1979年9月17日
訪問者:西洋神学には有名な犠牲の法則あんねん。それには2つの恩恵あってな。いっこは、悪い習慣犠牲にしたら、再発が絶たれるだけやなくて、意志力も増大すんねん。もういっこは、何か欲しいもんできたら、絶対与えられんねん。この法則ってマハラジとも合うとるんか?
ニサルガダッタ:100%正解や。意志力育つし、欲しいもん与えられるやろ。犠牲いうんは、自分自身を手放して寄付することや。もっと高尚な表現やったら放棄言われとるもんや。
訪問者:この目的達成すんのに初めに放棄したらええもん勧めてくれんか?
ニサルガダッタ:ここに来るからには、ワイはお前さんのこと普通の人間や思っとらん。ここ来る前にもう十分学んできとる思っとんねん。せやから、あからさまにこれ捨てぇあれ捨てぇとは言わん。なんでやゆーたら、お前さんのスタンダードはめっちゃ高い、そんなもんよりもっとめっちゃ高いて信じとるからや。お前さんは普通の探求者やないねん。お前さんは賢い頭もっとる。せやからこういうふうに話すねんで。
訪問者:そういう類の自信持っとったら、そのスタンダードに沿うん難かしなんで。
ニサルガダッタ:特定のスタンダード維持せいゆーて頼んどるんやない。ただ在るもんを見いゆーて頼んどんねん。
訪問者:欲しいもん手に入れるん助けてくれよる犠牲、その犠牲についての質問に関連してやけど、欲求それ自体は習慣ちゃうやんな?欲求は無知から生じるもんちゃうやんな?
ニサルガダッタ:雨滴が落ちる。雨は落ちー風は吹くーいうんが、雨風の本質ちゃうんか?何や欲するいうんは、身心とのアイデンティティーがあるうちは自然や。せやけどいっかい超えたら、何の欲もあらへん。
訪問者:「身心から離れたら離れただけ欲減って、要るもん簡単に満たされる」っちゅーのが、ワイの体験や。
ニサルガダッタ:「ワイは離れつつあるわ」いうて思うことも正しいもんちゃう。もうとっくに離れとるからや。自我が完全に溶けてなくなったらな、お前さんぎょうさんの体使うねん。
訪問者:知ってか知らずか?
ニサルガダッタ:すべては現れや。個性なんか何もあらへん。すべてに遍満しとんねん。知ってする必要あらへん。
訪問者:単純に起きとるだけなんか?知ってか知らずかいう問題あらへんのか?
ニサルガダッタ:せや。なんでこういう諍い通常運行なんや?なんでワイらに争いあるんや?皆ここに、何や深っかい霊的観念抱えて来とんねん。自分は霊的知識持っとる思て、ワイからはっきりした証明ほしいねん。「せや、お前さんはほんまよう知っとる」ゆーな。こんなんせえへんで。ワイはそういう輩の観念ぶっ飛ばすねん。せやからVSや。こうやって不和が始まんねん。
訪問者:せや、ワイはこのVSんためにここ来とるんや。せやのに心は、観念抱いとるもんは恐れとる。意志の力だけがワイ支えとんねん。
ニサルガダッタ:誰がその意志力認識しとるんや?
訪問者:認識するもんのこと聞きたいんやったら、心はいつでも答え出せる、心はいつでも観念出せる能力あんねんけど、ワイは今それをあるがままに、最大限努力して見とんねん。
ニサルガダッタ:それはOKや。ワイはお前さんが心意識と同一化しとること知っとる。わかっとんねんで。
訪問者:ワイも知っとる。
ニサルガダッタ:その”ワイ”を知ろうとせえ。
訪問者:おう。ここに行こゆーて初めて自覚したとき、心めっちゃ興奮しとったわ。ぎょうさんの質問と、「マハラジと一緒におるいうんは、どないな感じなんやろ?」いう考えのせいでや。せやけど、それが心のゲームってこと、めっちゃはっきりわかっとった。せやからワイにとってここに毎朝来んのは、ワイ個人にとっては心のゲームやいうことわかっとんねん。ワイには、それがVSに入らんとあかんねん。
ニサルガダッタ:心の性質理解してんから、平和達成したんか?
訪問者:瞬間はあるけど、その後また心うろつくねん。
ニサルガダッタ:自分は心ちゃうことわかっとるやん。お前さんがここ来たときに、心のゲーム見る境地に到達しとったんか?それか、それより前か?
