国境に近い町で、さまざまな物資がブレストの駅を通る。チェルノブイリで事故が起きる前その駅の引込み線で高い線量の放射能が外国人によって偶然検出されたが、公式な原因の発表はなかった。地元住民は「ソ連からポーランド(あるいはその先にある国)にウラン鉱石が運ばれたからだ。」とうわさしたが真偽のほどは分からない。その後その引込み線は廃止され、現在は別の場所に引込み線が作られている。知らなかっただけで原発事故が起きるずっと前からいろんな場所が放射能汚染されていたのではないか。


(47)(A)女性 (B)4歳 (C)ボリシエ・ビコロビチ村(ウクライナ国境近く。チェルノブイリ原発から約220キロ) ブレスト (D)なし (E)頭痛 
(F)事故が起きてから3年後小学校に入学した。外国の支援で給食にたくさんのバナナやオレンジが出て、毎日たくさん食べていた。学校内で何回かWBCの測定を受けたことがある。ドイツやオランダ、ロシアなどに保養に子どもは集団で毎年行っている。村には80人ぐらい子どもが住んでいるが、健康な子供はほとんどいない。
 事故後40代50代の女性のガンが増えた。母も子宮がんになり手術を受けた。細胞検査の結果は「未知の種類のがん細胞。」
 父は4人の兄弟姉妹がいるが、全員ガンになった。みんな同じ村に住んでいる。
 35歳になる姉は慢性頭痛。いとこは甲状腺肥大。中年のがん、糖尿病、甲状腺の病気がとても多い。
 村でとれた牛乳は放射能の検査を受けている。基準値以下だと販売に回される。基準値以上だと正規の販売ルートでは売れないので、村のご近所さんに安く売っておりみんな基準値以上だと理解した上でそれを飲んでいる。

(48)(A)女性 (B)4歳 (C)ブレスト州ドロギチン地区、ボブルイスク(D)なし (E)なし (F)事故当時30歳だった母は同じ地区にに住み続けていた。2年前58歳にガンで亡くなった。事故前この地区でガンでなくなる人はほとんどいなかった。母がなくなった同じ年、1年間で、母の同級生4人がガンでなくなった。

(49)(A)女性 (B)18歳 (C)モギリョフ (D)なし(E)甲状腺種。関節痛。(F)当時おじが長距離トラックの運転手をしていた。事故が起こった次の日、ちょうどウクライナからベラルーシへおじが戻ってきた。すると、「原発で何かあったらしい。外出しないほうがいい。」と言われて、5月1日のメーデーの行進には行かなかった。おじさんに感謝している。政府は原発事故をすぐにニュースにして、避難は無理でも、国民全員に外出しないように言うべきだった。

(50)(A)女性 (B)9歳 (C)ゴメリ市 (D)特になし。3年後に甲状腺肥大。 (E)婦人科系の病気 (F)事故が起きたとき、外出していた。突然竜巻が起こった。黄色に濁った水溜りを見た。夏休みの間、ロシアへ3ヵ月間保養に行った。新学期が始まり、しばらくすると、学校の給食に海草が毎日のように出るようになった。
 親戚の一人が当時ブラーギン地区で道路工事作業をしていた。現在甲状腺がんと戦っている。別の親戚は当時チェルノブイリ原発の空調設備の管理をしていた。事故前日定時に帰宅し、翌朝、出勤しないように言われ、その後ロシアにある原発に配属された。その後被災者認定を受けている。健康状態はよいらしい。

(51)(A)女性 (B)11歳 (C)モギリョフ州ムィシコヴィチ (D)なし (E)血圧が安定しない。 
(F)事故が起きたことはすぐに知らされなかった。しばらくすると汚染地域に指定され、牛乳を飲むことが禁止された。その後「きれいな」牛乳が商店で売られるようになり、食肉が商店から消え、代わりに缶詰を食べることを奨励された。
 夏休みになって、母が私をロシアのエカテリンブルグに住んでいる祖母の下へ疎開させた。エカテリンブルグに到着すると、「チェルノブイリ地域から来た子ども」と言うことで、被曝していないか検査を受けた。その結果、私がはいていたサンダルは、非常に高い数値を示したので、その場で廃棄処分が決められた。祖母は急いで新しいサンダルを買ってくれた。それがおしゃれだったので気が晴れた。夏休みが終わって、家に帰ることになっても、母は、「ベラルーシに戻ってこない方がいいのでは。」とまで、言って少しでも長くエカテリンブルグにいてほしいとを話していたが、結局新学期に合わせて帰った。
 その後すぐではないが、母はがんで死去。今22歳の長男は体のあちこちに病気があり、ホルモンの状態など検査したが、異常はないと医者に言われて、特に治療を受けていない。

