悟りへの道標(悟った人の言葉を紹介していきます)

現在は主にニサルガダッタ・マハラジ(1897~1981)の言葉がメインです。みんなで悟りましょうヽ(=´▽`=)ノ

1979年9月10日「お前さんの”在る”いう知識に落ち着いたら、他の知識みーんな手に入んで」

2016-09-16 04:14:54 | ニサルガダッタ・マハラジ
1979年9月10日

訪問者:なんでマハラジはワイらに、粗大な形態にケチつけぇ言うんや?

ニサルガダッタ:ケチつけてへん。汚物も体も、あらゆるもんはワイそのものや。せやけど、変形プロセスは絶えず続いとんねん。粗大な形態は、また空間なって、サイクルは続くんや。

訪問者:なんでワイらがそのサイクルの加速気にしなあかんねや?

ニサルガダッタ:誰が加速させとるんや?

訪問者:ワイらみんなやっとる。

ニサルガダッタ:お前さん、自分をつま先から頭のてっぺんまでて認識しとるから言うけど、誰がお前さんに心配せえ言うたんや?

訪問者:2つあんねん…世界と、ワイの苦しみや。

ニサルガダッタ:これが体との自己同一化の座や。

訪問者:ワイの周りのもんぜんぶ無視したらええんか?

ニサルガダッタ:お前さんの理解と同化がその一定レベルに達したら、それ体験して楽しむねん。せやけどいっかいそれ超えたら、ウンコみたいに排泄するわ。ワイはブラフマ神の性質理解したさかい、ブラフマ神になってん。せやけどブラフマ神の性質よりもええもんあったら、捨ててそっち手にすんねん…
こういうもんは、いろんな価値を表す目印とか水準や。
ワイにとっては、問題になる変化なんかまったくあらへん。ワイはダイナミックでもあり、無尽蔵そのものや。流れはあんねんけど、ワイには使い尽くせへん。この世のすべてのもんがワイに溶けて、静まり、休むねん。
グルたちがめちゃめちゃ大切、めちゃめちゃ重要なんは、疑いようもあらへん。せやけど、最後にはソイツらも空間に溶けんねん。お前さんが抱きついて執着しとるもんぜんぶ、消えていくもんや。みーんな捨てて、「自分は何か」理解せえ。

訪問者:質問ありまーす。昨日マハラジは、「”自分は何か”悟りたかったら、”自”意識をただ抱きしめなあかん。」言うとった。それって、弟子とグルの関係と似たようなもんか、同じもんなん?

ニサルガダッタ:お前さんがその知識と1つなったら、”我在り”いう知識が宇宙の真のグルやっちゅーこと悟るやろ。

訪問者:ワイが聞いたんは、マハラジに愛情と尊敬感じとるからや。マハラジもめっちゃシンプルですっきりした態度で応えてくれとるて感じとんねん。ワイが”自”意識抱きしめ始めんの、マハラジに助けてもらわなあかんかってん。ワイにはマハラジの智慧が必要やってん。マハラジへの思いはおっきなっとる。ワイは、グルと弟子の関係理解せなあかん。

ニサルガダッタ:知られる物はぜんぶ、まさにその物自体に含まれとんねん。お前さんが言うたことは正解やで。

訪問者:前ここに来て以来、マハラジの姿と、マハラジが語ったことぜんぶ、四六時中浮かんでくんねん。せやけどマハラジが、「お前さんは観念から離れなあかん。それが神であってもや。」て言うたことも覚えとる。

ニサルガダッタ:お前さんの言うとることベリーグッドや。グルいうもんは、お前さんもそのうちなる、知識の権化や。

訪問者:マハラジの言葉受け入れるわ。ワイは行為したらええんか、それとも物事をただ去来させたらええんか?

ニサルガダッタ:為されなあかんもんなんか何もあらへん。流れさせえ。ただ見い。それに何もしなや。太陽は輝いとるし、光は届くところに届くねん。砂糖でできた人形がある。その人形は砂糖オンリーや。同じで、お前さんがグルの姿見るとき、それは知識オンリー、お前さんの意識表しとんねん。その姿は、グルとかクリシュナはんとかキリストとか何かのもんかもしれん…それはお前さんである、知識の権化やねんで。

訪問者:このプロセスで、個人的なもんも宇宙的なもんも、あらゆるタイプの知識、あらゆるタイプの観念が、頼まれもせえへんのにワイの心にやって来んねん。それが流れよったら人に影響するみたいで、関係が変わんねん。この世の出来事にどう対処したらええんか、ワイは完全にわかってへん。

ニサルガダッタ:いっこの人格、幻として行為すんのは、正解やあらへん。お前さんを通してどんな行為が起きても、いっこの人格として携わらんのが、適切で自然な行為っちゅーもんや。

訪問者:ワイが昔旅とか探求しとったとき、いろんな種類のグルたちに出会ったわ。ソイツら、マントラ・ヨーガとかクンダリニー・ヨーガとか教えとった。その根っこにある事実ってなんなん?探求者は、クンダリニーとかチャクラの覚醒のこと知っとらなあかんの?

ニサルガダッタ:自分の”在る”いう知識に落ち着けば、ほかの知識ぜんぶ手に入んで。

訪問者:どこに行っても、このクンダリニー知識がワイについてくるみたいやねん。放ったらええんか見たらええんか、知りたいねん。

ニサルガダッタ:放り。せやけど、自分の”在る”に、お前さん自身の自己にしがみつき。お前さんの”在る”以外、一切受け入れなや。自己知識だけが純粋な知識やねん。

訪問者:ある本でガーヤトリー・マントラ見つけてん…かなり好きで、かなり使えるわ。

ニサルガダッタ:”我在り”いう知識以外は、何も使いなや。他のもんみんな忘れえ。ぎょうさん枝と葉っぱついとる立派な木のこと考え。その根っこに行き。枝やなくてな。

訪問者:なんでグルっていつも、弟子となんかイニシエーションとっとるん?

ニサルガダッタ:それがソイツらの自然な姿や。結婚したら子供が増える…それが夫婦愛の自然な形や。グルと弟子のイニシエーションは、自然なプロセスやねん。

訪問者:ここにイニシエーションってあるん?

ニサルガダッタ:おぉあんで。お前さんはある文もらうねん。そんで気をつけて、その聖なる言葉の意味するもんとして留まるよう言われんねん。

訪問者:そのポジション着くには、どういうふうにしとけばええんや?どうすればええんや?

ニサルガダッタ:聖なる文の意味するもんが自分の自己やっちゅー確信を固く持っとけばええねん。気をつけな、お前さんの注意があらなあかんねんで。

訪問者:イニシエーションお願いすんのって間違いなんか?

ニサルガダッタ:間違いいう問題あらへん。求めれば、与えられんねん。ほんま言うと、それは形式的なイニシエーションや。せやけど、この会話ぜんぶが、イニシエーションの過程に他ならへんねん。

訪問者:それ気づいとるわ。せやけど、形式的なイニシエーションほしいねん。

ニサルガダッタ:叶えられるやろ。せやけどこれと一緒に、形式的なイニシエーション以上のもんもらえんで。その要諦は、「お前さんは、そのように”在”らんとあかん」いうことや。その言葉の意味に注意向けなあかんで。「お前さんはこれ以外の他の何もんでもあらへん」っちゅーな。