雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

日々歌ふ0809(47首、詩1編)

2008-09-30 23:38:53 | 日々歌ふ2008

080901
 気がつけば虫の音のみに静もりて蝉は死に絶えカラスは眠る
                    *
 安倍を追ひ福田も不意に辞めにける一寸先の茶番知らざり
080903
 晩夏にハゼの小枝の紅葉して池面に早き季を浮かべぬ
 (晩夏=おそなつ、季=とき)
080904
 時としてヒト食ふ吾に食へぬものありやなしやと鳩見て思ふ
080905
 黄昏に彼岸の花のかたちしておぼろに浮かぶ黄の花のあり
 いつしかに黄葉の混じるユリノキの枝葉ゆれをり西日に浮かび
 (黄葉=もみぢ)
080906
 窓枠のひとつに至る隅々にもと子・ライトの夢の宿りて
080907 
 ―<NHK新日曜美術館「母と娘 咲き誇るいのち 丸木スマ・大道あや」を観て>
 スマとあや母娘の実に画家となる齢七十、六十過ぎと
 (スマ=丸木スマ、あや=大道あや、母娘=ははこ、齢=よはひ)
 六十年七十年の人生が画家となる道準備せしとは
 六十年半ばに至る人生の何をかわれに準備なしくれむ
                    *
 ―<大学時代の恩師・教育学者O先生より電話のありて>
 早朝に電話の鳴れば受話器より卆寿を越えし恩師の声する
 妻亡くし卆寿を越えてひとり生き恩師のなほも学を究めぬ
 戦への<抗体>つくる道すじを余命のかぎり恩師模索す
 一年か二年かそれはわからぬと恩師は言ひつ未来語りぬ
 恩師言ふセブンイレブンあればこそ卆寿を越ゆるくらしの成ると
 ふたたびの出会ひあればと願ひつつ受話器を置きて恩師を想ふ
                    *
 山道の暗き葉陰に橙の花の一輪隠れ咲きをり
080908
 秋雲の浮かぶ空にぞなほ夏の白雲湧きて季に抗ふ
(季=とき)
080909
 カラス群れついばみをりし赤き実の近づき見れば辛夷の生りて
080910
 辛うじて入り陽のさせば岩礁の黒ぐろ浮かぶ光る川面に
080911
 ―<9・11と<対テロ戦争>の犠牲者を共に悼みて>
 隣国の美国とよべる国ありて醜き戦いまもなしをり
 毒をもて毒を制するその毒の幾十万の民毒しけむ
                    *
 白しらと夕月昇り仕事なき雷除けの針と戯る
 眠るごと緋鯉の独り憩ふ背を桜の落ち葉流れゆきけり
080912
 黒門の切り取る空は青くして御堂の屋根は緑なりけり
080914
 つかの間の矛盾を走り地下鉄の夕陽浴びつつ闇に消えゆく
 入り陽射し水面にゆれる絵模様をマチス・ピカソもかくやと描く
080915
  「戸籍」

 27歳で結婚するまで
 本籍は生まれた福島でもなく
 6歳から住んだ東京でもなかった。

 1950年
 福島の田舎から一家で上京した6歳の年の暮れに
 父は36歳の短い生涯を閉じた。
 その父の本籍が九州の壱岐島にあった。
 それが僕たちの本籍でもあったのだ。

 何かの折に戸籍謄本などが必要になると
 僕の家では返信用の封筒を入れて
 遠い壱岐の町役場に手紙を出さなければならなかった。

 度重なるうちに
 幼い僕もいつしか自分の本籍を憶えた。

 ナガサキケン
 イキグン
 ゴーノウラマチ
 ホンムラショク
 ニジューハチバンチ

 そして
 漢字でも書けるようになった。

 長崎県
 壱岐郡
 郷ノ浦町
 本村触
 28番地

 実は
 死んだ父も本籍のある壱岐には一度しか行ったことがなかった。
 併合前に壱岐から渡った商人夫婦の長男として
 父は朝鮮半島南端のコフン(高興)という町で生まれたのだ。

 その父の父
 つまり僕の祖父は
 中耳炎をこじらせて父と同じように30代の若さで死んだ。
 主を失った一家は朝鮮から引き揚げたが
 神戸にいた親類を頼って壱岐には戻らなかった。