(52)(A)女性 (B)25歳 (C)モギリョフ州ヴェプリン村。キロフスク市 (D)なし (E)腫瘍ができ、腎臓を一つ摘出。 
(F)生まれ故郷の村は1999年に汚染地域に指定され、当時住んでいた村人、約1000人は強制移住させられた。移住先はチェリコフ市。しかしその町も汚染されていて、「希望したければ自由に出て行ける地域」とされていた。今はチェリコフ市は「きれいな」町ということになっている。自分はチェリコフ市に住んでいたが、現在はキロフスク市に一軒屋を建てたので引越しした。

リアルマン・レース

2018-02-24 | ベラルーシ文化
「冬季オリンピック? 見飽きたね。」
という奇特な方、暇を持て余している方はご覧ください。

氷点下10度の寒さなんてへっちゃら? 半裸の男たちが駆け抜ける「リアルマン・レース」

・・・というものが2月23日ミンスク市内で行われました。


【2月24日 AFP】ベラルーシの首都ミンスクで23日、「祖国防衛軍の日」を記念して「リアルマン・レース(Real Man Race)」が開催され、約1000人の男性が参加した。氷点下10度の中、参加者らは上半身裸で1キロまたは3キロのコースを走る。レース終了後にはベラルーシ・アスリート協会(Belarusian Athletics Federation)から全参加者にメダルが授与される。

 ベラルーシを含む旧ソ連構成国は、ロシアと共に毎年2月23日の「祖国防衛軍の日」を祝っている。この名前は、1991年のソ連崩壊後、2002年にロシアのウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領によって付けられた。(c)AFPBB News

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 個人的にはこのメダルのデザインが気になりましたが・・・(笑)

 毎年2月23日になると、こういうベラルーシ男子がいかにすごいか、ということを示すとんでもないイベントが開催されますね。

 ちなみにS夫は職場で、職場の女性陣から靴下をもらっていました。男性はみんな靴下をもらっていたそうで、日本で言うとバレンタインデーの義理チョコみたいなものですかね。

 うちの子(高校生)はクラスの女子と話し合って、お菓子をクラスの男子に平等にあげていました。
 うちの子はクッキー担当だったので、前日せっせとクッキーを焼いていましたが、これも義理チョコみたいなものですかね。

 「祖国防衛軍の日」というとすごくまじめなものに聞こえますが、ベラルーシ版バレンタインデーかなあ、と思います。

 でも主役は男性全員ではなく、あくまで軍人、(現役、退役、女性を含む)

 ついでに、こんなものまで見つけたので、どうぞ。

 やっぱりフツーじゃないですね。よく見たら両手にスキー板はめてるし・・・。

 

和訳をテーマにしたレクチャー「ソフィヤ・ヴォルサが贈る10の物語」

2018-02-18 | 日本文化情報センター
 2018年2月18日、和訳をテーマにしたレクチャー「『ソフィヤ・ヴォルサが贈る10の物語』」を題材として」をミンスク市立第5児童図書館で行いました。
 原作者のソフィヤ・ヴォルサさんも足を運んでくれてうれしかったです。

 レクチャーの主催は日本文化情報センター。スポンサーはチロ基金。
 講師は日本語訳の翻訳者、田中仁さん(国立ベラルーシ大学ジャーナリスト学部大学院生)
 進行は校正を担当した辰巳雅子(日本文化情報センター代表)
 ベラルーシ語版と日本語版、ロシア語オリジナル原稿の一部を朗読したのは、辰巳結重(新美南吉ロシア語訳童話集「ごん狐」翻訳者)
 聴講してくれたのは、日本文化情報センター日本語教室の生徒のみなさんとベラルーシの大学で語学留学をしている日本人大学生の方々、合計29名と、原作者ソフィヤ・ヴォルサさんとそのお父様です。

