夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

貼り紙の「休ませて頂きます」は不遜かそれとも謙譲か

2008年10月28日 | Weblog
 東京新聞の読者欄に「都合により本日休ませて頂きます」と掲示するのはおごり高ぶった表現だ、との投稿があった。「……させて頂く」については私もそう思っていたから、納得して読んだ。そうか、きちんと理解している人はいるもんだなあ、と感心した。
 ところが、数日後、「休ませて頂く」は当然の表現だ、との投稿が載った。正反対の意見である。反対なのは良いが、その投稿は言葉がどうの、ではなく、気持がどうの、と言う事に終始していたのが気になった。
 「買い物しようと出掛けた時、そこが臨時休業していたら客は当てが外れて残念に思う。そのような時、店側に地域に不可欠な一員として物を販売するという自負があれば、〈休ませて頂く〉と言う表現は当然だ」と言うのである。
 こうした考え方は分からなくはない。本当は休んではならないのに、休むのだから、「休ませて頂く」。それが「地域に不可欠な一員として」との考え方である。

 話は飛躍するが、せっかく出掛けたのに、目的の店が休みで、当てが外れて残念に思った時、「都合により、本日休ませて頂きます」とあれば、まあ仕方ないか、と思い、「都合により、本日休みます」とあれば、むかつくであろうか。
 言うまでも無いが、当てが外れて残念なのはどちらでも同じである。
 そうじゃない。だから、あくまでも気持の問題なのだ、と言うのだろうか。
 それでは、その気持とはどのような事なのか。
 この後からの投稿者は、「休みます」は自己主張でしかないが、「休ませて頂きます」なら謙譲の気持がある、と感じている。それは「頂きます」がそうした言葉だからだ。
 「頂く」は「目上や地位が上の人からもらう」で、自分が目下であると意識しているから、謙譲の気持がある。「頂く=頭の上に乗せる」。これは相手を尊敬する形である。これは誰もが自然に理解出来るはずである。つまり、店は客に対して謙譲の気持でいる。
 では「休ませて」の意味は何だろうか。「……させる」の意味が何か、である。言うまでもなく「させる」は使役の動詞だ。「使役」つまりは命令である。店を休ませるのは誰なのか。まさか客ではなかろう。そして「頂く」のはあくまでも店側である。
 店は、本当に誰から命令されてそれを受けているのだろう。

 この事について、持っている七冊の辞書の中で、一つだけ答を示しているのがある。『岩波国語辞典』である。
 「本来は浄土真宗を信仰する者が仏のお恵みにすがりお許しを頂くという気持で使った言い回しが広まったもの。その気持も無く乱用するのは(相手の了解を取ったことを前提とする表現になるから)押しつけがましい」
 これだけではちょっと分かりにくいが、例えば「見させて頂く」などを考えてみよう。「見る」と意味は同じだ。見るのは自分である。それを「させる」と命令形にする。仏が見ろ、と言うのではない。あくまでも自分の意思である。つまり、自分が自分に命令している。この「見させて頂く」は堂々と権利を主張して見るような場合ではない。遠慮がちに言う場合である。それが「店が不可欠な一員である」との気持に通じる。
 当然の権利としてではなく、遠慮がちに、なのだが、そこには仏のお許しがある。だから堂々とした言い方にもなる。そして仏のお許しだから「頂く」の言い方になる。

 この「見させて頂く」は「拝見する」、丁寧になら「拝見致します」で良いのである。その方がずっと気持が素直である。同じように「休ませて頂きます」は「休業致します」で良いのである。何しろ、実際にしている事は寸分違わないのである。
 結局、休むのは自分なのだ。店なのだ。客の都合を聞いている訳ではない。だから、「岩波」が言うように、「相手の了解を取った事を前提とする表現」になるのである。
 「本日休ませて頂きます」は、仏様からお許しを頂いているんだからね、だから休むんだからね、と言っている事になるのである。もちろん、当人はそうは思っていない。けれども、この言い方の裏には、こうした気持が隠れている、本人は気付かずとも、そうした気持が存在している。
 なぜ「仏の許し」が「相手の了解」になるのかと言うと、そこには仏の広大無辺な優しさがある。どんな罪でも許して下さる心がある。それは当然に誰もが了解出来る優しさなのである。

 これは理屈かも知れない。気持の上ではそうじゃないんだ、と言うかも知れない。しかし言葉とはある決まりがあって通用している。多くの人々の共感があって初めて成立する。「させる」との言い方が使役である事は誰もが承知している。そうであれば、「休ませて」に不自然さを感じるのが当然なのだ。自然なのだ。
 「させて頂く」は謙譲の言い方だと誤解して広まっているようだが、間違いは間違い。私は安易にカッコイイ言い方に飛び付く習性が生んだ言葉の一つだと思っている。少なくとも、浄土真宗の信仰者以外に広まっている以上はそうなる。我々は、どうも、よく知らない言葉や言い方に幻惑させられる傾向がある。その端的な現れが、昨日も書いたが、カタカナ語をすぐに口にする習性となっているのである。インテリと自負している人ほどその傾向がある。
 この「させて頂く」は拙著『わかったようでわからない日本語』(洋泉社新書)に書いた。こうした言葉については、その後に思い付いた事や発見した事などもあるので、改めて採り上げて行きたいと思っている。それにしても我ながら下手なタイトルを付けたもんだ。ホント、売り込みが下手くそなんだから。

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