リッスン・トゥ・ハー

春子の日記はこちら

空港のコンビニエンスストア

2009-09-29 | リッスン・トゥ・ハー
最終便が行ってしまった空港の、24時間営業コンビニエンスストアの電気はまだらんらんと点いている。空港の入り口自動ドアは動かないが、空港を管理する職員はみんな帰宅したが、警備会社の様々な設備が空港内をくまなく監視しているが、コンビニエンスストアは営業を続けている。何のために?と思うかもしれない。ちゃんと意味はある。深夜の空港のコンビニエンスストアを利用するのは風、飛行機が世界中の色んな場所から連れて来た風、店員はその風のために、空港がしまったあともコンビニエンスストアを開け続ける。風について説明すると、風は決して見えないものではない。いるのかいないのかはっきりわからないものではない。ちゃんとコンビニエンスストアの店員に分かるように、驚かさないように、人の形をしていて、言葉をしゃべるし、お金も持っている。どこでお金を手に入れるのかというと、世界中で誰かがうっかり落としてしまったお金を吹き上げてそっと隠してしまう。ああ、と追いかけてくることもあるけれど、風の大きさに、結局すぐにあきらめてしまう。時々間違えて別の国のお金を出してしまうことがある。店員はきょとんとして、何か言いたそうに風を見るから、風はそのお金がこの国のお金ではないと気づく。ちょっと間違えた、という風に笑えば何の問題もない。ところで、店員は空港がしまった後もどうして営業を続けているのか、実はよくわかっていない。自分がおにぎりや、日焼け止めを売っているのが、風だということも知らない。不思議だとは思っているがきっと、飛行機を整備する人や、パイロットが利用するのだと思っている。まあそれほど深く考えていない。雇われているだけだし、あまり忙しくないからいいバイトだと感じている。店員はでも同じ客が二度は買いに来ないことに気づいている。風は気まぐれだし、世界は広い。見たいものも、聞きたいものもたくさんある。ここで空港のコンビニエンスストアのひとりの店員に登場してもらう。彼女は、働き始めて2年が経つ、空港の近くにある大学の学生で、主に深夜、つまり風相手に接客している。彼女は物静かなほうだったし、たった一人になるのも別に苦ではなかった。ぼんやりとしたり、あまり乱れることのない商品を整理したり、して朝まで勤めていた。冬のある日、それまで降り続いた雪がようやく止んで、透き通った空に星がきらめいた夜に、彼女はいつものようにレジに立ち、やはりいつものようにぼんやりとしていると、ふんわりと温かい風が吹いて、コンビニエンスストアの自動ドアが開いた。その人は、ゆっくりと自動ドアをくぐり、中に入ってきた。彼女は一瞬、いらっしゃいませ、と言うことを忘れ、あわてて、こんばんは、とささやいた。だいたい、威勢よく挨拶をすることは、この職場においては意味のあることではない。ゆったりとした時間の中で、ゆったりと商品を選ぶ。それが空港の深夜のコンビニエンスストアの流儀なのだ。時々客は彼女に笑いかけ、彼女もなんとなく見覚えのある笑顔だったので、声をかけようか迷っていた。やがて客は、何も買うことなく、入ってきたときと同じようにゆっくりとした歩調で、歩いているとは思えないぐらい滑らかに自動ドアを通り抜けた。彼女はありがとうございます、と今度ははっきりと言い、しばらく客のほうを見ていた。客は自動ドアの先でしばらく立ち止まっていたが、やがて振り向くと、崩れるように笑って、彼女にうなづきかけた。その瞬間に彼女はその笑顔に魅了されてしまった。ちょうど、商品棚をからぶきしようと持っていたふきんを落として、それに気づかぬまま客の笑顔を見ていた。それから、そらすのではなく、横から吹いてきた風に流されるように、向きを変えて歩いていった。ほんの少しの間だったが、彼女は動けなかった。ぼおってして、次の客が入ってくるまで、同じ体勢のままでいた。頭の中に焼きついた笑顔は、しばらくまるでまだコンビニエンスストアに彼がいるようにいきいきと笑っていた。それからしばらくして、彼女はコンビニエンスストアのアルバイトをやめた。理由は分からない。実際、そういう理由の分からずやめていく店員は山といる。