好きなものを好きだと言えるこの町でダイヤの乱れを愛しく思う(
小林ミイ)
<好きなものを好きだと言えるこの町>。
おそらく作者は、普段、あるいはこれまで、<好きなものを好きだと言えない町>に住んでいる(いた)のではないでしょうか。
<好きなものを好きだと言えない町>。
それは、他人を信用できない町。
それでいてすべてが整然と動いている町、です。
もちろん、電車のダイヤの乱れなどあろうはずもありません。
作者は、そんな息苦しい町からやっと、あるいは束の間、<好きなものを好きだと言えるこの町>に脱出してきたのです。
生まれ育った田舎ののんびりとした町に戻ってきたのでしょうか。
それとも、外国の町に旅に出たのでしょうか。
いずれにしても、そこではよろいを脱ぎ捨て、ありのままの自分をさらけ出すことができます。
誰もそれを気にしたり、とがめたり、ましてスキを衝いて攻撃してきたりもしません。
そんなおおらかな町なのです。
その代わり、すべてが決められたとおりの場所や時間に、あるものはあり、来るものは来るというわけにはいきません。
おおらかであることの反面は、いい加減でもあるということなのです。
列車のダイヤも然り、です。
そのいい加減な<ダイヤの乱れを愛しく思う>という結句の、いさぎよい断言。
そこに、人々の中に生まれつつある利便至上主義社会に生きることへの疲労と嫌悪、批判が、巧みに表現されているのではないでしょうか。
<数分もダイヤくるはばいら立ちのつのるわれらのどこか狂ひぬ>(髭彦)
僕の題詠歌です。