 レクチャーではソフィヤさんの挨拶、田中さんの翻訳時の苦労話で始まりました。
 その後はベラルーシ語(あるいはロシア語)から日本語に翻訳するときに、ついしてしまいがちな誤訳、人名表記など固有名詞の翻訳の仕方、読者の対象年齢によって使用できる漢字が変わるといった日本児童文学が持つ特殊な点について、またオノマトペの活用の仕方などベラルーシ人翻訳者が知らなさそうなことをテーマに「ソフィヤ・ヴォルサが贈る10の物語」の中から該当箇所を選び、翻訳例として
挙げながら、レクチャーを進めました。

 画像は記念撮影したものです。右から原作者のお父様、翻訳者の田中さん、原作者のソフィヤ・ヴォルサさん、校正者です。

 ソフィヤさんは日本語版の出版をとても喜んでくれて、「日本語を勉強したい。」と言ってくれました。
 田中さんは今回が初の翻訳作品の出版を機に、今後も翻訳に取り組んでほしいですね。
 私も校正の仕事は今回初めてだったのですが、予想していたよりも大変な作業であり、またおもしろい仕事であるのだと痛感しました。また機会があれば、ベラルーシ人作家の日本語訳の校正作業に携わりたいという希望を持ったぐらいです。

 日本語訳「ソフィヤ・ヴォルサが贈る10の物語」は発行部数が200部、と少数なのですが、将来日本でも多くの人も目に触れるようになってほしいなと思っています。
 まだ14歳のソフィヤさんの今後の活躍にも期待したいですね。
 

「ソフィヤ・ヴォルサが贈る10の物語」

2018-02-18 | 日本文化情報センター
 ベラルーシ最年少14歳の中学生作家ソフィヤ・ヴォルサがベラルーシ語による短編集を出版しました。
 正しくは、ロシア語で書かれた原作が、ベラルーシ語に翻訳され「Дзесяць простых гісторый」というタイトルで昨年刊行されたのですが、その日本語訳が今年に入ってから出版されました。

 翻訳したのは現在、ベラルーシ大学ジャーナリスト学部の大学院生、田中仁さんです。
 (厳密に言うと、ロシア語オリジナルからの和訳になります。)
 私(辰巳雅子)は校正を担当しました。
 発行したのがベラルーシの出版社で、しかも編集部に日本語ができる人がいませんから、日本人の私が校正を担当した、という形です。

 日本語訳のタイトルは「ソフィヤ・ヴォルサが贈る10の物語」です。
 原作者にとってはデビュー作、翻訳者にとっても初の翻訳作品、校正者にとっても初めて校正を担当したという初めてづくしの本書です。
 おそらく日本語の文芸書がベラルーシで発行されたのもこれが歴史初だと思います。

 日本語訳「ソフィヤ・ヴォルサが贈る10の物語」は販売を目的として、出版されたわけではないので、書店では購入できません。日本文化情報センターでは貸し出しを行っています。

 日本語訳が出版されたのを記念して、日本文化情報センターでは和訳をテーマにしたレクチャーを開催することにしました。

 

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第220回」

2018-02-05 |  ビタペクト配布活動
 2月5日にビタペクト3と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第220回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 今回はセルロースを6個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーを1部渡しました。  
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は2614個、セルロースの合計は97個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは2177部となりました。
 今回で通算236回目の配布となりました。
 延べ人数ですが、2614人の子どもにビタペクトを、約89人の子どもにセルロースを、2177家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります


(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html



(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/bb1fb7afb4cac464789e2684181e7d42


(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%89%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80


 チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。

 今回もビタペクトではなくセルロースを渡しました。ビタペクトの在庫がなくなり、現在搬入待ちです。
 
 今回は3家族がSOS子ども村へ保養に来ていました。
 
(家族A)

 グルボーコエ(チェルノブイリ原発から約450キロ)から来た家族。
この家族にはセルロースを2個渡しました。
この一家は2008年、2014年、2015年、2017年にも保養に来たことがあります。
そのときの様子はこちらをご覧ください。

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第78回」(家族B)

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第159回」(家族A)

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第174回」(家族A)

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第207回」(家族A)