訪問者:前や。それは成長の一部やってん。10年前に何か起こってん。言うとることからしたら、お前さんがサット・グル呼んどるもんが、この名前付けられへんもんや思うわ。ワイは10年間、そのコールに従ってきてん。その内側にあるもんと、マハラジと一緒におることで経験しとるもんには、何の違いもあらへん。テクニックの点で疑問あるんや。目え瞑って”我在り”に留まったら、初めは暗闇見えるやん。その薄明りは明澄さに変わって、無限になるいうて知られとる。どないしたらそれ達成できるんや?
ニサルガダッタ:なんでそれ変えたいん?
訪問者:闇を光に変えんのを、闇に気づいとる者ができるんやったら、なんで闇ん中でぐずついとんのや?なんで光楽しまんのや?
ニサルガダッタ:闇を光に変えるお前さんて誰や?その闇ん中にいろんなの光の明かりが注がれとる。それ闇ちゃうねん。甘露の淵や。そん中潜り。あとは任せえ。
訪問者:”我在り”いう状態には、もういっこ問題出てくんねん。初めのうちその状態は、頭そのものん中に収まっとるように感じられんねん。その後ものごっつい力に発達すんねん。その解放は実際そう、部屋を満たす意識の溢れ出す奔流や。これって適っとる?
ニサルガダッタ:身体意識持たんと喋り。お前さんが言うた、自然に部屋に溢れる意識は、部屋と宇宙を完全に占めとんねん。意識に定着する過程で、意識は宇宙に広がんねん。完全に広がったら、ブラフマ穴、ブラフマ・ランドラに落ち着くねん。
訪問者:シャクティ、クンダリニー・ヨーガの生徒ぎょうさんおるやん。他の人らが言っとるように、ジュニャーニが自分の修行を通して、自分の”在る”を通してクンダリニー覚醒させんのって必須なん?
ニサルガダッタ:ジュニャーニはクンダリニーになんかまったく興味あらへん。お前さんが生まれる前、クンダリニーどこおってん?このクンダリニーいうもんはお前さんが知覚しとるだけのもん、お前さんが見とるだけのもんや。皆いろんな名前で呼んどんねん。そんだけや。
訪問者:せやけどヨーギん中には、7つのチャクラ通り抜けて脊柱に沿って走るいわれとる力に集中しとる者もおるで。
ニサルガダッタ:お前さんの言っとることは正解や。せやけどそれは、お前さんの誕生以前にはあらへんかったもんや。ただの思考や。
訪問者:せやったらそういう人ら皆、惑わされてクンダリニー・ヨーガの研究続けとんのか?
ニサルガダッタ:誰でも修行したいもん何でもできんねん。せやけどそれ何や?ゼロ、無や。
訪問者:言うとることからしたら、これぜんぶ意識ん中のゲームみたいなもんで、意識との自己同一化を選んだら無限のゲームプレイできるってことや。
ニサルガダッタ:人は何選んでも何好んでも、その仕事や娯楽に従事するよう誘われんねん。
訪問者:ワイらのやっとることは、プレイするほんまのゲーム見つけよいうて頑張っとんねんけど、相変わらずそれは意識ん中の1ゲームにすぎへんねん。
ニサルガダッタ:プレイしとんのお前さんやあらへんで。お前さんは見とんねん。
訪問者:ワイを意識ん中でプレイさせ続けとんのは、何も起こらんいう恐れやっちゅーことわかってん。意識から自分が解放されたみたいになったとき、それでも物事は起こんねんけど、それはワイの欲から生じたもんちゃうねん。宇宙が起こさせとんねん。
ニサルガダッタ:それ見とるとき、お前さんは意識ん中おるんか?
訪問者:たぶんそっから出とる思うわ。夢をいっこの夢として見とる。
ニサルガダッタ:お前さんには、自分がその中にいんのか外にいんのかわからへんねん。ただ単純に見とるんや。
訪問者:体と繋がっとるうちは、観照者は何とかしてそのまま夢ん中おる思うねん。
ニサルガダッタ:せや、観照者が目え覚めてへんねん。それ夢や。
訪問者:夢見と目覚めの間の時間みたいなもんや。そん時人は、突然自分が夢見とること気づくねん。その夢ん中で目え覚めた人の連続性は壊れてへん。ワイは夢ん中で目え覚めとんねん。
ニサルガダッタ:その夢がお前さん自身や。お前さんが見るもんみんな、夢やあらへん。それが、お前さんである”自分”や。すべてを見とる意識は、夢それ自体を通して見とんねん。
訪問者:精神が不安定なときマントラって助けなるんか?
