3月4日から13日まで、ラスベガス巡礼の旅に行って参りました。旅の記録は今後「新ラスベガス半生中継」として別途アップしますが、一足早く、今回の巡礼で回って来たアーケードゲームのロケを記録しておこうと思います。
【PLAYER 1】
(関連記事:レゲエファン必見!「PLAYER 1」(ラスベガス)その1)
昨年10月にも訪れているバーケイド、「Player 1」を再訪。前回は見逃したカウンターに座ってみたところ、カウンターにはコンピューターゲームの歴史がびっしりと描かれています。
ビデオゲーム自体は1962年には登場していたが、商用となると1971年のコンピュータースペースが最初とされている。そして1972年、今も熱烈なファンが大勢残る伝説的なゲームメーカー、ATARIがノーラン・ブッシュネルによって創立される。
ATARIの登場以降、ビデオゲームが瞬く間に世界中に広がるが、右下にはビデオゲームではないセガの「HELI-SHOOTER」(1977)のフライヤーが見える。
1978年に登場したタイトーのスペースインベーダーは「1982年時点での売り上げ38億ドルは当時の娯楽製品の最高だった。これにより世界中で25セント貨が不足した」と解説されている。日本では100円硬貨が払底したという都市伝説(関連記事:それはポンから始まったのだけれども(4) Space Invaders invaded Japan in 1988-1989)があるが、米国でもそんなことがあったのだろうか。開発者の西角氏の姿も見える。
1980年にはナムコのパックマンが席巻した。開発者の岩谷氏がパックマンのモチーフとしたピザを食べている。
ラスベガスはどこもかしこも物価が高いが、レトロゲームが大好きそうなオーナーへのお布施のつもりでホットドッグ2個とクリームソーダ。およそ$13。
店員さんはメガネっ娘のコスプレイヤー。
【Pinball Hall of Fame】
ラスベガスに来たら一度は行きたいPHoF。今回は子供連れも多く、そう言えばワタシはここに来るたびにノスタルジーに浸っているけど、この子供たちにはまだそんな思い出など形成されていないわけで、ワタシとはまた違った感覚で遊んでいるのだろうなあと思いました。それでも子供のうちにピンボールに触れる機会があることは実に良いことで、最近の日本ではピンボールで遊んだことが無いどころか知らないと言うナウなヤングまでいるのは実に嘆かわしいことです。
今回のPHoFでは、今まで本でしか見たことが無かった「Lady Robin Hood(Gottlieb, 1948)」がプレイヤブルな状態でありました。
今回PhoFに設置されていたLady Robin Hood。得点表示がリールではなく、バックグラスに電光で行っている。
Lady Robin Hoodのフリッパーは、現代のピンボールとは違って、ボールを下から上へ弾き返すのではなく、上段、中段、下段のそれぞれの左右に配置された全部で6個のフリッパーが、反対側サイドに弾き返すように設置されています。
Lady Robin Hoodのプレイフィールド。フリッパーは現代の機械とは異なる位置に設置されている(矢印)。
この感動的な事実をSNSでつぶやいたところ、拙ブログでお馴染みのカナダのCaitlynが、「このプレイフィールドは『Humpty Dumpty』と同じ」と教えてくれました。Humpty Dumptyが初めてフリッパーを備えたピンボールとされていることは本で読んで知っていましたが、まさかそれに準じるゲームを遊べる日が来るとは想像もしていませんでした。
画像:Humpty Dumptyのプレイフィールド(Pinball Internet Data Baseより)。一部のキックアウトホールの数や一部パッシブバンパーの形状など、Lady Robin Hoodとは若干の差異はあるが、基本的にはほぼ同じ構成。
今回のPHoFには、40年代~50年代のボールシューターに手動でボールをロードするピンボール機を集めた一角がありましたが、プレイヤブルだったのはこの「Lady Robin Hood」と「Lazy Q(Williams, 1953)」の2台のみでした。遊べないことはもちろん残念ですが、実機を見られるだけでも眼福と言うものです。
ただ、PHoFでは機械の入れ替えが頻繁に行われており、また前は稼働していたのに今回は稼働していないという機械も少なからずあり、次回行ったときにも稼働できる状態で残っているとは限りません。やはりここは一期一会の精神で、ラスベガスに行ったら必ず一度は立ち寄って見逃しのないようにしたいものです。