 今回はお母さんが8人の子どもを引率していました。ただ、長女は測定していません。
 この家族には2個のセルロースを渡しました。
 それぞれの体重1キロあたりの放射能測定結果は以下のとおりです。○印の子どもにセルロースを1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時15歳)17ベクレル ○ → 16ベクレル → 12ベクレル → 14ベクレル → 14ベクレル
長女(26歳)  4ベクレル → 15ベクレル(今回測定せず)
次男(20歳) 17ベクレル(2014年) → 3ベクレル → 17ベクレル → 14ベクレル
三男(16歳) 27ベクレル ○ → 25ベクレル ○ → 19ベクレル → 14ベクレル →10ベクレル
次女(11歳)  0ベクレル → 33ベクレル ○ → 17ベクレル → 33ベクレル ○ → 26ベクレル ○
孫(女・4歳) 11ベクレル → 27ベクレル ○
孫(男・2歳) 17ベクレル → 26ベクレル 
男子(14歳) 22ベクレル ○ → 6ベクレル → 31ベクレル ○ → 7ベクレル
女子(18歳)(今回初測定)13ベクレル

 孫2人は長女の子どもです。チロ基金としてはこの長女とその娘は別の家族とせず(家族A)といっしょに表記しています。 三男は急性白血病患者です。14歳の男の子は養子で、肝臓に腫瘍ができています。
 このお母さんとはあまりゆっくり話ができませんでした。14歳の男の子と三男を連れてSOS子ども村のすぐ近くにある子ども腫瘍学センター(病院)に通院するのに付き添わないといけないためです。
 早く2人とも完治してほしいです。


(家族B)
 
 モロジェチノ市(チェルノブイリ原発から約390キロ)から来た家族。この家族には3個のセルロースを渡しました。
 この家族は2010年にも保養に来たことがあります。そのときのようすはこちらです。

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第112回」(家族A)

 この家族には9人子どもがいますが、そのうち3人を保養に連れていました。
 それぞれの結果は以下のとおりです。○印の子どもにセルロースを1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時20歳)13ベクレル
女子(14歳)31ベクレル ○ → 24ベクレル ○
女子(12歳)47ベクレル ○ → 27ベクレル ○
男子(10歳)48ベクレル ○ → 26ベクレル ○

 このうち12歳の女の子は去年とおととし、2回夏休みにドイツへ保養に行ったことがあるそうです。
 この一家はもともとブレスト州ストーリン地区で暮らしていましたが、1991年にミンスク州のモロジェチノ市に引っ越しました。
 お母さんと子どもたちには甲状腺肥大が見られましたが、子どものほうは治ってきているそうです。ただみんな風邪をひきやすいと話していました。
  

(家族C)

 スルツク(チェルノブイリ原発から約250キロ)から来た3人姉妹。この家族の引率者は家族Bのお母さんです。それで、家族Bの中にこの子ども3人を入れようかと思ったのですが、住んでいるところがモロジェチノとスルツクとかなり離れているので、別家族として数えることにしました。
 この姉妹には1個のセルロースを渡しました。それぞれの結果は以下のとおりです。

長女(17歳) 9ベクレル
次女(15歳)15ベクレル
三女(11歳)29ベクレル ○

 3人とも比較的健康だと言っていましたが、爪甲白斑ができており、
「これ、一体何?」
と気持ち悪がっていました。でも、放置しておいていいものらしいですね。
 

 画像は記念撮影したものです。通院や登校のため、ここに写っていない人もいます。
子どもたちには折り紙や折り鶴、千代紙人形、子どもたちの名前を書いた色紙などをプレゼントしました。

 最後になりましたが、セルロース購入のため、寄付してくださった方、折り紙など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に深くお礼申し上げます。
 べラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。 

2018年冬の駒落ち将棋大会 (2)

2018-02-04 | 日本文化情報センター
 優勝したマクシムさんには日本製携帯用の将棋セットが贈呈されました。
 これは昨年10月に新荘さんが、駒落ちレクチャーをされたときに未来の将棋大会の賞品として日本から持参されたものです。
 画像は結果発表のときのものです。
 こんな小さい携帯用将棋セットがあるんですね。これを使って優勝したマクシムさんには、いつでもどこでも将棋の練習をしてもらいたいですね。

 今回の参加者には将棋の対局に出場するのは初めて、という人もいましたが、経験者のベラルーシ人棋士の順位(段や級)が上がっていて、ますますベラルーシでの将棋熱が高まっていることを感じました。
 日本文化情報センターとしましては、また次につながて行きたいと考えています。

      
 


2018年冬の駒落ち将棋大会 (1)

2018-02-04 | 日本文化情報センター
 2月4日、日本文化情報センター主催の「2018年冬の駒落ち将棋大会」が開催されました。    ベラルーシと日本から16名の参加者が2枚落ち、4枚落ち、6枚落ちなどの駒落ちで対局しました。
 結果を発表いたします。