ニサルガダッタ:なる。マントラは揺れ動く心を止めるためだけのもんや。
訪問者:西洋神学には有名な犠牲の法則あんねん。それには2つの恩恵あってな。いっこは、悪い習慣犠牲にしたら、再発が絶たれるだけやなくて、意志力も増大すんねん。もういっこは、何か欲しいもんできたら、絶対与えられんねん。この法則ってマハラジとも合うとるんか?
ニサルガダッタ:100%正解や。意志力育つし、欲しいもん与えられるやろ。犠牲いうんは、自分自身を手放して寄付することや。もっと高尚な表現やったら放棄言われとるもんや。
訪問者:この目的達成すんのに初めに放棄したらええもん勧めてくれんか?
ニサルガダッタ:ここに来るからには、ワイはお前さんのこと普通の人間や思っとらん。ここ来る前にもう十分学んできとる思っとんねん。せやから、あからさまにこれ捨てぇあれ捨てぇとは言わん。なんでやゆーたら、お前さんのスタンダードはめっちゃ高い、そんなもんよりもっとめっちゃ高いて信じとるからや。お前さんは普通の探求者やないねん。お前さんは賢い頭もっとる。せやからこういうふうに話すねんで。
訪問者:そういう類の自信持っとったら、そのスタンダードに沿うん難かしなんで。
ニサルガダッタ:特定のスタンダード維持せいゆーて頼んどるんやない。ただ在るもんを見いゆーて頼んどんねん。
訪問者:欲しいもん手に入れるん助けてくれよる犠牲、その犠牲についての質問に関連してやけど、欲求それ自体は習慣ちゃうやんな?欲求は無知から生じるもんちゃうやんな?
ニサルガダッタ:雨滴が落ちる。雨は落ちー風は吹くーいうんが、雨風の本質ちゃうんか?何や欲するいうんは、身心とのアイデンティティーがあるうちは自然や。せやけどいっかい超えたら、何の欲もあらへん。
訪問者:「身心から離れたら離れただけ欲減って、要るもん簡単に満たされる」っちゅーのが、ワイの体験や。
ニサルガダッタ:「ワイは離れつつあるわ」いうて思うことも正しいもんちゃう。もうとっくに離れとるからや。自我が完全に溶けてなくなったらな、お前さんぎょうさんの体使うねん。
訪問者:知ってか知らずか?
ニサルガダッタ:すべては現れや。個性なんか何もあらへん。すべてに遍満しとんねん。知ってする必要あらへん。
訪問者:単純に起きとるだけなんか?知ってか知らずかいう問題あらへんのか?
ニサルガダッタ:せや。なんでこういう諍い通常運行なんや?なんでワイらに争いあるんや?皆ここに、何や深っかい霊的観念抱えて来とんねん。自分は霊的知識持っとる思て、ワイからはっきりした証明ほしいねん。「せや、お前さんはほんまよう知っとる」ゆーな。こんなんせえへんで。ワイはそういう輩の観念ぶっ飛ばすねん。せやからVSや。こうやって不和が始まんねん。
訪問者:せや、ワイはこのVSんためにここ来とるんや。せやのに心は、観念抱いとるもんは恐れとる。意志の力だけがワイ支えとんねん。
ニサルガダッタ:誰がその意志力認識しとるんや?
訪問者:認識するもんのこと聞きたいんやったら、心はいつでも答え出せる、心はいつでも観念出せる能力あんねんけど、ワイは今それをあるがままに、最大限努力して見とんねん。
ニサルガダッタ:それはOKや。ワイはお前さんが心意識と同一化しとること知っとる。わかっとんねんで。
訪問者:ワイも知っとる。
ニサルガダッタ:その”ワイ”を知ろうとせえ。
訪問者:おう。ここに行こゆーて初めて自覚したとき、心めっちゃ興奮しとったわ。ぎょうさんの質問と、「マハラジと一緒におるいうんは、どないな感じなんやろ?」いう考えのせいでや。せやけど、それが心のゲームってこと、めっちゃはっきりわかっとった。せやからワイにとってここに毎朝来んのは、ワイ個人にとっては心のゲームやいうことわかっとんねん。ワイには、それがVSに入らんとあかんねん。
ニサルガダッタ:心の性質理解してんから、平和達成したんか?
訪問者:瞬間はあるけど、その後また心うろつくねん。
ニサルガダッタ:自分は心ちゃうことわかっとるやん。お前さんがここ来たときに、心のゲーム見る境地に到達しとったんか?それか、それより前か?
