志情(しなさき)の海へ

琉球弧の潮風に吹かれこの地を掘ると世界と繋がるに違いない。世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

人の名前が一つではなく曖昧であるというフィクションに驚く午後!(沖縄芝居台本の出版を!)

2015-02-25 19:04:49 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題

                 (彼女は美しい。戦前多くの琉球美人が絵葉書や写真に撮られて、販売された!)

芝居台本を見せていただきたいとお願いしていたのだが、なぜか彼女は協力的ではなかった。DVDはあるのだが、セリフや音楽の正確なところを確認したいのだが、なぜ「守り」の態勢なのだろうか?沖縄芝居台本集がやはり出されるべきだ。DVDですべてがカバーできないのである。真喜志康忠沖縄芝居脚本全10巻の企画が潰れて久しい。沖縄県は、組踊戯曲集のような、沖縄芝居台本集の出版の助成をすべきだね。文化関連部局のセンスのなさで、まだ脚本集が出されていないね! 

今上間郁子さんについて論を書いているのだが、シンポジウム用の報告書にも収録したいのだが、間に合うだろうか?古典女踊りについても、両性具有性は女形そのものが表象としてそうなのだが、その女形の理論ともことなる表象の両性具有について、まとめなければ、です。このコーナーでも紹介した写真などもPPTで紹介したい。

琉球・沖縄の芸能はもう遊郭、ジュリ、芸能が溢れている状態で、歌舞伎的だね。歌舞伎の遊女物語芝居の多さと同様の現象である。遊郭が芸能の母体の役割を果たしたことは近世から近代にかけて、紛れもない事実だから、無視できないね。しかし、戦前あれだけ蔑んだ芝居や芸能の世界だが、現在、歌舞伎と同じで、文化のコアとして前面に出ている。それは好ましい。しかし、歴史の推移をまるで、無視したように澄ましてしまう傾向がこの近世から二重植民地的政体だった琉球、そして近代の沖縄に目を向けると、貧しかった小国家の生業の必死な歴史の諸相が(支配層の必死な身振り、制度)が、美に醜もからんで迫ってもくる。

フィクション化される経歴もある。舞踊家や芸能人の経歴のフィクションはそれも身過ぎ世過ぎの生きる闘いの痕跡だったということになるのかもしれない。ジュリとの恋愛、詰みジュリにした女性たちが沖縄芝居役者にも多かったのだろう。ジュリだった母親やジュリだった祖母という方々も芸能界では別に変わった経歴ではないのだが、それを秘匿したがるのは、まだ遊郭やジュリが継承してきた芸能が正当に評価されていないからだ、というのが、こちらの説だが、一方でサムライ、ヒャクショウの身分制度の痕跡がついてくる。その中で貧しい故にジュリ売り、糸満売り、坊主売り、下男奉公させられてきた人々の歴史がある。その点山之端つるさんは凄かった!『眉屋私記』は近代沖縄の歴史の断片がチリばめられている。貧しいゆえに姉妹3人が遊郭に売られたのである。そうした事例は他にもあったに違いない。上間郁子さんも貧しい家庭に生まれた。お二人のお姉さま方もジュリとして売られたのである。その貧困の悲しみを哀れさを身にしみて体験(経験)してきた女性の芸能者としての艶やかな人生は、虚構の美の中で輝いていった。それが沖縄の文化伝統の宝石にもなっていったのだ。無形文化はすぐ消えていくが、昨今は、記録媒体技術が優れているので、永遠に舞踊も、舞台芸術も鑑賞できるようになった。消えない美が残された。

セクシュアリティーの拡散、カオスの中で新たに再生される層なり意識なり、価値なり、社会の流動性の中のドラマがまたあるのは、無常を生き、生かされている人生の無数のドラマそのものかもしれない。

東南アジアには琉球髪と同じ髪型がある!



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