1位 マクシムさん 三段
2位 セルゲイさん 四段
3位 アントンさん 三段
4位 ヤロスラフさん 二段
5位 アナスタシヤさん 三級
6位 ビクトリヤさん 三級
7位 イワンさん 四級
8位 エヴゲーニイさん 三級
9位 アレクセイさん 二級
10位 エレーナさん 三級
11位 ゲオルギイさん 二級
12位 吉川さん
13位 イローナさん
14位 マルガリータさん 九級 
15位 パーベルさん 十一級
16位 内田さん

 ロシア語での結果発表はこちらです。
 詳しい点数はこちらです。ロシア語です。

また今回の大会運営にあたり、対局時計などをベラルーシ将棋協会からお借りしました。
心から感謝しております。
ベラルーシ将棋協会の公式サイトはこちらです。

 またベラルーシ将棋協会のサイトでも結果発表されました。

「絵のない絵本・この星が絵でうめつくされたら」ロシア語訳出版されました

2018-01-22 | 日本文化情報センター
 2016年12月にご報告したロシア語翻訳プロジェクト「この星が絵でうめつくされたら」についてご報告です。
 2018年1月ようやく「絵のない絵本・この星が絵でうめつくされたら」(稲吉紘実著)のロシア語訳が出版されました。

 出版社はミンスクにあるクラシコ・プリント社。今後、ベラルーシ国内の子どもを対象にチャリティーのイベントの場などで配られる予定です。

 このプロジェクト著者側からの依頼で、日本文化情報センターから発案したプロジェクトではありません。またチロ基金も出版費用などは出しておりません。
 
 翻訳と校正に携ったのは25名の日本文化情報センター日本語教室の生徒と私です。この25名もボランティアで作業に参加しています。(プロの翻訳家ではないので、翻訳料などはいただいておりません。)
 日本文化情報センター翻訳グループの名簿は以下のとおりです。

イローナ・カルポワ Ilona Karpova
アルチョーム・ルカショフ Artyom Lukashov
セルゲイ・ラポヴェツ Sergei Rapovets
マルガリータ・カゼルスカヤ Margarita Kazerskaya
エブゲーニイ・パンチュホフ Yevgeniy Pantyuhov
アリーナ・レオノワ Alina Leonova
パーベル・スラヴェツ Pavel Suravets
アヴグースタ・シゾーノワ Avgusta Sizonova
アナスタシヤ・ドゥドコ Anastasia Dudko
ワシーリイ・コフニューク Vasiliy Kokhnyuk
ニコライ・プルドニコフ Nikolay Prudnikov
ビクトリヤ・タラセビッチ Victoria Tarasevich
エレーナ・アブラモビッチ Elena Abramovich
ビクトリヤ・ミフノ Viktoriya Mikhno
オリガ・ユシュケービッチ Olga Yushkevich
ジアナ・マルギエワ Diana Margieva
マリガリータ・トカチェンコ Margarita Tkachenko
エカテリーナ・フボロノワ Ekaterina Kvoronova
オリガ・ボイノワ Olga Boinova
エカテリーナ・カチャノワ Ekaterina Kachanova
エブゲーニイ・ブラトゥン Yevgeniy Blatun
ナタリヤ・ルサコビッチ Natalia Rusakovich
辰巳結重 Yuie Tatsumi
辰巳雅子 Masako Tatsumi
ビクトル・コンスタンチノフ Viktor Konstantinov 

 ロシア語で翻訳されましたので、広くベラルーシで子どもたちに読んでほしい(もちろん絵も描いてほしい)と願っています。
 

新年の展示「日本文化:着物・人形・習字・絵本」(2)

2018-01-09 | 日本文化情報センター
 展示品を寄贈してくださった日本人のチロ基金支援者の皆様、ありがとうございました!