訪問者:前や。それは成長の一部やってん。10年前に何か起こってん。言うとることからしたら、お前さんがサット・グル呼んどるもんが、この名前付けられへんもんや思うわ。ワイは10年間、そのコールに従ってきてん。その内側にあるもんと、マハラジと一緒におることで経験しとるもんには、何の違いもあらへん。テクニックの点で疑問あるんや。目え瞑って”我在り”に留まったら、初めは暗闇見えるやん。その薄明りは明澄さに変わって、無限になるいうて知られとる。どないしたらそれ達成できるんや?
ニサルガダッタ:なんでそれ変えたいん?
訪問者:闇を光に変えんのを、闇に気づいとる者ができるんやったら、なんで闇ん中でぐずついとんのや?なんで光楽しまんのや?
ニサルガダッタ:闇を光に変えるお前さんて誰や?その闇ん中にいろんなの光の明かりが注がれとる。それ闇ちゃうねん。甘露の淵や。そん中潜り。あとは任せえ。
訪問者:”我在り”いう状態には、もういっこ問題出てくんねん。初めのうちその状態は、頭そのものん中に収まっとるように感じられんねん。その後ものごっつい力に発達すんねん。その解放は実際そう、部屋を満たす意識の溢れ出す奔流や。これって適っとる?
ニサルガダッタ:身体意識持たんと喋り。お前さんが言うた、自然に部屋に溢れる意識は、部屋と宇宙を完全に占めとんねん。意識に定着する過程で、意識は宇宙に広がんねん。完全に広がったら、ブラフマ穴、ブラフマ・ランドラに落ち着くねん。
訪問者:シャクティ、クンダリニー・ヨーガの生徒ぎょうさんおるやん。他の人らが言っとるように、ジュニャーニが自分の修行を通して、自分の”在る”を通してクンダリニー覚醒させんのって必須なん?
ニサルガダッタ:ジュニャーニはクンダリニーになんかまったく興味あらへん。お前さんが生まれる前、クンダリニーどこおってん?このクンダリニーいうもんはお前さんが知覚しとるだけのもん、お前さんが見とるだけのもんや。皆いろんな名前で呼んどんねん。そんだけや。
訪問者:せやけどヨーギん中には、7つのチャクラ通り抜けて脊柱に沿って走るいわれとる力に集中しとる者もおるで。
ニサルガダッタ:お前さんの言っとることは正解や。せやけどそれは、お前さんの誕生以前にはあらへんかったもんや。ただの思考や。
訪問者:せやったらそういう人ら皆、惑わされてクンダリニー・ヨーガの研究続けとんのか?
ニサルガダッタ:誰でも修行したいもん何でもできんねん。せやけどそれ何や?ゼロ、無や。
訪問者:言うとることからしたら、これぜんぶ意識ん中のゲームみたいなもんで、意識との自己同一化を選んだら無限のゲームプレイできるってことや。
ニサルガダッタ:人は何選んでも何好んでも、その仕事や娯楽に従事するよう誘われんねん。
訪問者:ワイらのやっとることは、プレイするほんまのゲーム見つけよいうて頑張っとんねんけど、相変わらずそれは意識ん中の1ゲームにすぎへんねん。
ニサルガダッタ:プレイしとんのお前さんやあらへんで。お前さんは見とんねん。
訪問者:ワイを意識ん中でプレイさせ続けとんのは、何も起こらんいう恐れやっちゅーことわかってん。意識から自分が解放されたみたいになったとき、それでも物事は起こんねんけど、それはワイの欲から生じたもんちゃうねん。宇宙が起こさせとんねん。
ニサルガダッタ:それ見とるとき、お前さんは意識ん中おるんか?
訪問者:たぶんそっから出とる思うわ。夢をいっこの夢として見とる。
ニサルガダッタ:お前さんには、自分がその中にいんのか外にいんのかわからへんねん。ただ単純に見とるんや。
訪問者:体と繋がっとるうちは、観照者は何とかしてそのまま夢ん中おる思うねん。
ニサルガダッタ:せや、観照者が目え覚めてへんねん。それ夢や。
訪問者:夢見と目覚めの間の時間みたいなもんや。そん時人は、突然自分が夢見とること気づくねん。その夢ん中で目え覚めた人の連続性は壊れてへん。ワイは夢ん中で目え覚めとんねん。
ニサルガダッタ:その夢がお前さん自身や。お前さんが見るもんみんな、夢やあらへん。それが、お前さんである”自分”や。すべてを見とる意識は、夢それ自体を通して見とんねん。
訪問者:精神が不安定なときマントラって助けなるんか?
ニサルガダッタ:なる。マントラは揺れ動く心を止めるためだけのもんや。