 すぐ下の弟と母を亡くし
 僕の父は一番下の弟と二人で東京の大学に学び
 数学の大学教師となった。
 そして知り合った
 福島生まれの母と結婚した。

 戦争が始まり
 2度目の国内応召の最中に結核を発症し
 間もない終戦とともに
 一家の疎開先であった母の故郷の福島に帰って来た。

 それから5年
 やっと生き永らえた末に
 上京したばかりの東京で36歳で死んだのだ。

 親戚や先祖の墓がある壱岐に
 結局父は結婚後一度も行くことができなかった。
 そして
 壱岐の本籍だけが僕たちに残された。

 ナガサキケン
 イキグン
 ゴーノウラマチ
 ホンムラショク
 ニジューハチバンチ

 六十路の半ばを迎えた今も
 口からごく自然に出てくるその響きは
 懐かしくて
 少し悲しい。

 父が死んだ後
 残された家族の間で時おり
 <本村触>の<触>とはなんだと話題にはなったが
 母も知らなかった。
 たぶん
 <字>のようなものだろうとみんなが勝手に思った。

 その疑問が解けたのは
 僕が40歳にもなったころだった。
 司馬遼太郎の『街道を行く』シリーズの
 壱岐篇を読んだのだ。

 まずは
 司馬に壱岐の歴史風俗を案内した古老の
 Mという名字に驚かされた。
 まさしくそれは
 わが家の名字と同じだったからだ。
 どこにもある名字ではない。
 血縁にまちがいなかった。

 さらに驚かされたのは
 司馬が<触>を<フレ>と呼び
 その由来を聞いたことへのM古老の答えであった。
 <触>というのは
 松浦藩のいわば植民地だった壱岐で
 支配の<お触れ>を肉声で伝えることが可能な行政単位だったというのだ。

 <触>は<ショク>ではなく
 <フレ>だった。
 ならば<本村触>も
 本当は<モトムラフレ>だったのだろう…。

 が
 父が僕に残した本籍は
 やっぱり<モトムラフレ>にはならなかった。
 <ホンムラショク>と
 僕の脳髄にはそう刷り込まれて
 もはや変わりようがなかったのだ。

 死ぬまでに
 一度は壱岐を訪ねたい。

 ナガサキケン
 イキグン
 ゴーノウラマチ
 ホンムラショク
 ニジューハチバンチ

 36歳の父を連れて
 僕が目指す本籍は
 そこにしか
 ない。
080916
 ほの暗き樹陰に赤く一輪のさきがけ咲きぬ彼岸の花の
080917
 ふと見れば川面に繁る桜枝に星ゴイ隠れ静かに憩ふ
                    *
 老朽の具合見むとて舟となりわが身を明日はドックに入れむ
080918
 妖しさや毒々しさのかけらなく薄黄に咲きぬ彼岸の花の
 星ゴイに遭ひて日ならず成鳥のゴイサギ待ちぬわれ行く先に
080919
 夕光のあふれる中をヒョウモンの蜜吸ふ花の名をば知らずも
 (夕光=ゆうかげ)
080921
 咲き群れる血潮の色も狂ほしき花に惑はむ死者を想ひて
080922
 千年のはるか昔も都路に実を結びけむムラサキシキブの
080924
 赤々と異形の花の咲き満ちて此岸を染めぬ彼岸のごとに
 (此岸=しがん)
 赤白の彼岸の花の絡まりて咲けば此岸の異界となりぬ
080925
 品悪き太郎の口はひんまがり性根腐れど総理となりぬ
 晋三に続き康夫も投げ出せばタライ回りて太郎のつかむ
080926
 身じろぎもせずにひたすら潅木にアゲハ憩ひぬ季のめぐりて
 (季=とき)
080928
 畑埋めし鶏頭の色やはらかくわが胸内に染みわたりけり
 青光る翅を休めて北限に南の蝶の生終へんとす           
 緑濃き葉群にまじる緋の色の強きに惹かれ歩みとどめぬ
                    *
 日教組をぶつこはすため学テをば行ひけると大臣のたまふ
 (大臣=おとど)
 お粗末な独断をもて信念と思ひ込みたる四日大臣
 馬鹿山のまちがひならむ独断と信念の別知らぬ大臣は
 (大臣=おとど)
080929
 黄もうすく気品にみちて咲く花のオクラと知りて二年経ちぬ
 (二年=ふたとせ)
080930
 赤々と異形の花を眼裏になほ咲き残し九月去りゆく


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赤々と異形の花を眼裏に

2008-09-30 23:09:38 | 日々写す



                赤々と異形の花を眼裏になほ咲き残し九月去りゆく


 

                                             小石川植物園にて


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080930 日々歌ふ

2008-09-30 23:05:34 | 日々歌ふ


赤々と異形の花を眼裏になほ咲き残し九月去りゆく


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