6月10日、旅先でホテルで朝食をすませて読売新聞を読んでいたら、書評欄に宮部みゆきさん(作家)が素敵な書評を書いてくださったのに気づきました。
ジャレド・ダイアモンドは驚くべき博学で、生態学で人類史を語り尽くす人だが、最近読んでいる本にバイリンガルのことを書いていた。それによるとアメリカで一つの言葉しか使わない子と、バイリンがルの子の成績を比較したら、後者の方が成績が悪いと言う結果が出たそうだ。私はちょっと意外であり、不満でもあった。だがそれは経済環境などが大きく違う集団を比較したものなので、比較として不適当だったということを明らかにし、後半では適切な比較をしたら、むしろ逆であったという。その理由は、脳の訓練にあるという。バイリンガルの人は毎日どっちの言葉を使うかを判断するから、脳をトレーニングしているのだという。実際、バイリンガルの人はアルツハイマーになりにくいという。
自分の腹の中の言葉が口から出る言葉と同じものであるとしか思えない人と、そうでないことを知っている人では、大げさに言えば世界観が違うのと思う。
ある東京の下町に生まれ育った人が東北弁を聞いて「なんで普通に言わないんだろう」と言った。その人は、自分がそう感じることにつゆほどの疑いも持っていないようだったが、東北人は思ったことをわざわざわかりにくく話すとでも思っているのだろうか。同様のことはアメリカ人からも感じる。彼らは自分の話す言葉は世界中で通じると思い込んでいる。東京人やアメリカ人は、自分たちと違う言葉の人を気の毒に思っているようだが、私に言わせればそれは逆で、違う人の立場になれないという意味で気の毒なことだ。
「せごどん」では薩摩や奄美の言葉が字幕付きで語られるが、リアリティがある。しかしこうなったのは最近のことで、長い間ドラマは東京弁だった。私は前々から思っていたのだが、赤穂浪士は赤穂の言葉、つまり神戸市あたりの方言で喋っていたはずだ。討ち入りが関西弁だとするとだいぶ雰囲気が違うはずだ。
人はお母さんのお腹の中にいる時から耳にした言葉を聞いて心地よいと感じる。生まれてからは、それがどういう状況でどう使われるかを体得してゆく。それが「腹にある言葉」であり、多くの場合、それが「口から出る言葉」でもある。しかし、事情によりその両者が違う人がいる。そちらの方が少数派だから、そちら側の人が多数派に合わせる。そして多数派が哀れんでくれる。私はその少数派だったから、周りに合わせることをしてきた。そのことを「大変だねえ」と同情してくれる人もおり、曖昧な返事をしていたように思う。だが腹の中ではその方が良いと思ってきた。だから方言が好きだった。東京弁にはない表現があると嬉しかった。東京人が持たない感じ方や物事の捉え方をする世界があるのは当然であり、それは素晴らしいことであり、標準化することはそのすばらしいことを失うことだから、してはいけないと思ってきた。
それを見事に表現してくれたJ・ダイアモンドを読んで溜飲を下げる思いがした。私は「他の子と違」っていたのは事実であった。それをコンプレックスに感じていたが、いまではそうではないと思っている。
自分の腹の中の言葉が口から出る言葉と同じものであるとしか思えない人と、そうでないことを知っている人では、大げさに言えば世界観が違うのと思う。
ある東京の下町に生まれ育った人が東北弁を聞いて「なんで普通に言わないんだろう」と言った。その人は、自分がそう感じることにつゆほどの疑いも持っていないようだったが、東北人は思ったことをわざわざわかりにくく話すとでも思っているのだろうか。同様のことはアメリカ人からも感じる。彼らは自分の話す言葉は世界中で通じると思い込んでいる。東京人やアメリカ人は、自分たちと違う言葉の人を気の毒に思っているようだが、私に言わせればそれは逆で、違う人の立場になれないという意味で気の毒なことだ。
「せごどん」では薩摩や奄美の言葉が字幕付きで語られるが、リアリティがある。しかしこうなったのは最近のことで、長い間ドラマは東京弁だった。私は前々から思っていたのだが、赤穂浪士は赤穂の言葉、つまり神戸市あたりの方言で喋っていたはずだ。討ち入りが関西弁だとするとだいぶ雰囲気が違うはずだ。
人はお母さんのお腹の中にいる時から耳にした言葉を聞いて心地よいと感じる。生まれてからは、それがどういう状況でどう使われるかを体得してゆく。それが「腹にある言葉」であり、多くの場合、それが「口から出る言葉」でもある。しかし、事情によりその両者が違う人がいる。そちらの方が少数派だから、そちら側の人が多数派に合わせる。そして多数派が哀れんでくれる。私はその少数派だったから、周りに合わせることをしてきた。そのことを「大変だねえ」と同情してくれる人もおり、曖昧な返事をしていたように思う。だが腹の中ではその方が良いと思ってきた。だから方言が好きだった。東京弁にはない表現があると嬉しかった。東京人が持たない感じ方や物事の捉え方をする世界があるのは当然であり、それは素晴らしいことであり、標準化することはそのすばらしいことを失うことだから、してはいけないと思ってきた。
それを見事に表現してくれたJ・ダイアモンドを読んで溜飲を下げる思いがした。私は「他の子と違」っていたのは事実であった。それをコンプレックスに感じていたが、いまではそうではないと思っている。