 この画像だけ見ると、展示に来たのは二人だけ? と思われるかもしれませんが、小学生がどばっと来た日もあります。
 小学生はお習字(しかも外国語の文字!)は難しいので、折り紙体験会でしたが、人数が多くて、私は写真を撮影する余裕がないんです・・・(^^;)
 でもとてもすてきなお母さんと娘さんだなあと思ったので写真を撮らせてもらいました。(^^)
 
 



新年の展示「日本文化:着物・人形・習字・絵本」(1)

2018-01-09 | 日本文化情報センター
 昨年12月28日から今年1月10日まで日本文化情報センターで新年の展示「日本文化:着物・人形・習字・絵本」を開催しています。
 会場の都合により、着物展が開催できるような会場が今回なく、逆にいろんなことを少しずつ展示することにしました。
 そしてせっかくなので、習字や折り紙などを体験してもらうことになりました。

 画像の様子は94歳のエカテリーナさんが娘さんといっしょに習字をしているようすです。
 

スベトラゴルスク中央児童図書館で新美南吉の紹介イベント(4)追加情報あります

2017-12-22 |  新美南吉
 スベトラゴルスクの子どもたちが演じてくれた「二匹の蛙」の一コマです。
 緑のかえると黄色のかえるはすぐに分かりますが、右端の子どもはナレーターで、水色のドレスの子どもは「季節の妖精」だそうです。雪を降らしてくれます。(他にも『池』の係の子どもが2人いますがここには映っていません。)
 一生懸命努力した跡が見られました。ありがとう、みんな!
 
 これからも日本のお話を読んでください。スベトラゴルスク中央児童図書館に行けば、日本のことは何でも分かりますよ。(^^)
 今後もスベトラゴルスクの図書館とは協力関係を続けていきたいと改めて思いました。

 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 追加情報です。
 新美南吉記念館のごん吉くんフェイスブックで、今回のイベントのようすが紹介されました。
 リンク先はこちらです。
 こちらのほうが画像の画質がいいです。(^^)
 ごん吉くんからはほめられるし、ベラルーシの子どももうれしいですよ。
 
 

 
 

スベトラゴルスク中央児童図書館で新美南吉の紹介イベント(3)

2017-12-22 |  新美南吉
 画像は記念撮影した様子です。首からメダル(ちゃんとごん狐のイラストが印刷されています。)をぶら下げているのは、絵のコンクールで1位から3位に入った子どもたちです。
 他にも「二匹の蛙」の劇に出た子どもたちが写っていますね。


新美南吉ロシア語訳童話集「ごんぎつね」を出版、そしてスベトラゴルスクの図書館に寄贈して本当によかったです。

 この図書館には新しく日本に関する書籍、展示品など寄贈しました。
 「おりづるの旅」ロシア語版も寄贈しましたが、きっと活用してくれるでしょう。
 

スベトラゴルスク中央児童図書館で新美南吉の紹介イベント(2)

2017-12-22 |  新美南吉
 この画像が「ごんぎつね」と「二匹の蛙」を読んで子どもたちが描いた感想文代わりの絵です。
 コンクール形式で、「ごんぎつね」部門と「二匹の蛙」部門で、それぞれ1位から3位までを決定。審査員はスベトラゴルスク中央児童図書館の館員さんたち。
 見ていて本当に楽しくなってくる作品ばかりでした。
 お願いして順位に関係なく、私の独断で数枚選び、イベント終了後持って帰りました。
 これも新美南吉記念館に寄贈する予定です。

スベトラゴルスク中央児童図書館で新美南吉の紹介イベント(1)

2017-12-22 |  新美南吉
 スベトラゴルスク中央児童図書館内の日本コーナー開設10周年記念と同じく、日本の児童文学作家、新美南吉の紹介も行われました。
 ふつう日本人である私が、「新美南吉とはどんな作家なのか。どんな作品を書いたのか。ベラルーシのみんなも読んでね。」と紹介する立場にあるのに、私は何もしませんでした。
 図書館員さんがちゃんと全てしてくれました。

 新美南吉を紹介するスライド、前もって小学生に読んでもらって感想を絵に描いてもらい、コンテストまでして、今日はその結果発表そして賞品の授与。私は賞品を渡す役。さらには「二匹の蛙」を子どもたちが劇にまでしてくれました。(ビデオに撮ったので、新美南吉記念館に送ります。)

 ありがとう、図書館員さん! ありがとう、スベトラゴルスクの子どもたち! ありがとう、小学校の先生!(感涙)
 本当に感動しました。
 
 

スベトラゴルスク中央児童図書館日本コーナー10周年(3)

2017-12-22 | 日本文化情報センター
 こちらは書籍コーナーです。実際にはこの画像1枚には収まりきれないほどの数の日本関連書籍が所有されています。
 ここまで来るとベラルーシでも有数ですね。
 こう言っては何ですが、ベラルーシの大都市でもない地方都市がこれだけ日本文化の情報を児童図書館内に所有しているのは、貴重なことだと思います。日本人として本当に感謝します。